■時速350キロの新型車両、まばらな乗客
ある土曜の朝、真新しい高速列車の車内はしんと静まっていた。時速350キロの高速鉄道に乗客はまばらで、ただ空気を乗せて走っている。
インドネシア専門ニュースレター「アーキペラゴ・ノーツ」の記者が乗り込んだのは、首都ジャカルタと西ジャワ州の主要都市バンドンを結ぶ東南アジア初の高速鉄道「Whoosh(ウーシュ)」だ。中国製の赤い車体に、日本の新幹線を思わせる流線形。車内の速度計は時速350キロを示し、窓の外を熱帯の緑が飛ぶように過ぎていく。座席は清潔で、設備は申し分ない。
ただ、人がいない。見渡せば座席の8割が空席だ。乗車率はわずか15~20%程度に過ぎない。週末の朝だというのに。
料金が壁になっている。エコノミー席で22万5000ルピア(約2080円、20日時点のレートで換算)。ジャカルタで3日は食べていける金額だ。ファーストクラスはその3倍近くもする。
在来線なら同じ区間を7万ルピア(約650円)で移動できる。同誌記者がジャワ島で話を聞いた人々のうち、Whooshに乗ったことがあるのは経済学教授と外交官の2人だけだったという。
■予算80%超過で開業に漕ぎ着けた
香港英字紙サウスチャイナ・モーニングポストは、Whooshの最終コストは約73億ドル(約1兆1600億円)に上ると報じる。
当初予算の40億ドル(約6360億円)を、約80%超過している。土地買収をめぐる紛争に、環境問題とコロナ禍が重なり、開業は予定より4年遅れた。
出血は止まらない。
資金の75%は中国開発銀行からの融資だった。返済期間40年、据え置き10年。残りはインドネシアの国家予算で賄われた。「公的資金は使わない」という当初の約束は守られなかった。
「これらの数字は、このプロジェクトが短期から中期的に財務的に自立できない可能性を示唆している」と、インドネシアのシンクタンク、経済法律研究センターのムハマド・ズルフィカル・ラフマット氏は言う。
■中国は「保証不要」で日本に勝ったが…
当初日本案が優勢とされた中、インドネシアはなぜ中国と手を組んだか。話は2015年に遡る。
インドネシアのジョコ・ウィドド大統領(当時)はこの年、同国初の高速鉄道計画で、日本ではなく中国をパートナーに選んだ。
中国案の最大の魅力は「政府保証不要」という条件だった。プロジェクトが失敗しても、インドネシア政府が債務を肩代わりする義務を負わない。直接の財政負担もない――はずだった。だが実際には、コスト超過分12億ドルをカバーするため、インドネシア国営鉄道は中国開発銀行から総額4億4800万ドル(約712億円)の融資2件を受けた。「公的資金は使わない」という当初の約束は、反故にされた。
事業化調査を先に手がけたのは日本だった。新幹線技術をもとに、安全性と長期の維持管理を重視する堅実な計画を示していた。
だが数カ月の受注競争を経て、インドネシアは中国に傾いた。建設は速く、コストは安く、政府保証も要らない。目に見える成果を早く出したいジョコウィ政権には、抗しがたい条件だった。
■「40分」の移動に2時間かかる
問題はパートナー選びだけではなかった。
ジャカルタとバンドンの距離はわずか142キロ。車なら約3時間、在来線でも同程度で到着する。
Whooshは所要時間を30~40分ほどに縮めたが、駅は両都市とも市街地から離れた場所にある。ジャカルタは渋滞を理由に首都移転が計画されたほど、道路の混雑が激しい。輪をかけて駅が中心部以外に立地してしまうと、高額な高速鉄道に乗った上、結局は渋滞に巻き込まれる。
実際に乗車したアーキペラゴ・ノーツの記者は、ジャカルタ市内の自宅からバンドンの市街地まで、乗り継ぎを含めた実質の移動時間は約2時間に及んだと振り返る。40分との触れ込みとの落差は大きい。
批判の声は国内の専門家からも上がっている。インドネシアのシンクタンク、戦略経済行動研究所の上級アナリスト、ロニー・P・サスミタ氏はアジア・タイムズに寄稿し、本来ジャカルタと国内第2の都市スラバヤを結ぶ780キロの路線を先に建設すべきだったと主張した。沿線には複数の主要都市が並び、ジャワ島のGDPの6割以上をカバーする。
