2005年のヨハネ・パウロ2世の死去にともなう前回のコンクラーベによって、日本人にもコンクラーベの名はよく知られるようになった。
コンクラーベ(CUM CLAVIS)はラテン語で、鍵で閉めるという意味だ。文字通り、選挙に参加する枢機卿たちは、新法王が決まるまで鍵のかかった部屋に閉じこもらなくてはいけない。そこで3分の2以上の票を獲得した者が法王となる。現行の決まりでは、最初の10日間に30回まで投票しても決まらないのであれば、枢機卿の5割以上の賛同を得たうえで、過半数の票獲得でも選出できる。ただし昔はこれが、得票数が3分の2以上に達しなければ延々と投票を繰り返し、しかも3日間で決まらなければ、その後の5日間は食事が一菜のみとなり、さらに長引けばパンとワインと水しか支給されなかったという。そう考えると、「根競べ」という当て字もあながち間違いではなさそうだ。
このように厳正な選挙によって決まるローマ法王は、最古の選挙制公職ともいわれる。だが、いわゆる政治家とも、もちろん王族とも違う。それゆえ、カトリックの信者でもないかぎりその偉大さというのが、いまいち実感しにくい。一体、ローマ法王とは何者なのか? あれこれ関連書籍を読んでみて、何となくわかったのはまず、ローマ法王が現在ヨーロッパと呼ばれる地域の歴史に、その成立から深くかかわってきたということだ。
キリストの12人の使徒の筆頭であったペテロが、パウロとともに創立したローマ教会は、彼らが当時のローマ皇帝ネロのキリスト教弾圧により紀元60年代に殉教して以後も、ローマ帝国をはじめその時々の最大勢力と対立、あるいは結託しながら、教会そのものがヨーロッパ全体を指導する一大権力となっていった。
しかし、絶対王政、さらには市民革命による国民国家の台頭により、ローマ法王の世俗的な実権は失墜していく。1870年のイタリア統一に際してはすべての領地を失った。それでも、長い歴史のなかで培った外交能力を武器として、世界中にネットワークを広げ、国際社会への発信力を強めていく。その後、1929年にイタリアと結んだ「ラテラノ条約」により、面積44ヘクタール(東京の新宿御苑が約58.3ヘクタールなので、それよりも小さい!)という世界最小の独立国「バチカン市国」が成立、法王はその国家元首という新たな肩書を得て、現在にいたっている。
約2000年のうちに、ペテロから数えてベネディクト16世まで265代にわたるローマ法王の系譜を、ニュースサイトの記事に収めるのはとても難しい。そこでこの記事では、そのなかでも、とくにきわだった法王と、それをめぐるトピックスを選んで紹介してみたい。
■「大法王」と呼ばれたレオ1世
初代法王は、キリストの筆頭使徒であるペテロということになっているが、彼の生前には法王という称号はなかった。初めてその生前に法王と呼ばれたのは、5世紀のレオ1世(在位440~461年)だとされる。レオ1世は、フン族の王アッティラを説得し、イタリア侵攻を思いとどまらせたことで知られる。このとき和平を実現してローマに戻ったレオを、大衆は「大法王」と呼んで迎えたのだった。
■皇帝が法王に謝罪!――「カノッサの屈辱」
ローマ・カトリック教会では9世紀以降、内部での権力争いが続き、中央権力も腐敗をきわめた。それを正すべく、レオ9世(在位1049~1054年)の着手した内部改革を完成させたのが、前出のグレゴリウス7世であった。
改革の達成後しばらく、ローマ法王はヨーロッパのほかの国と比肩する独立権力として、隆盛をきわめた。有名な「カノッサの屈辱」もこの時代のできごとだ。これは、神聖ローマ帝国(現在のドイツに位置する)の皇帝ハインリヒ4世が、俗人(王)による聖職者任命を禁じたグレゴリウス7世に対し退位を迫ったことに端を発するもの。法王は即座に皇帝を破門、さらにはもともと皇帝に不満を抱いていたドイツ諸侯に呼びかけて、皇帝への忠誠義務を解くなどした。慌てた皇帝は、1077年1月、法王の滞在するイタリア中北部のカノッサ城に赴き、粗布を身にまとい裸足のまま、雪中を3日間、城門の前にたたずんで赦しを請い、ようやく破門を解いてもらったのだった。
もっとも、のちになると、周辺の国との立場は逆転する。カトリックに対しとくに厳しい態度をとったフランス王フィリップ4世は、1309年には法王庁をローマから南フランスのアビニョンに移して、完全に支配下に置いてしまう。法王庁は1377年にはローマに戻ったものの、まもなくしてローマとアビニョンに法王が両立してお互いに破門しあうという「大分裂時代」(1378~1417年)に突入した。
■ミケランジェロ、ラファエロ……大芸術家たちを擁護した法王たち
大分裂を乗り越え、法王は再びローマに落ち着く。
華やかな芸術が花開く一方で、ローマ教会は資金づくりとして免罪符を売りまくった。それがやがてルターなどによる宗教改革、プロテスタントの成立を招くことになったのは、周知の通り。
■ローマ法王を女体化!?――「女法王ヨハンナ」の伝説
