幕末の動乱が最高潮に達していた1868年1月。京都近郊で、江戸幕府軍1万5千と明治政府軍5千が激突しました。
いわゆる鳥羽伏見の戦いです。

数の上では優位にあった幕府軍ですが、結果は惨敗。敗因は色々ありますが、藤堂家の部隊が、幕府側から明治政府側に寝返ったことが決定的でした。

その影響もあってか、今日でも否定的に描かれることの多い藤堂家の始祖・藤堂高虎。しかしその足跡を追ってみると、変節漢どころかむしろ義理堅い苦労人という人物像が浮かび上がってきます。

そしてその生き様からは、現代を生きる我々が参考にすべきキャリア開発やフォロワーシップを学ぶことができるのです。

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主君を次々と変えた変節漢?身長190cmを超す規格外の巨漢武将・藤堂高虎【前編】

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藤堂高虎(Wikipediaより)

■四人目・活躍は認めてもらえたものの

新たに主君となった織田信澄(おだのぶずみ)の下で、高虎はなんだかんだで活躍をします。そしてその活躍を認められ、親衛隊に抜擢されることになるのです。

「親衛隊になった以上、馬などもしっかりと用意せねば……あれ?」

しかし、領地の追加はありませんでした。
当時の武士は主君から土地を与えられ、そこから得た収入で武器や防具、馬などを自分で用意するのが原則でした。親衛隊になれば必要経費も増えます。が、収入は据え置かれてしまったということです。


「殿、これでは必要経費も賄えません」

直談判するも、信澄からはついに良い返事を得ることができず。見切りをつけた高虎は、信澄の下を去ることにしたのです。

こんな感じで信澄とはイマイチな別れ方をした高虎ですが、本能寺の変によって生じた混乱の中で信澄が命を落とすと、その妻と幼い息子を高虎は保護しています。

さらに後年、信澄の息子は豊臣家に仕えて大坂の陣で徳川と敵対します。豊臣家が滅びると囚われの身となりますが、高虎のとりなしによって命を助けられ、最終的には江戸幕府の旗本となって天寿を全うすることができました。

■五人目・ついに巡り合った理想の上司

織田信澄の下を去った高虎はしばらくニート生活を送っていたようですが、友人の紹介で羽柴秀長(はしばひでなが)に仕えます。織田信長の重臣であった羽柴秀吉の実弟であり、右腕として兄を支えていた人物です。

主君を次々と変えた変節漢?身長190cmを超す規格外の巨漢武将・藤堂高虎【後編】


羽柴秀長 肖像

秀長は高虎の実力を高く評価し、300石で彼を召し抱えます。

「いきなり給料が3倍に!」

感激した高虎は秀長のために全力を尽くすことを誓います。1576年、高虎が20歳の時でした。

その誓い通り、ある時は戦場で、ある時は行政官として、ある時は外交官として働いた高虎はその活躍を認められ、誰もが認める秀長の重臣にまで昇り詰めました。与えられた領地も2万石という広大なものになっていました。


秀長の兄・秀吉は天下を統一したために、秀長と高虎の地位もそれに引きずられるようにして上がっていったのです。

しかし1591年、敬愛する上司・秀長は多くの人に惜しまれながら病死(享年52)。後を継いだ秀保(ひでやす)も1595年には夭折(享年17)し、秀長の家系は断絶してしまいます。

「もはやこの世に未練はない。僧になって秀長さまの冥福を祈ろう」

世を儚んだ高虎は出家を決意し、高野山に登ったのでした。しかし、高虎ほど有能な士を、世間は放っておかなかったのです。

なお、高虎は秀長を生涯にわたって慕い続けたようです。江戸幕府成立後も幕府の許可を得て、秀長の法事を営み続けていました。

■六人目・秀長さまの兄ではあるが

高野山にいた高虎の下に、亡き秀長の兄で、天下人となった豊臣秀吉(とよとみひでよし)から直属の部下として現役復帰しないかという誘いが舞い込みます。

主君を次々と変えた変節漢?身長190cmを超す規格外の巨漢武将・藤堂高虎【後編】


豊臣秀吉肖像

「秀吉さまか。あれほど尽くした弟の家系を断絶させた方ではないか。たしかに後継者はいなかったが、その気になれば養子を取らせるなどして存続させることはできたはずなのに……」

