NHK「豊臣兄弟!」では、お市が兄の織田信長に小豆袋を送り、危機を知らせるシーンが描かれた。お市は、過去の作品でも“家族思いな美しい女性”として描かれているが、実際はどのような人物だったのか。
ルポライターの昼間たかしさんが、文献などを基にお市の史実に迫る――。
■お市の小豆袋は“朝倉視点の創作”
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」。やがて天下を手中に収める藤吉郎(池松壮亮)と小一郎(仲野太賀)の姿を描く物語は、金ヶ崎の退き口(第14回)から姉川の戦いへ(第15回)と、順当に物語が進んでいる。歴史の流れは変わらないので、そこでどう人物を解釈して描くかが、大河ドラマの醍醐味である。
そんな中「また出た!」と思ったのが小豆の袋。信長(小栗旬)の妹・お市(宮﨑あおい)が両端を縛った小豆袋を密書と共に送り「袋の鼠ですよ(逃げ道はありませんよ)」と、浅井長政(中島歩)の裏切りによる危機を知らせた、という逸話である。
兄妹愛と夫婦愛の中で揺れる、お市を描く絶好のエピソードだが、もちろん創作である。
これの出典は『朝倉家記』。これは天正年間に成立した『朝倉始末記』の異本とされるもの。『朝倉始末記』は朝倉氏の興亡を記した軍記物語で、朝倉氏の旧臣によって執筆されたと考えられている。ようは、お市に会ったこともない作者が想像で書いたもの。しかも、この本、朝倉氏の旧臣の視点で描かれているわけで、書いた動機は明らかだ。

「信長の妹でさえ、朝倉の味方をしてくれた。それほど我々は正しかった」という、敗者の自己正当化である。現代でいえば、新興企業に買収されて潰された老舗企業の元社員がnoteに書く「あの頃うちの会社は本当に良かった」記事と、構造としてはまったく同じだ。
■「天下一の美人」は事実だった
つまり小豆袋の逸話は、信長に滅ぼされた朝倉の旧臣が「自分たちは悪くなかった」と言いたくて作り上げた話が出発点である。お市の人物像は、敗者の自己正当化のために動員されたのだ。
だが、それだけではない。この逸話が後世に広まり、繰り返し描かれてきた理由がある。読む側にとって、あまりにも「美しい話」だったからだ。兄への忠義と夫への愛の狭間で揺れる美しい女性……この図式は、江戸時代の読者にも、現代のドラマ視聴者にも、等しく刺さる。
結果、気づけば、創作が史実を上書きして現在に至っているのである。
なにしろ、お市に関する資料は本当に少ない。実名すら一次史料には残っておらず、前半生はほぼ不明である。
確実にわかるのは、浅井長政に嫁いだこと、小谷城落城時に3人の娘と共に生き延びたこと、信長の死後に柴田勝家と再婚したこと、そして賤ヶ岳の戦いで勝家が敗れた後、北ノ庄城で共に自害したこと程度である。
いや、それでも安心してほしい。様々なフィクションで採用される「天下一の美人」というキャッチフレーズは、事実だったようだ。
このことは『祖父物語』という資料(近藤瓶城 編『史籍集覧』第13冊 近藤出版部、1906年に所収)、近藤瓶城編『史籍集覧 總目解題 改定』(近藤出版部、1921年)に書いてある。この本は「尾張国清須朝日村の人柿屋喜左衛門、其祖父の物語を録せし書にして、豊公当時の実記なり」とされている。
■“庶民の言い伝え”に残っている
つまりこれは、尾張の庶民・柿屋喜左衛門が、祖父から聞いた話を書き留めたものだ。
いうなれば「おじいちゃん、昔の話してよ」と孫がせがんだら、祖父がこんな話をした、という体である。そこにはこんな記述がある。
太閤ト柴田修理ト取合ハ其比威勢アラソイトモ云又信長公ノ御妹オ市御料人ノイハレナリトモ申ナリ淀殿ノ御母儀ナリ近江ノ国浅井カ妻ナリケル浅井ニハナレサセ玉ヒテ御袋ト一所ニオハシケルカ天下一ノ美人ノキコヘアリケレハ太閤御望ヲカケラレシニ柴田岐阜ヘ参リ三七殿ヘ心ヲ合セオイチ御料ヲムカエ取オノレカ妻トス
現代語訳:太閤(秀吉)と柴田修理(勝家)の対立は、当時の勢力争いによるものとも言われるが、信長公の御妹・お市御料人のことが原因とも言われている。お市は淀殿の母君であり、近江の浅井長政の妻であったが、浅井と別れた後は(信長の)御袋様と同じところにお住まいであった。天下一の美人との評判があったため、太閤(秀吉)が望みをかけていたところ、柴田(勝家)が岐阜へ赴き、三七殿(織田信孝)と心を合わせ、お市御料人を迎え取って自分の妻とした。
武将でも公家でもない、尾張の普通の庶民が孫に語って聞かせた話である。
ということは、「お市は天下一の美人」「秀吉が狙っていた」「勝家に横取りされた」という話が、当時の井戸端会議レベルで広く知られていたことを意味する。
■実際は「政治ゲームの駒」
現代風に言えば、こんな感じだろうか。
「お市さん勝家に取られたの草 秀吉さんあんだけ強いのになんで負けたん」