こうして10時間の移動を4時間未満に短縮すれば、物流コストの削減と産業拠点の分散が見込めた。
■1キロの敷設に80億円
問題はそれだけにとどまらない。
政治外交専門誌の米フォーリン・ポリシーによれば、インドネシアの汚職撲滅委員会(KPK)がWhooshの予算不正について調査に乗り出した。
元大臣の指摘では、1キロあたりの建設費は5200万ドル(約83億円)。単純には比較できないが、中国国内の1700万~1800万ドル(約27~28.6億円)と比べれば、なぜか3倍近くを要している。
運営会社KCIC(クレタ・チュパット・インドネシア・チャイナ)は火の車だ。日々の運営費こそ賄えているものの、利息と為替差損、そして減価償却費が重くのしかかる。
政府による救済は避けられないが、財務省と国営持株会社ダナンタラ(Danantara)の間で負担額をめぐる押し付け合いが続いている。国営鉄道のCEOはついに議会で、このプロジェクトを「時限爆弾」と呼んだ。
■「時間は貴重」開通を歓迎する声も
一方で、Whooshが一定の成果を生んでいるとの声もある。
中国国営の新華社通信は、Whooshの累計利用者が2025年7月25日時点で1060万人を超えたと強調。1日最大62便を運行し、ピーク時には2万6800人が利用するという。
毎週末ジャカルタ・バンドン間を往復するという37歳の2児の母は「Whooshはきちんとした交通手段になった。時間は貴重なもの」と話す。バンドンの駅近くのケーキ店経営者も、観光客が増えて客足が大幅に伸びたと語るなど、一定の経済効果は生まれつつある。
技術移転も進んだ。合弁事業を通じて人材を育成した結果、運転士も整備士も今では全員がインドネシア人だ。KCICのエミール社長は新華社の取材に対し、「単に設備を輸入するだけのプロジェクトではない。現地チームは実地経験を通じて成長している」と語った。
もっとも、こうした成果の一方で、年間数億ドルの損失と40年先の損益分岐点という現実を覆すには至っていない。
■なぜ赤字を放置しているのか
では、Whooshは「失敗」なのか。答えは、何を基準に測るかで変わる。
ジョコ・ウィドド前大統領は、Whooshは渋滞解消を目的とした公共サービスであり、利益は優先事項ではないと主張している。フォーリン・ポリシー誌が伝えた。
実際、インドネシアの公共交通で黒字の路線を探すほうが難しい。ディプロマットによると、ジャカルタMRTは収入の約半分を補助金に頼り、市内バス網のトランスジャカルタも補助なしでは赤字だ。
国営鉄道KAI本体でさえ、2024年の収入22億ドル(約3500億円)のうち2億8500万ドル(約453億円)が補助金である。ならばWhooshも同じように補助すればいい――との考えが働くが、実際はそう単純ではない。
ここにWhooshのジレンマがある。
KCICの出資比率はインドネシア側60%、中国側40%だ。出資比率に基づいて収益を分配するならば、収入の4割は中国国営企業に流れる。納税者の金で外国企業を間接的に支えることになり、政治的に受け入れがたい。
一方、中国のインフラプロジェクトは「債務の罠」とよく説明されるが、Whooshにそうした解釈が当てはまるとは限らない。融資条件そのものは、実際のところ穏当だったとの見方もある。
アジア・タイムズの分析によれば、中国開発銀行の金利は元本に2%、超過コストに3.4%。出資の過半はインドネシア側が握り、経営の主導権もまたインドネシアにある。
問題は融資の条件ではなく、合弁という構造にあるとも言えよう。利益を度外視した公共事業として扱うこともできず、純粋な商業事業として切り捨てることもできない。その狭間で、Whooshは赤字であることの弁明を見いだせていない。
■本音は「中国と繋がりたいが依存したくない」
インドネシアと中国の微妙な関係性も課題のひとつだ。
アジア・タイムズは、Whooshの経営危機により、インフラを地政学的影響力の手段とする中国の戦略が浮き彫りになったと論じる。
資源と巨大な市場を擁するインドネシアは、インド太平洋の要衝に位置し、中国主導の経済圏で中核を担う。だが、両国の結びつきが深まるにつれ、インドネシアは中国に依存しすぎているのではないかという懸念が国内外で広がっている。
