理想だった古民家移住の始まり
「雑誌の特集を見て、理想を描きすぎました」長野県の山間部に移住した元広告ディレクターの高橋浩二さん(仮名・61歳)は、自嘲気味に笑う。
東京の中堅広告会社で長く働き、58歳で早期退職。退職金は約2900万円、預貯金を合わせると手元資金は3300万円ほどあった。都内のマンションを売却する選択肢もあったが、「老後は自然の中で、夫婦で静かに暮らしたい」という思いが強く、雑誌で見つけた長野県の古民家にひと目惚れした。
築70年超の古民家を購入し、断熱改修や水回りの全面リフォーム、薪ストーブの設置などで追加費用は800万円近くにのぼった。それでも高橋さんは満足していた。
「これで終の棲家ができた。都会のせかせかした暮らしから抜け出して、ようやく自分たちの時間を取り戻せると思ったんです」
朝は縁側でコーヒーを飲み、昼は畑をいじり、夜は夫婦で地酒を楽しむ。そんな“晴耕雨読”の老後を思い描いていた。だが、現実は雑誌の見開き2ページのようにはいかなかった。
まず苦しかったのは、想像以上に地域との距離が近いことだった。町内会、草刈り、用水路の掃除、祭りの手伝い、防災訓練、消防団の寄付。
近所の人は親切ではあった。ただ、その親切は都会の感覚とは少し違った。野菜をもらえば、こちらも何か返さないといけない。畑を放っておくと、「せっかく土地があるのにもったいない」と言われる。平日の昼間に車がないと、「奥さん、どこか具合悪いの?」と噂になる。
「悪気がないのはわかるんです。でも、妻にはそれが全部しんどかった。東京なら隣に誰が住んでいるか知らなくても平気だったのに、ここでは“知らない”では済まないことが多かった」
妻を追い詰めた田舎の濃密さ
決定的だったのは、人間関係の密度よりも、妻の孤立だった。高橋さんは地域の寄り合いに顔を出し、畑の話題で会話もできた。一方、美和子さんの友人はみな東京や横浜にいた。気軽に会える相手はおらず、電車一本で出かけることもできない。車社会の土地で、冬になれば道は凍る。移住1年目の終わり頃から、妻は口数が減った。食卓でも「うん」「別に」としか返さない日が増えた。高橋さんは「そのうち慣れるだろう」と軽く考えていたという。
「自分は会社も辞めて、都会も捨てて、やっと理想の暮らしを手に入れた気分だったんです。だから、妻も同じように満足していると勝手に思い込んでいました」
移住2年目の秋、朝起きると、食卓の上に一枚のメモが置かれていた。
《少しのあいだ、実家(横浜)に帰ります》
最初は、数日もすれば戻ると思った。だが、「少しのあいだ」は1週間になり、1か月になり、やがて3か月を超えた。電話で「いつ戻る?」と聞くと、妻は静かにこう言った。
「あなたはここが好きなんだろうけど、私はずっと、息が詰まりそうだった」
その言葉で、高橋さんは初めて、自分が手に入れたかったのは“夫婦の老後”ではなく、“自分が憧れた田舎暮らし”だったのかもしれないと思い至った。古民家の購入と改修で使った金は取り戻せない。簡単に東京へ戻るにも、住まいも仕事もない。
「家を買ったことが失敗だったのか、移住そのものが失敗だったのか、今でもわかりません。ただ、夫婦で幸せになるための決断だったはずなのに、気づけば妻だけが置き去りになっていた。そのことが、いちばん堪えます」
<解説>安く買っても暮らしは安くない
地方移住や古民家購入は、都市部の住宅価格と比べると「安く手に入る老後の住まい」に見えやすい。だが、その判断が、思わぬ家計悪化や夫婦関係のひずみにつながるケースは少なくないという。財務コンサルタントの桜井潤一氏は、こう指摘する。「よくある失敗は、『物件価格だけ』で判断してしまうことです。実際には、古民家の修繕費で数百万円から1000万円超かかることもありますし、断熱性が低ければ冬の光熱費も大きく膨らむ。さらに地方では車2台が前提になることも多く、維持費や買い替え費用も見落としがちです。病院や買い物までの距離も、日々の生活コストとして効いてきます」
高橋さんのケースでも、購入時の高揚感に比べ、住み始めてからの現実ははるかに重かった。家そのものの取得費だけでなく、暮らしを維持するためのコスト、地域に溶け込むための負担、そして何より、夫婦の温度差が後からじわじわと効いてきたのだ。
桜井氏は、「安く買う」ことよりも、「無理なく住み続けられるか」という視点が重要だと語る。
「防ぐためには、『体験』と『対話』が不可欠です。可能であれば数か月の短期移住をしてみること。そこで実際の生活費をもとに、リアルな家計シミュレーションを行うこと。そして夫婦で、何を優先するのかをきちんと言語化しておく必要があります。利便性を取るのか、自然環境を取るのか、人間関係や収入をどう考えるのか。ここがズレると、同じ場所に住んでいても、一方は『満足』でも、もう一方は『後悔』になります」
移住の失敗とは、土地選びの失敗である前に、日常を見誤ったことの代償なのかもしれない。
ユニバーサルバンク代表。財務コンサルタント。早稲田大学卒業後、大手銀行に24年間勤務。2020年株式会社ユニバーサルバンク設立。富裕層の資産運用から、数十億の法人融資まで1,000社以上の審査と支援を経験。「銀行を超えた銀行を創る」という思いから2020年独立、「株式会社ユニバーサルバンク」設立。
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