「てか勝家岐阜行って信孝と根回ししてたらしいじゃん えぐくない?」

「秀吉さん天下取りかけてるのにここだけ負けるの人間味ありすぎる」

「お市さんが天下一の美人なのはガチらしい 見てみたかった」
そんな「投稿」が、SNSも新聞もない時代に、津々浦々に口伝えで広まっていた。公式記録には名前すら残らなかった女性が、庶民の記憶には「天下一の美人で、秀吉と勝家が取り合った女性」として鮮明に生き続けていた。これは興味深い逆説である。
もっとも、現代のSNSと同様、噂話はだいたい間違っている。
「秀吉と勝家がお市を取り合った」庶民の口コミはそう伝えたが、史料が示す実態は少し違う。お市は争奪戦の主役ではなく、政治ゲームの駒だった。
最初の結婚、浅井長政への嫁入りは、信長が上洛のための同盟を結ぶための政略結婚である。そこには、お市に選択肢はなかったと考えたほうがいいだろう。
史料が語るのはシンプルだ。信長が浅井と同盟を結び、その証としてお市を送り込んだ。
それだけである。お市がどう感じたか、長政をどう思っていたか、兄への忠義と夫への愛の間で葛藤したかどうか、そういったことは、ひとことも出てこない。
■「信孝と結束を固めるため」の政治的一手
つまり「兄と夫の間で揺れた悲劇のヒロイン」は、後世が作り上げたキャラクターである。史料の中のお市は、ただ「送られた」。主語は常に信長であり、お市は目的語でしかない。
では再婚は? 庶民は、天下一の美人をめぐって秀吉と勝家が争ったなどと噂をしていたが、実態はそんな、のほほんとしたものではなかった。
教科書などの概説書では、清須会議のあと、秀吉と勝家の対立が高まり賤ヶ岳の戦いへと至ったと平易に記述している。しかし、史実はもっと複雑である。清須会議で決まったのは、せいぜい互いに今争うのはやめておこうと決めた程度に過ぎなかった。尾下成敏「清須会議後の政治過程――豊臣政権の始期をめぐって――」(『愛知県史研究』第10号、愛知県、2006年)では、会議後の不穏な情勢を検討している。
尾下論文が一次史料から明らかにするのは、秀吉・丹羽長秀・池田恒興の3人が1582(天正10)年10月21日の時点でグループを形成し、信雄を「御代」として担ぎ上げて主従関係を結んでいたという事実である。一方、勝家は信孝と組んで対抗軸を形成しようとしていた。