ここしばらく、織田信長など、歴史上の英雄たちを女性キャラとして描いた作品が立て続けに登場している。こんな傾向が見られるのは、昨今の日本だけだろうと思いきや、15世紀から18世紀にかけてのヨーロッパでは何と、男しかなれないはずのローマ法王に女性が就いたとの話が流布したことがあったという。
その伝説は、レオ4世(在位847~855)のあとのヨハネ8世が、じつはヨハンナという女性だった、というもの。もっとも、ヨハネ8世という法王は実在はしたものの、レオ4世の後任ではない。レオ4世の後任にはベネディクトゥス3世が選ばれたのだが、ライバルのアナスタシウスに追われてしまう。やがてアナスタシウスは「反法王」として歴史から抹殺、ベネディクトゥス3世が返り咲く。
この伝説はプロテスタント信者などのあいだで、たびたび芝居などの題材にとりあげられた。そこではさまざまな脚色が加えられることになる。たとえば、18世紀末、革命後のフランスで上演された音楽劇『女法王ジャンヌ(ヨハンナ)』では、冒険好きの娘が男装し、数人の恋人を暗殺してからローマへ行き司祭となり、さらには枢機卿となって法王にまで選ばれてしまう……というふうに描かれた。ヨハンナが選ばれたのは、あまりにも聖職者たちが堕落しており、そのなかにあってもっとも品行方正に見えたから、という筋立ては、当時のローマ教会への痛烈な皮肉となっている。
■「神はわれわれの嘘など必要としない」――レオ13世
ヨーロッパの近代化が進むなかにあって、法王が持っていた特権も否定されていった。領地はかろうじて残されたものの、それも1870年のイタリア統一にともないローマは占拠され、法王領もすべて奪われた。法王は完全に世俗の権力を失ったのだ。しかし《俗権力を放棄することで一種の贖罪を果たし、宗教にふさわしい清らかさを取り戻すことができた》との見方もある(竹下節子『ローマ法王』)。
これまでのカトリックの歴史を省みる動きが出始めたのもこのころだ。たとえば、レオ13世(在位1878~1903年)は、近代文化との和解をめざし、科学技術の発達にも興味を示した。祝福を蓄音機に録音する肖像画も残っている。
■「空飛ぶ法王」――ヨハネ・パウロ2世
第二次大戦後のローマ法王からひとりを選ぶとしたら、やはりこの人ということになるだろう。1978年、ヨハネ・パウロ1世が就任からわずか1カ月で亡くなったのち、新たに法王の座に就いたのがポーランド出身のヨハネ・パウロ2世だった。就任当初より精力的に世界各国をまわり、人々との対話を続けたヨハネ・パウロ2世は、「空飛ぶ法王」の異名をとった。1981年には法王としては初めて来日もしている。
最近、DVD化された映画「ローマ法王の休日」(ナンニ・モレッティ監督、2011年)は、コンクラーベで選出された新法王が、あまりの重圧に耐えかねて街へ逃亡をはかるという話だった。そこで登場する法王はルックスといい、演劇好き(チェーホフの戯曲「かもめ」のセリフを暗唱できた)なところといい、ヨハネ・パウロ2世を思い起こさせた。実際の法王も、青年時代に地下演劇活動に打ちこんでいたことがあるのだ。
ただ、ヨハネ・パウロ2世はむしろ演劇経験のおかげで、演説を得意とし、それをもって外交などで大きな成果をあげたという点で映画の法王とは決定的に違う。その成果としてはまず、当時、共産党独裁体制にあった母国ポーランドでの民主化運動を支持し、その後の東欧革命と東西冷戦の終結へのきっかけをつくったことがあげられる。また、それまでローマ・カトリック教会の歴史上のあやまち……十字軍による侵略や異教徒の虐殺、ガリレオへの糾弾やルターの破門などに対し、次々と謝罪したことも特筆されよう。
そんなヨハネ・パウロ2世だが、晩年は健康状態が悪化し、信者たちからは退位をすすめる声もあがった。しかし本人は、「(法王が生きている限り)『元法王(名誉法王)』という称号はいままでなかったしこれからもない」と、退位を拒否した。その点では、今回、高齢を理由に自ら法王の座を退いたベネディクトゥス16世とは対照的だ。なお、ローマ法王の生前の退位は、1415年のグレゴリウス12世以来、約600年ぶりのことである。
今回あれこれと資料を読んでいて、とくに面白かったのは、先にも引用した竹下節子の『ローマ法王』という本だった。その序章にはこんなことが書かれている。
法王を元首とするバチカン市国は、記事冒頭にも書いたように世界でもっとも小さい独立国だ。しかし、カトリックは世界中に10億人以上もの信者を有し、絶えず情報を発信し続けている。ここから著者はバチカンが《ネットワークを駆使した最先端の巨大なヴァーチャル国家という側面をもつ》ことを見出し、《その頂点に立つローマ法王は、まさに超国家的、いや超宗教的な怪物だとさえいえるだろう》と書く。「超宗教的」というのは、近年の法王は、ほかのキリスト教の宗派や異宗教との対話にも積極的だからだ。
ひょっとすると、仮に将来、国民国家に代わる、新たな国家システムが生まれるとするなら、それはバチカン市国のようなものなのではないだろうか。そう考えると、その指導者であるローマ法王は、古いようでいて、じつは未来を先取りした存在ともいえそうだ。(近藤正高)