市川真由美さん(54)は、奈良市のNPO「無戸籍の人を支援する会」代表だ。
法律の専門家ではないと話した市川さんがなぜ、じつは日本に1万人以上もいると言われている「戸籍のない人々」の支援をするようになったのか。
市川さんは奈良市で結婚し、長男長女に恵まれた。そして10年1月に、夫婦でイベント会社「いち屋」を始めた。いち屋を始めて5年ほどしたころのこと。ちょうどマイナンバー制度も始まっており、従業員らに住民票の提出を求めた。ところが、20歳前のバイト女性だけが、いつまでたっても応じてくれない。
彼女の返答は「住民票がないんです」。市川さんは彼女のサポートをするべく、役所や法務局に足を運んだ。そして、戸籍がなく、そのせいで住民票もないまま暮らしている無戸籍者たちがさらされている厳しい現状を知っていった。学校に通えなかったり、保険証がないので病院にかかりづらかったり、就職が困難な場合も。原因はDVや強制労働などさまざまだ。そんな“無戸籍者”が近くにいた衝撃と、彼らの抱える理不尽を目の当たりにしてじっとしていられる市川さんではなかった。
「普通に生活してきた人が、1枚の書類が取れないだけで、この世にいないものとされる。その理不尽にふれ、ほっとけなくなって。その後は、(アルバイトの女性の)弟さんにも協力してもらい、アルバム写真など、彼女がたしかに一緒に育ってきたという証拠集めから始めました」
市役所の戸籍課や奈良地方法務局と交渉を繰り返し、1年半かけて戸籍を取得することができた。
「ラッキーだったのは、このときの行政の担当者がみなさん“いい人”で、交渉がスムーズに進んだこと。これが厳しい対応だったら『二度と来るか』で、今の私はいなかったかも(笑)」
しかし、本格的に無戸籍者支援に乗り出すまでには、まだ2年の歳月が必要だった。
「ひとたび関わったら、その人の人生がかかっていることで、『ごめん、できなかった』ではすまされない問題だと、その責任の重さを感じました。そのうちに、あのバイトの女のコが戸籍を得て、銀行口座もカードも作れて無事に社会に旅立つんです。その姿を見て、やっぱり私は知らん顔はできひん、と思って。だから、あの2年間は、私にとっての助走期間だと思っています」
16年7月、「無戸籍の人を支援する会」を立ち上げた。
■自分に戸籍はなく、夫は雲隠れ。娘と心中しようと思ったが市川さんに出会った
〈無戸籍のため働けず、親子3人、心中するしかないです。戸籍の問題を解決して、なんとか食べていけるよう手伝ってください〉
今年1月、こんなメールを受け取った市川さんは、直感する。
「これは、はよ(早く)会いにいかなあかんな」
すぐに電話を返し、続いてLINEもつなげ、翌月には住まいのある埼玉県を訪れていた。相談者のミサさん(仮名)は27歳で、小2と保育園児の2人の娘を持つシングルマザーだった。
「まず、30年ほど前に、ミサちゃんの母親が“ジャパゆきさん”としてフィリピンから来日し、結婚。夫のDVで避難しているとき、新しい日本人男性のパートナーと出会ってミサちゃんが生まれますが、出生届を出すと前夫に気づかれる恐れもあって、無戸籍のままミサちゃんを育てたんです」
ミサさん本人も、自宅で取材に応じてくれた。
「幼少のころは東京都内で暮らしていて、小学校には通えませんでした。それが小2で埼玉県に引っ越した途端に通学を許され、健康保険証ももらえました。同じ日本なのに、地域によってこれほどの差があることにまず戸惑うんです。
中学からは戸籍取得に向け自分でも全力で働きかけましたが、市役所、家庭裁判所、法務局、弁護士など、どこへ行っても返事は同じ。『前例がありません』の門前払いです。私が半分外国人だから面倒くさいと思われたのかな。
結婚は19歳で、相手は12歳年上の日本人。無戸籍なので、事実婚です。
次女の誕生直後には、夫も姿をくらましてしまった。