お市の再婚が動いたのは、ちょうどこの時期である。1582(天正10)年10月6日付の勝家書状には「秀吉と申し合わせ、主筋の者との結婚へ皆の承諾を得た」とある。つまりお市との婚儀は、清須会議後の権力闘争が本格化する直前、勝家が信孝との結束を血縁で固めるための政治的一手として打たれたのだ。信孝にとってお市は叔母にあたる。お市を妻に迎えることは、勝家と信孝の同盟を形式上も不可分なものにする意味を持っていた。
■お市の意思は完全無視、現代風に例えると…
現代風に言えばこういうことだ。カリスマ創業社長が突然死んだ。しかも後継ぎとして育てていた長男まで同じ日に死んだ。
社内は大混乱である。残された息子たちは「次の社長は俺だ」と言い張り、子飼いの幹部や地方支店長たちは「こりゃ早く動かないと何も残らない」と、自分の担当地域や社内の権力基盤を確保しようと奔走し始める。悲しんでいる暇などない。
そんな中、三男・信孝がお市のもとにやってくる。

「おばさん、悪いけどお願いがある。うちの筆頭幹部・柴田勝家さんと再婚してくれないか。そうしたら、あの人が押さえている北陸支店も俺の側に引き込めるんだ」
お市としては困惑するしかない。「え~、私、娘も3人いるし、もう若くもないし……」
すると信孝は畳み掛ける。「なにいってるんですか! おばさんは戦国の美魔女の筆頭ですよ! 社員がみんな言ってますよ! いよっ、戦国のマリリン・モンロー‼」
庶民レベルでも「天下一の美人」として噂になっていたお市の存在感は、権力闘争の文脈では純粋に政治的な価値を持っていた。美貌は、この局面では完全に外交カードである。
こうして、誰もお市の意思を確認しないまま、話は進んだ。
■作り話にしか見えない「お市の最後」
庶民の噂話が描いたような「秀吉と勝家がお市を巡って張り合った」というのほほんとした話ではない。お市の再婚は、天下の主導権を争う権力闘争の中で、陣営固めの道具として処理された政治的取引だった。ここでも主語は徹頭徹尾、男たちである。お市の意思が介在した痕跡は、史料のどこにも見当たらない。
その最後を克明に語るのが『賤岳合戦記』である。これは「題目の如き書なり、別行するを以て収録す、小瀬甫庵太閤記と大異なし(『史籍集覧 總目解題 改定』)」とされる。つまり1626(寛永3)年に儒学者の小瀬甫庵が書いた『太閤記』より抜粋した物語である。
この本、とにかくすごい。燃える城の中で勝家とお市が盃を交わし、涙ながらに言葉を交わし、辞世の句まで詠む場面が、まるでその場にいたかのように克明に書かれている。
だが、待ってほしい。城が燃えている。勝家も死んだ。お市も死んだ。その場にいた者はほぼ全員死んでいる。では誰がこの場面を見ていたのか?
誰がお市の涙を見た。誰が盃のやり取りを記録した。そして誰がお市の辞世の句をメモしたのか。
「さらぬだにうちぬる程も夏の夜の別をさそふほとゝきすかな」
アチチチ……燃えちゃうよ‼ 命知らずな80年代写真週刊誌のカメラマンでも、向こう見ずなYouTuberでも取材は不可能だ。
■「突然輿をとめて女中を押しのけた」
これを書いた小瀬甫庵は、完全に「見てきたような嘘をつく」タイプの江戸時代のライターである。現代で言えば、炎上した企業の最後の取締役会を、誰の取材もなしに「社長は静かに盃を傾けながら……」と書くような記事と同じ構造だ。全員死んでいるのに。
もうひとつ、その最後を記録したとされるのが『溪心院文』という史料(東京大学史料編纂所 編『大日本史料』第11編之4 東京大学、1932年所収)である。これは、お市の娘である、お初(常高院)に養育された川崎正利の孫である溪心院の書き取ったもの。そこには、その最後がこう記されている。
御むめさまは御十三、御十一、御九つのよし、左様さ殿御申され候。御いおさま(五百様)は御ひめさまは、御同道にて御出あそばされ候へども、御いおさまは仰せには、小さい殿時分出させられ候へき候は、何とて御出あるべきや、左様さ殿御一所さの御事に候。
御ひめさまは、うしろより御出しなされ候。ちくせん守(筑前守)殿の御ふ長公(信長公)御かたおんの御人にて候間、あしくいわめされまじく候。
ちくせん守殿へ御私のわかさ(若狭)を候半さて、御いなさは御まちうけにて御書を御そへなされ候。御ひめさまは御うらさを御こし、一つに御めさせまし、女中のおらには、さようによて御供いたし候へども、初めて御三の間まで御おくりあそばされ候。
との外御うつくしく、御さし頃は御若に御廿二、三にも見えさせられ候。この事、できのちんえも、おくさまは、御出なさて、とつさを(突如)らき、御こし女中をさおし申候。この事、御いちはわい、左様さ殿御一所さ、御おもてへ被成ごの事、御どもの女中二三人の事

