無理なく貯蓄を増やす秘訣は何か。多摩大学特別招聘教授で、「行動経済学会」の創設メンバーでもある真壁昭夫さんは「意志の力が強いだけでは貯金はできない。
さまざまな誘惑に打ち勝つための環境作りが大事だ」という――。
※本稿は、真壁昭夫『知らなかったでは済まされない 行動経済学の話』(高橋書店)の一部を再編集したものです。
■給料日が来ると財布が軽くなる理由
【真壁教授(以下、教授)】「君は貯金について、どんな悩みを抱えている?」
【木村幸輝(以下、木村)】「頭では、将来のために毎月コツコツ積み立てるべきだとわかっているんです。でも給料日になると気が緩んでしまいます。金曜の夜にATMからお金を下ろした瞬間、『今月は余裕があるから大丈夫だ』と錯覚して、飲み会や買い物に次々と使ってしまうんです。週明けには財布が軽くなり、また『今月も貯金できなかった』と後悔して……。家計簿に赤字を記録するたび、未来の安心がどんどん霞んでいく気がします」
【教授】「その苦しさはよくわかる。だが、それは君の意志が弱いからではない。人間の脳に備わった“せっかちバイアス”が原因だ。行動経済学では『双曲割引』(※1)と呼ばれている」
【木村】「双曲割引って、初めて聞きました……」
※1 双曲割引: 将来の利益より目先の利益を過大評価する傾向。エインズリーが研究。
■人間は「未来の利益」を小さく見積もる
【教授】「人間は未来の利益を不合理なほど小さく見積もってしまう。
合理的に考えれば、今1万円を使うより、貯金して将来の安心を買うほうが得だ。しかし脳は、遠い未来の価値を“割り引いて”しまう。だから『今の1万円の楽しみ』が『将来の数十万円の安心』より大きく感じられる」
【木村】「だから頭ではわかっているのに、行動が伴わないんですね。僕は未来の自分を信じていないみたいです」
【教授】「その通りだ。未来を過小評価するのは人間共通の特性だ。ダイエット中でも、半年後の健康診断より目の前のケーキを優先してしまう。試験勉強も、1カ月後の合否より今夜のテレビを選んでしまう。双曲割引は生活の至るところに潜んでいる」
【木村】「なるほど……。貯金だけではなく、先延ばし癖や浪費の多くは、この“せっかちバイアス”で説明できるんですね」
■意志の力だけでは太刀打ちできない
【教授】「だから『次こそは我慢するぞ』という精神論は長続きしない。双曲割引という強力な本能に、意志力だけで立ち向かうのは無謀なんだ」
【木村】「そうなんです。給料日が来るたびに『今度こそは』と思うのに、数日後には財布が軽くなっている。意志の力ではどうにもならない気がします」
【教授】「大事なのは、自分が誘惑に負けるとわかったうえで、未来の自分をあらかじめ縛ってしまうことだ。
これを『コミットメントデバイス』、別名『ユリシーズの契約』と呼ぶ」
【木村】「ユリシーズの契約……?」
■セイレーンの歌とユリシーズの知恵
【教授】「古代ギリシャの英雄ユリシーズ(オデュッセウス)は、航海の途中で“セイレーン”と呼ばれる怪物の島を通ることになった。セイレーンは人間離れした美しい歌声で船乗りを惑わせ、近づいた者を岩礁に誘い込み、破滅させる存在だ。ユリシーズはその歌を聞きたいと思ったが、同時に自分が必ず誘惑に負けてしまうこともわかっていた」
【木村】「怖い存在だと知りながら、どうしても聞きたかったんですね」
【教授】「そうだ。彼は船員たちに耳栓をさせ、自分の体を船のマストに縛り付けさせた。『たとえ俺が必死に頼んでも決して縄を解くな』と命じて。実際にセイレーンの歌が響くと、ユリシーズは縄を解けと叫んだ。しかし船員たちは命令通り耳を塞ぎ、彼を縛り続けた。こうして船は難所を無事に通り抜けた」
【木村】「……なるほど。未来の自分が誘惑に負けるとわかっていたから、理性が働くうちに縛らせていたんですね」
【教授】「そう。ユリシーズの契約とは、『未来の弱い自分を、現在の理性的な自分が縛る仕組み』のことなんだ」
■現代における「ユリシーズの契約」
【木村】「それを現代の貯金に応用できるんですか?」
【教授】「もちろんだ。ある友人は給料が振り込まれると、自動的に一定額が別口座に移るよう設定している。その口座のカードは金庫にしまい、普段は使えない。
つまり、未来の“浪費する自分”を、今の仕組みでマストに縛り付けているわけだ」
【木村】「給与天引きの積立預金も同じですね。最初から手元に残らないから、使いようがない」
【教授】「その通り。ほかにもやり方はある。たとえば大きな買い物をするときは必ず翌日以降に決済する“ワンクッションルール”。あるいは使いすぎ防止アプリで一定額を超えると自動通知が来る仕組み。中には、友人や家族に『今月3万円貯金する』と宣言して、達成できなければ罰金を払う制度を作っている人もいる。すべてがユリシーズの契約だ」
■誘惑にアクセスできない環境が大事
【木村】「誘惑に出会ってから我慢するのではなく、そもそも誘惑にアクセスできない環境を整えるんですね」
【教授】「その通りだ。人間は未来を必ず割り引いてしまう。だから精神論ではなく環境設計で戦う必要がある。財布に現金を多く入れない、クレジットカードを持ち歩かない、買い物アプリを削除しておく……。これらはすべてマストに縛り付ける工夫だ」
【木村】「確かに、給料日直後の浮かれた気分では冷静に判断できません。仕組みが自動で縛ってくれるほうが安心です」
【教授】「そうだ。
双曲割引に抗うには、自分の弱さを受け入れ、それを前提に仕組みを作ること。未来の自分が誘惑に負けないように、今の自分が舞台を整えてやるんだ」
■意志力ではなく仕組みで未来を守る
【木村】「意志力ではなく、仕組みで未来を守る……。これなら僕にもできそうです」
【教授】「重要なのは、誰もが“せっかちバイアス”を抱えているという事実を受け入れることだ。双曲割引を前提にすれば、『なぜ貯金できないのか』を自分の性格の弱さではなく、人間の普遍的な傾向として理解できる」
【木村】「はい。これからは『頑張って我慢する』ではなく、『ユリシーズのように自分を縛る仕組みを作る』という考え方を取り入れます。給与天引き、自動振替、ワンクッションルール……。未来の安心は、今の環境設計で作るんですね」
【教授】「その通りだ。せっかちな自分を責める必要はない。理性的な今の自分が、未来の自分を守る仕組みを整えること。それが双曲割引を乗り越え、計画的に資産を築く最も確実な道だ」

----------

真壁 昭夫(まかべ・あきお)

多摩大学特別招聘教授

1953年神奈川県生まれ。一橋大学商学部卒業後、第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。ロンドン大学経営学部大学院卒業後、メリル・リンチ社ニューヨーク本社出向。
みずほ総研主席研究員、信州大学経済学部教授、法政大学院教授などを経て、2022年から現職。

----------

(多摩大学特別招聘教授 真壁 昭夫)
編集部おすすめ