インドネシアのプラボウォ・スビアント現大統領は、中国の資本と市場へのアクセスを確保しつつ、構造的な依存は避けるという綱渡りを迫られている。
これはインドネシアだけの問題ではない。フォーリン・ポリシーがローウィ研究所の調査を引用して報じたところによると、「一帯一路」全体で約500億ドル(約8兆円)相当の融資が未返済のまま宙に浮いている。
中国は政治変動に左右されやすく遅延しがちな大型案件に資金を投じてきた。その代償が各地で露呈している。
■延伸計画を阻む壁
それでもインドネシアは、今後も鉄道網を拡張する方針だ。ジャカルタと国内第2の都市スラバヤを結ぶ延伸構想の夢は、まだ潰えていない。
サウスチャイナ・モーニングポストによると、計画を主導するルフット・ビンサル・パンジャイタン国家経済評議会議長は昨年5月、北京を訪れ、延伸が依然検討中であることを再確認した。
中国の王毅外相との会談後、同氏はこう認めた。「問題は実は我々側にある。規制の草案がまだ完成していないからだ」
だが延伸を語る前に、現行路線の課題を片付けねばならない。東南アジアニュースメディアのシーアジアは3点を挙げる。
第1に、財務の再編。累積する損失は最終的に納税者の負担になりかねない。第2に、既存の交通網との統合。45分で着いても、駅から先の足がなければ時短効果は薄れる。第3に、価格設定。高すぎれば客足が遠のき、安すぎれば国庫を圧迫し続ける。学生割引も統合チケットもなければ、Whooshは富裕層専用の乗り物で終わりかねない、と記事は指摘する。
■「日本の新幹線」は守られた
アジアの鉄道網を巡る競争は、まだ始まったばかりだ。
1964年に世界初の高速鉄道を走らせた日本は、インドで着実に布石を打ってきた。ブルームバーグによると、ムンバイとアーメダバードを結ぶ508キロの路線が建設中で、日本は総事業費170億ドル(約2兆7000億円)の81%を超低金利で融資する。インドは台湾に続き、新幹線技術を採用する2カ国目となる。
同記事は日印の高速鉄道での協業を、アメリカと連携する「巨大かつ強力な2つの民主主義国家」による長期パートナーシップであり、中国の影響力を抑制する「歓迎すべき事例」であると評価している。
一度高速鉄道の敷設が決まれば、数十年にわたる債務関係が生じ、保守契約でも国家同士が強く結びつく。高速鉄道は一時限りのモノの売買に終わらず、長年の関係性と責任を伴う。
インドネシア高速鉄道の事例では、そうした長期的ビジョンを軽視する形で中国が示した「速い・安い・政府保証も不要」の宣伝文句を前に、日本の堅実な案は退けられた。だが、今となっては中国の口約束は反故にされ、予算は80%超過し、年間数億ドルの赤字は時限爆弾とまで呼ばれている。
10年前、仮に日本案が採用されていれば、どうなっていたか。新幹線の兄弟分に当たる高速鉄道がこうした赤字を背負い込み、ほとんど空席でインドネシアの都市間を走り続ける。「インドネシアの血税を投じて日本企業を支える」との批判の的になっていたおそれすら否定できない。紛れもなく、新幹線ブランドの毀損に当たる。
ジャカルタで日本案が選ばれなかったことは、当時でこそ日本の提案力不足と見なされたかもしれない。しかし、現在になって振り返れば、日本が誇る新幹線ブランドの価値の低下を免れた。結果論ではあるものの、最も問題の少ないシナリオに収まった。
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青葉 やまと(あおば・やまと)
フリーライター・翻訳者
1982年生まれ。関西学院大学を卒業後、都内IT企業でエンジニアとして活動。6年間の業界経験ののち、2010年から文筆業に転身。技術知識を生かした技術翻訳ほか、IT・国際情勢などニュース記事の執筆を手がける。ウェブサイト『ニューズウィーク日本版』などで執筆中。
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(フリーライター・翻訳者 青葉 やまと)

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