父親に育児は向いていないのか。『安心感が子どもの心を育む』(小学館)を書いた東京大学大学院教育学研究科の遠藤利彦教授は「そんなことはない。
育児に悩む父親は、子供に不信感を抱かせる行動をしているのかもしれない」という。3歳の息子を育てる、ノンフィクションライターの山川徹さんが聞いた――。
■「ママがいい!」と叫ぶ子供の心理
3歳児Kには、口癖がある。
「ママがいい!」

「トット(父親である私のこと)、あっち行け!」
Kは、2つの言葉を事あるごとに口にする。
朝、私が寝室に起こしに行くと「ママがいい!」と叫び「トット、あっち行け」と全力で拒絶する。
私が着替えを手伝おうとしても「ママがいい!」、夕方私が保育園に迎えに行き、母の帰宅を家で待つ間も「ママがいい!」、夕食を食べさせようとしても「ママがいい!」、風呂に入るときも「ママがいい!」。私と入浴するのは、3日から5日に一度くらい。寝る際も母親が抱っこしないと寝ない。何度か寝かしつけに挑戦したが「ママがいい!」と頑なに言って聞かなかった。もう諦めて妻にまかせっきりになっている。
「ママがいい!」「ママがいい!」「ママがいい!」……。そして「トット、あっち行け!」。

そのたびに私は軽く傷ついた。けれど、それはいい。まずいのは、増え続ける妻の負担だ。
収入が不安定で仕事も不規則なフリーランスの私に対し、妻は会社員だ。妻がいるからこそ、落ち着いた子育てができている。せめて罪滅ぼしに、時間の融通が利く私が、保育園の送り迎えや、夕食の準備などを引き受けているつもりなのだが――。
■「自信を喪失する必要はない」
先日、妻の帰宅がいつもよりも遅くなり、Kは「ママはいつ帰ってくるの?」「ママはまだ?」「駅に着いたかな」と3分おきくらいに繰り返した。しまいには「ママがいい」とぐずりはじめた。
べそをかく我が子を前に、父親としてどうしようもない無力感に打ちのめされた。
子育てにもっと積極的にかかわるにはどうすればいいのか。Kに信頼してもらうには何が足りないのか。
「自信を喪失する必要はないと思いますよ」
乳幼児と養育者の間に形成される「アタッチメント」を専門とする東京大学大学院教授の遠藤利彦先生は、悩む私を勇気づけるように穏やかに語った。

「お子さんにとって、それだけお母さんが大切な存在だということです。だからお母さんが家にいたり、もうすぐ帰ってきたりするのが分かっているときは、お母さんが一番なのでしょう。仮にお母さんがいなければ、お父さんが一番になるのではないですか?」
■父親も“大切な存在”になれる
そう問われて、思い出すのが、週末だ。
土日のどちらかは、私はKが好きな電車に乗って2人で出かける。そのときは、確かに「ママがいい!」と口にしない。あの状況では、Kにとって父親が“大切な存在”なのかもしれない。
「だとしたら、信頼関係が成り立っているのではないですか。お母さんがいないときには、お父さんが一番なのだと思います。アタッチメントは、たった1人の人間と形成するものではありませんから」
先生にお墨付きをもらえたようで、自信が取り戻せた気がした。
遠藤先生が指摘する“アタッチメント”とは、子どもが怖くて不安なときや、感情が崩れたときに特定の大人にくっついて「もう大丈夫だ」という安心感に浸ることだ。乳幼児期のアタッチメントの形成が、心身の成長に大きな影響を与えるという。
アタッチメントのアタッチの意味は「くっつく」。
アタッチメントを理解するうえでポイントとなるのが、特定の相手との間で形成されること。遠藤先生は解説する。
「子どもは不安なときに信頼する大人にくっつきたい。けれど、そこには子どもなりの優先順位があり、お母さんにくっつきたがるお子さんが多いのは事実です。ただし、乳幼児期ではお母さんが一番かもしれませんが、成長して運動などに関心を持ちはじめると一緒に動いてくれるお父さんに関心が移るというケースもよくあります」
■重要なのは一貫性
「育児で大切なのは“いまここ”という短期的な視点だけではなく、長期的な視座に立っていただくと気持ちが少し楽になるのかもしれませんね」(遠藤先生)
重かった私の気持ちが少し軽くなった。
いや、待て――。
このままKの成長を待っていては、軽くなった私の気持ちに反比例して、妻の負担が増え続けるのではないか。最悪、妻に見限られてしまうかもしれない。現実として、どう折り合いをつければいいのか。新たに芽生えた悩みを遠藤先生に再びぶつけた。
「3歳くらいになると大人の事情を分かりはじめています。まずは『お母さんが忙しいから今日はパパがやるよ』ときちんと言葉にして伝えてみる。
育児がうまく行かない原因のひとつが、ブレること。今日はやってもらえたのに、別の日は、まったくかまってもらえない。そんな状況が続くと子どもは不信感を持ってしまいます。そうならないためには、育児に一貫性を持たせることが重要になるんです」
育児の一貫性とは具体的になんだろうか。
■育児とビジネスの類似点
遠藤先生が解説する。
「たとえば、お子さんが『保育園に行きたくない』とグズったとします。その日はお母さんが抱っこして連れて行ってくれたのに、別の日に同じようにグズったらお母さんは何もしてくれずに、お父さんに腕を引いて園に連れて行かれた。日によって親の対応が違うとお子さんは戸惑ってしまいます。お子さんは予測できない状況が繰り返されると混乱します。
平日は、こういうスケジュールと決めたらできるだけ変えずに、一貫して続けてみる。するとお子さんは見通しが持てます。この見通しが持てる環境もお子さんにとっては、とても大切なのです」
それにしても、と思う。