「仕方なく、祖母の年金と住民票のいらない食品工場のパートなどで食いつなぎました。水商売もしましたが、今どき、夜の仕事もマイナンバーがないと続けられないんですよね。私は幼いころから、母親に『なんで私を産んだの』と、恨み続けてきました。ところが、自分が母親になって、戸籍がないために出生届も出せず、今度は私が実母と同じ仕打ちを娘たちにしようとしている。これが何よりつらかった。母親失格の自分に絶望し、もう子供と死ぬしかないと思ってグーグルで“無戸籍支援”と入れて検索したら、最初に市川さんに行き当たったんです」
こんな本音もこぼれた。
「でも、それまで人に裏切られてばかりだったから、正直、期待はゼロでした。ところが、市川さんが市役所に掛け合うと、2週間くらいで仮の住民票が取れたんです。当初、やっぱりというか、市役所の窓口の担当者は熱心ではありませんでした。しかし市川さんが『今では国も無戸籍問題の解消について政策を掲げてますよ』と話すと、急に動きが早まったり。市川さんは、熱い人。
念願の住民票が取れたときの喜びを聞こうとしたら、またも意外な言葉が返ってきた。
「うれしさが3割、怒りや葛藤が7割です。それは、20歳以下なら、もっと簡単に戸籍を取得できる方法もあったと、最近知らされたからです。だったら、私のあの中学時代からの訴えや努力はなんだったのかと。住民票はたかが薄い紙1枚ですが、やっぱり重いです。戸籍が取れたら、運転免許を取り定職に就いて、子供たちをディズニーランドに連れていきたい」
市川さんは、こう語る。
「ミサちゃんの場合は、母親が病院の出生証明を持っていたのが大きかった。今、彼女が、自分の経験を生かして『同じ立場の人を支援したい』と、実際に行動し始めているのがうれしいです。今後は正式な住民票、そして戸籍を取って、最終的には日本への帰化を目指します。フィリピンの行政も絡みますから、道のりはけっして平坦ではないでしょうが、一緒に頑張ります。
無戸籍支援は、住民票や戸籍が取れて『はい、おしまい』ではなく、すべて継続中。
無戸籍の人たちに寄り添う“人生の伴走者”としての活動は続く。
「いろんなとこに友達がおると思うとうれしい。友達は1人でも多いほうがいいでしょ。無戸籍では病院にもかかれないんですが、私が会った人は不思議に大病してなかった。それが住民票や戸籍が取れそうとなると、途端に歯が痛くなったり、アトピーが出たりする。初めて人としての血が通いだすんやろうねえ」 会の設立から5年。12人の住民票と2人の戸籍を獲得できた。
■もっと忙しくなろうとそれでいい。1人でも、戸籍のために苦しむ人が減るならば
「うちのカミさんは、ご覧のとおり、24時間あのまま。テンション高くいつも動いてるでしょ(笑)。無戸籍支援では、ほんまに頑張ってるなと思いますが、じつはがんの後遺症もあるし、寝不足で交通事故寸前なんてこともありましたから、健康だけが心配ですね。独立した息子は『誇らしい肝っ玉母ちゃん』と言うし、今、大学で教職取得に挑む娘は、母親の活動に興味が出てきたようで、レポートのためのインタビューみたいなこともやってましたね」
市川さんの夫の真さん(52)は語る。
同時に、市川さん本人には無戸籍支援での夢、いや具体的な行政への要望がある。
「役所に『無戸籍課』を作って、相談しやすいよう専用窓口を整えてほしい。無戸籍の人たちは、自分は悪くないのに、恥ずかしさやうしろめたさを抱えてはるんです。まあ、さんざん役所の悪口も言いましたけど、私たちの活動は、行政のみなさんの協力なしにはできんことですから。だから互いが歩み寄り、1人でも多くの人がこの問題に耳を傾けてくれるような環境作りができるといいです」
市川さんの活動ぶりが知れ渡り、先日は、ある地方の市の担当者から「子供の出生届を出したくないと言う母親の話を聞いてやってもらえないか」との相談を受けた。この、まさかの行政側からの依頼には、驚いたというが。
「すぐにその2人の幼子を持つお母さんと話をさせてもらって、なんとか解決できました。今後、そういうケースも増えるかもしれません。ますます忙しくなる? いいんです。1人でも、たった1枚の書類のために死ぬほどの思いをする人が減るんなら。あっ、すいません、また電話」
そう言ってキッと表情を引き締め、相談者と話すため携帯を手に取る市川さんだった。