※本稿は、斎藤幸平、小川公代、安田登、秋満吉彦『血肉となる読書 なぜ読むことだけが人生を変えるのか』(あさま社)より、安田登さん執筆部分の一部を再編集したものです。
■孔子が生きた時代の文字で書き直す
私たちに身近な原語は、日本語の古語と、そして漢文です。
しかし、漢文を読むときには、さらに一歩踏み込むことができます。それは、漢文が書かれた当時の文字で書き直してみるという方法です。すると、よく知っているつもりだった言葉にも新たな光が当たってきます。使い古されていると感じていた言葉が、自分だけの肚に落ちた言葉に変わってくるのです。
たとえば、その一つが『論語』です。
『論語』とは、孔子(紀元前552年~紀元前479年、異説あり)とその高弟たちの言行を、死後、弟子たちがまとめた書物です。成立したのは孔子が亡くなったおよそ400年後と考えられています。文献としてまとめられた時期から数えても2000年以上、読み継がれている。
私は以前、『論語』を孔子が生きた時代の文字で書き直すという作業をしてみたことがあります。『論語』に書かれているのは孔子の言行なのだから、その当時の文字で読んでみるべきなのでは? と思ったのがきっかけです。春秋時代、まだ紙が使われるようになるより前。おそらく竹や木に書かれていたと思われますが、しかし孔子の時代の竹簡や木簡は見つかっていません。ですから、青銅器に鋳込まれた金文と呼ばれる文字で書いてみました。
■「不惑」の「惑」は存在していなかった
この作業をしているといろんなことがわかってきます。その一つが、現代に流布している『論語』には、孔子の時代には存在しなかった文字が、かなりの数、含まれているということです。たとえば、『論語』の中でもおそらく非常に有名な言葉の一つであろう「四十にして惑わず」。
「不惑」です。
この「惑」という漢字は、実は孔子の時代には(おそらく)まだ存在していませんでした。ということは、孔子は「惑わず」とは言っていなかったことになります。
では、何と言っていたのでしょう?
前述したように、こういうときには、字形が似ていて、古代においての「音」が似ていた字を探すのが基本です。行き当たったのが「惑」から「心」を取った「或」という字でした。この字は孔子の時代にもありました。
■現代人がイメージする「不惑」とはだいぶ違う
「或」は、武器である「戈(ほこ)」と「囗(集落)」、「一(境界)」から成る漢字です。この「或」に「土」を付けると「域」になり、「囗」で囲むと国の旧字である「國」という文字になります。どちらも「境界線で区切られた区域」の意味です。すなわち「或」には「線を引いて、ある場所を区切る」という意味があります。ここから、四十にして「惑わず」は「或(くぎ)らず」で、「区切らないこと」「限定しないこと」という意味だったのではないかと考えました。
人は40歳くらいになると、「自分はこういう人間だ」と限定してしまいがちです。
「自分にはこれだけの力しかない」「これは自分のすべきことではない」「自分の人生はこの程度だろう」などと考えがちになる。孔子は、そうした態度や考え方を「よくないよ、40歳ごろにはそういう気持ちになりがちだから気をつけなさい」と言っているのです。もしかしたら、40歳こそ可能性を広げられる年齢だよ、と言ってくれているのかもしれない。
ちなみに孔子の時代の40歳は、現代の60歳くらいと考えてもいいかもしれません。
60歳こそ、新たな自分を探す時期です。こうして、2000年前の古典が、より自分のものへと近づきます(さらに詳しく知りたい方は『すごい論語』(ミシマ社)に書きましたので手に取ってみてください)。
■読み継がれてきた「何か」がある
古典を読むときに、もっとも大事なことは「古典としてこれだけ長い間読み継がれてきたということは、必ず何かがある」ということを心に留めておくことです。自分には理解できないと感じられたとしたら、それは自分に問題があるかもしれないと自問してみることです。私は高校生のときはロックをやっていて、学生時代はジャズで学費や生活費を稼いでいました。漢文は好きでしたが『源氏物語』などの日本の古典の面白さはまったくわかりませんでした。新約・旧約の『聖書』も高校時代の同級生のせいで大嫌いでした。しかし、今は大好きです。