そんな思いがあったのか、なかなか良い返事をしなかった高虎ですが、最終的には承諾し、伊予(愛媛県)宇和島7万石を与えられて大名となります。


新領地である宇和島が水軍の拠点であったことから、水軍を率いて秀吉の朝鮮出兵(慶長の役)に参加。海戦はもちろん、陸戦でも戦功を立てています。

そして1598年、秀吉が没する少し前から徳川家康に接近。
1600年に起きた関ヶ原の戦いでは、東軍主力として戦ったのはもちろん、西軍の切り崩し工作も行いました。

関ヶ原の戦いでは小早川秀秋の西軍から東軍への「寝返り」が有名ですが、実は秀秋の挙動が怪しいことは西軍首脳も見抜いており、その周辺に脇坂、朽木、小川、赤座といった大名たちを配置して秀秋の裏切りに備えていました。

しかしその四人は高虎の手によって東軍に通じていたため、本来小早川勢を防ぐはずだった連中がいっしょになって襲い掛かってくるという、西軍にとっては悪夢のような光景が現出したのでした。

■七人目・徳川家の忠臣として

かくして関ヶ原の戦いを制した徳川家康は1603年に征夷大将軍に任ぜられ、江戸幕府を開きます。これに伴い、高虎も江戸幕府の大名となったのです。

その後も大坂の陣、江戸城の改築、朝廷との折衝、他の大名家のフォローなどで活躍。徳川家康(とくがわいえやす)はもちろん、その後継者である秀忠(ひでただ)、家光(いえみつ)からの信頼も厚く、最終的には伊勢・伊賀に移され、32万石を領する大大名になります。

そして1630年、75歳でこの世を去ったのでした。その遺骸は老人とは思えないほどたくましく、その全身は傷跡だらけで隙間もないほどだったと言います。


■転職回数が多いのは悪いこと?

高虎の職歴をまとめると以下の通りです。

主君を次々と変えた変節漢?身長190cmを超す規格外の巨漢武将・藤堂高虎【後編】


合計6回の転職で7家に勤めており、確かにこれは当時でも多いほうです。

しかしここまで見てきた通り、人間関係の悪化(あるいは若気の至り)や勤務先の消滅などが転職理由のほとんどでした。

そして、羽柴秀長という仕えるに値する主君を見つけた後は一途に尽くしており、元主君の遺族を保護していることなどから、変節漢どころか義理堅い人物だったと言えるのではないでしょうか。

戦国時代の武士たちは、自らが仕える主君を自らの意思で選んでいました。こいつは実力がないな、こいつは自分を正当に評価してくれないなと思えば、見限るのはむしろ当然のことだったのです。

しかし江戸時代になると

「武士は二君に仕えず」

という倫理観が形成されます。主君がどんなに無能でも、どんなに自分をさげすんでも、一途に仕え続けるのが忠義である、と。

その価値観に従えば、たしかに高虎のキャリアは眉をひそめるものです。しかし所詮は後付けの評価。高虎にそれを言ったところで、鼻で笑われるだけでしょう。

身長190センチ、全身傷跡だらけのマッチョを相手に、そんなことを言える人がいればの話ですが。


ここまで、藤堂高虎の経歴をご紹介してきました。

高虎は己の能力を磨き、これと見込んだ主君のために惜しみなくそれを発揮し、それによって絶大な信頼を得ることができました。その辺りを詳しく見ていくことで、キャリア開発やフォロワーシップといった、現代を生きる我々の参考になる考え方を学ぶことができます。

機会があればその辺りもご紹介できればと思います。

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