〈ブレずに一貫性を持つ〉

〈見通しを示す〉
まるで組織やリーダーのあり方を説くビジネス書の見出しのようだ。
そんな私の感想に遠藤先生も同意してくれた。
「アタッチメントで、重要なのは信頼関係です。ビジネスの現場でも、上司と部下、チームの信頼がしっかり形成されていれば、職場全体の雰囲気もよくなり、生産性も上がっていくのではないでしょうか」
■うまくいかない日にはこの一言を
3歳児も、ビジネスパーソンも同じ人間だ。それに、育児もビジネスも人間のやることに違いはない。育児のノウハウを仕事に活かすビジネス書だって成立するかもしれない。いいアイディアのような気がしてきた。が、その前に父親の育児という課題を解決しなくては。
では、我が家では、一貫性や見通しといった遠藤先生のアドバイスをどう活かせるだろうか。
たとえば、平日は私がKを起こすというルールにしたらどうか。はじめは「トット、あっちに行け!」「ママがいい!」と叫ぶに決まっている。けれど、ブレずに一貫して継続したら、そのうちKも、朝は父親が起こしに来るという見通しができて、大人しく起きるようになるかもしれない。
さっそく試してみよう。遠藤先生は続ける。
「ただし主張や急な用事など一貫性を保てない日もあるでしょう。そんなときは『今日はこういう日だからね』と言葉を通じて見通しを示していく。もちろんすぐにうまくいくとは限りません。でもうまくいかないからと大人の気まぐれでやめてしまうのはよくありません。お子さんにとって、つらいのが大人の気まぐれです。
昨日やってくれたのに、今日はやってくれない。親御さんの気分や都合に翻弄される状況は、お子さんの発達にマイナスに作用する場合も少なくありません」
■試されているのは私の方だった
“親御さんの気分”という言葉に罪悪感を覚えた。
まさに遠藤先生にインタビューした日の朝のこと。朝食や着替えを済ませていよいよ登園という段になり、Kが「保育園に行きたくない」とグズりはじめた。手を変え品を変え、なだめすかしても「行きたくない」と駄々をこねる。やがて登園時刻が過ぎてしまった。
「これ以上、遅くなると、みんなとお散歩行けなくなっちゃうよ」と強めの口調で急かした。そんな言い方をしなくても、と妻がとがめるような目でこちらを見る。
妻の危惧通りKは泣き出して、あの口癖を叫ぶ。
「ママがいい!」
……ここまで書いて、既視感に襲われた。
本連載で似たような体験を記した記憶がよみがえったのだ。保育園に通うようになり、3年。私は何度同じ過ちを繰り返しただろう。
結局、妻が保育園に連れて行くハメになり、やはり出勤が遅れてしまった。
今朝の顛末を伝えると遠藤先生は言う。
「『これ以上、遅くなると、みんなとお散歩行けなくなっちゃうよ』という説明は悪くなかったと思います。まさにこれからの見通しを確認したわけですから。ただここで考えなければならないのは、親御さんの苛立ちがお子さんに伝わってしまったのではないか、ということ。それこそが、先ほど話したお子さんが、親御さんの気分に翻弄される状況です。
もちろん人間ですからイライラもしますし、感情的になってしまうこともあるでしょう。大前提として、子育てはうまくいきません。大切なのは、失敗したあとに『ちょっとまずかったな』『言い過ぎたな』と反省し、関係性を修復できるかどうかなのです」
やはり、試されているのは私の方らしい。

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遠藤 利彦(えんどう・としひこ)

東京大学大学院教育学研究科教授・教育心理学者

山形県生まれ。東京大学教育学部卒。同大学院教育学研究科博士課程単位取得退学。博士(心理学)。聖心女子大学文学部講師、九州大学大学院人間環境学研究院助教授、京都大学大学院教育学研究科准教授などを経て、2013年から現職。専門は発達心理学、感情心理学、進化心理学。NHK子育て番組「すくすく子育て」にも専門家として登場。

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山川 徹(やまかわ・とおる)

ノンフィクションライター

1977年、山形県生まれ。東北学院大学法学部法律学科卒業後、國學院大学二部文学部史学科に編入。大学在学中からフリーライターとして活動。『国境を越えたスクラム ラグビー日本代表になった外国人選手たち』(中央公論新社)で第30回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。著書に『カルピスをつくった男 三島海雲』(小学館)、『最期の声 ドキュメント災害関連死』(KADOKAWA)などがある。最新刊に商業捕鯨再起への軌跡を辿った『鯨鯢の鰓にかく 商業捕鯨再起への航跡』(小学館)。

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(東京大学大学院教育学研究科教授・教育心理学者 遠藤 利彦、ノンフィクションライター 山川 徹)
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