理解できない、つまらない、意味がないと思ったら、本書で前述した「タウマゼイン」(※)に出会えるまで調べ尽くしてみる。原語も学んで読んでみる。
※「タウマゼイン」古代ギリシャ語で、プラトンが「哲学の唯一の始まり」だと発した言葉。しばしば「驚き」と訳されるが、「敬意」の意味も含まれている。
■「論語読みの論語知らず」にならないために
さて、読んだ古典を、どうやって自らの血肉にしていけるでしょうか。
ただ「論語を読んだ?」「読んだ読んだ!」というだけでは、あまり意味がありません。「論語読みの論語知らず」という言葉があります。確かに論語は読んでいる、論語に関する知識もすごい。しかし、まったく実践できていない。それが「論語読みの論語知らず」です。
そのような人は古典を「消費」していると言えるでしょう。消費は英語、consumeの訳です。コンシュームの語源は「破壊」です。
では、古典を自分の人生と接続していくにはどうしたらいいのか。そのために、私は二つの読み方をおすすめしています。「音読」と「覚えること」です。
最初におすすめしたいのは「音読」です。声に出して読むことがとても大事なのです。ほんの数十年前まで、本は目で読むものよりも声に出して読むものでした。目で読むとスルーしてしまうようなことも、声に出して読むと引っかかる。そこで「なぜだろう」と考えるきっかけになります。古典ではありませんが、夏目漱石の『吾輩は猫である』なども声に出して読んで、その面白さが初めて伝わるように書かれています。
また、とても古い古典は、もともとは口伝えに語られてきました。それが紙に書かれて残ったのが今の古典です。
■『平家物語』なら琵琶とともに語るように
それらを朗読するときには、その時代に語られていたように読むと楽しい。
たとえば『古事記』なら、祝詞(のりと)のような節回しで読む。『平家物語』なら、琵琶(びわ)とともに語られていたときのようにリズムを取りながら読む。『源氏物語』なら、宮中にいる女房たちに語り聞かせるように、ゆっくりとゆるやかな抑揚をつけて読む。誰が誰に、どんなシチュエーションで聞かせていたのかを想像しながら、なりきって読むのがポイントです。
もともとそれぞれの文章は、当時の読まれ方を想定して作られているはずですから、現代文を読むように読んでは速すぎたり、単調すぎたりします。節やリズムも含めて再現してみることで、当時の人たちの感じ方ににじり寄ることができるのです。
祝詞や琵琶語り、またギリシャ語やヘブライ語による聖書の朗読や朗誦などの音声、動画もインターネット上にはたくさんありますから、参考にするのもいいでしょう。
私は10年ほど前から、現存する最古の神話といわれるシュメール神話『イナンナの冥界下り』や『古事記』の「イザナギ命の冥界下り」の物語を、原語で上演するという試みを続けています。シュメール語は、文字として定着した最古の言語です。言語が文字化されることで社会はどう変わったのか。語られていた当時と同じ言葉で演じてみることで、感じるものがあるような気がするのです。それは観客のほうも同じです。この試みも、古典が「語られていたように読む」方法の一つと言えるかもしれません。
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安田 登(やすだ・のぼる)
能楽師
能楽師(ワキ方下掛宝生流)。関西大学特任教授。1956年千葉県銚子市生まれ。神話『イナンナの冥界下り』の欧州公演や『天守物語(泉鏡花)』の金沢21世紀美術館での上演など能・音楽・朗読を融合させた舞台を数多く創作、出演する。著書に『身体能力を高める「和の所作」』『異界を旅する能――ワキという存在』(以上ちくま文庫)、『能――650年続いた仕掛けとは』(新潮新書)、『あわいの力――「心の時代」の次を生きる』『すごい論語』『三流のすすめ』(以上ミシマ社)、『身体感覚で「論語」を読みなおす。』(新潮文庫)、『使える儒教』(NHK出版)など。共著に『みんなで読む源氏物語』(ハヤカワ新書)など多数。100分de名著では『平家物語』『太平記』『ウェイリー版 源氏物語』『史記』を解説・朗読。
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(能楽師 安田 登)

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