本能寺の変で織田信長が無念の死を遂げてから一年も経ずして天下統一を実現した男・「豊臣秀吉(とよとみひでよし)」。他の有能な織田家家臣がいたのにも関わらず、なぜ彼がひとり突出した動きを見せたのでしょうか。


それは鋭い戦術家で、果てなき天下統一の野望を持っていたからにほかありません。

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豊臣秀吉(Wikipediaより)

秀吉の原動力となったのは“中国大返し”です。そのスピード行軍の理由として第一に挙げられるのが、即座に毛利と講和を結べたことでした。秀吉は、毛利の居城を攻めるのと同時に使者を送り、万が一の事態に備えるために講和を進めていたのでした。柴田勝家や滝川一益とはこの時点で大きな差がついていたのです。

「山崎の戦い」で明智光秀を討った秀吉が次に対峙したのは、織田家家臣時代に鬼柴田と恐れられていた柴田勝家でした。このときの戦いを「賤ケ岳の戦い」といいますが、この戦いにおいても秀吉は、人が考えつかないような奇抜な戦術を用いています。

それは、“中国大返し”をも凌ぐスピードで戦場へ駆けつけた“美濃大返し”と呼ばれる行軍術。

このとき、15000人の豊臣軍が、約52キロの距離をわずか5時間で駆け抜けたそうです。このスピードを可能としたのが、事前に食糧や武器を行軍の途中で補給できるように整備していたためでした。

予想よりもはるかに早かった豊臣軍の到着に、さすがの鬼柴田も動揺を隠せませんでした。その動揺は軍の士気にも影響を与え、当然敗走。
秀吉は天下をほぼ手中に収めることになったのでした。

天下を統一した秀吉はその晩年、海を飛び越え朝鮮半島に攻め込み、中国大陸を目指します。

近年の研究によると、この攻撃は対スペインへの外交戦力のために行ったと考えられていますが、彼を突き動かしたのは外交政策でも狂った野心でもなく、権力に対しての執着心だったといわれています。

当時、秀吉が得ていた太閤という地位は、日本のなかでは天皇に次ぐもの。国内の最高権力者といってもいわば二番目にしかすぎません。そこで秀吉は、中国の皇帝となることで、名実ともにトップに立とうとしたのです。

秀吉の行動は結局果たされずに終わりましたが、この行動は17世紀に明が急速に弱体化する原因となり、アジア諸国に大きな影響を及ぼすことになるのでした。

参考

  • 『完訳フロイス日本史〈4〉秀吉の天下統一と高山右近の追放―豊臣秀吉編(1) 』
  • 『完訳フロイス日本史〈5〉「暴君」秀吉の野望―豊臣秀吉篇(2) 』

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