現代語訳:「姫君たちは13、11、9歳です」と殿(勝家)が申されました。お市様は「小さい殿(勝家)と一緒に死ぬと決めた。なぜ出ていけるものか」と仰った。姫君たちは後ろから出されました。「筑前守(秀吉)殿は信長公のご恩のある方だから、悪くはなさるまい」と。
筑前守殿へお市の私的な書を添えて、姫君たちはお輿に乗せられ、女中がお供しました。最初は御三の間までお送りになりました。
(お市は)とても美しく、その頃は22、23歳にも見えた。城を出た後、輿に乗せられた姫君が突然輿をとめ、女中を押しのけて母のもとへ戻ろうとした。この事は、お市が、殿(勝家)と一緒に死ぬと決めた後、姫君たちを見送った場面の、女中2、3人だけが見ていた話である。
■唯一の決断「娘を生かして、自分は死ぬ」
伝言ゲームではあるが、「突然輿をとめて女中を押しのけた」という細部のリアリティは、作り話には出にくい描写だとすれば、語り継がれた話と考えても間違いではないだろう。
史料が語るお市の能動的な選択は、実はここだけである。娘たちを輿に乗せて送り出したこと。秀吉に娘たちの身柄を託す書状を書いたこと。そして自分は城に残ったこと。
最初の結婚は信長が決めた。再婚は勝家と信孝が決めた。生涯を通じて、お市は誰かに動かされ続けた。それでも、最期だけは自分で決めた。娘を生かして、自分は死ぬと。
だがその「自分で決めた」という感覚を、少し疑ってみてほしい。「信長公の御妹」として生きてきた女が、夫を滅ぼした敵・秀吉の庇護に入ることは、アイデンティティの完全な崩壊を意味した。秀吉と共に生きることは、信長の世界に戻ることだ。それだけは、できなかった。
しかし考えてみれば、その「できない」という感覚はどこから来たのか。「織田の女としての誇り」は誰が植え付けたのか。信長である。プライドも、価値観も、そして死の選択すら最初から最後まで、お市は信長の呪いの中にいたのである。
■信長に翻弄され続けた人生
自分で決めたつもりが、選ぶ基準ごと他人に設計されていた。
創作だと、やたら美女扱いされたり有能扱いされたりする、お市のなんだか腑に落ちない最後、それを問われれば、お市はこう答えるかもしれない。「私は一度も、自分で選んだことなどなかった」と。
なお、北ノ庄城落城の様子は当時の庶民にとってもリアルタイムの大ニュースだった。その噂話と伝聞を素材にして、小瀬甫庵は燃える城の中の「感動的な最後」を書き上げた。文字通りの炎上案件である。

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昼間 たかし(ひるま・たかし)

ルポライター

1975年岡山県生まれ。岡山県立金川高等学校・立正大学文学部史学科卒業。東京大学大学院情報学環教育部修了。知られざる文化や市井の人々の姿を描くため各地を旅しながら取材を続けている。著書に『コミックばかり読まないで』(イースト・プレス)『おもしろ県民論 岡山はすごいんじゃ!』(マイクロマガジン社)などがある。

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(ルポライター 昼間 たかし)
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