明智光秀とはどんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「実は前半生については、あまりわかっていない。
ただ織田信長に仕官してからは極めて異例の出世を遂げた」という――。
■信長は新参者・明智光秀をどう見ていたか
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、12年も先の本能寺の変を予感させるくらい、織田信長(小栗旬)の明智光秀(要潤)への信頼感が薄い。第15回「姉川大合戦」(4月19日放送)で、光秀はようやく信長の家臣になったのだから、仕方ないのだろうか。岐阜城での評定で、信長は重臣たちに「今日より明智十兵衛尉光秀が、わが家臣として加わることとなった」と紹介し、光秀は「これよりは殿のため身を賭して励みます」と答えた。
なにしろ、家臣になったというのも、第14回「絶体絶命!」(4月12日放送)で、それまで仕えていた足利義昭(尾上右近)から「光秀、そなたが信長のものになれ。家臣となり織田の動きをわしに知らせるのじゃ」と指示されてのことなのだから、信頼されるほうがおかしいかもしれない。
そして、第16回の「覚悟の比叡山」(4月26日放送)。光秀は信長から「延暦寺に書状を送り、従わないときは女、子供だろうと皆殺しにしろ」と命じられ、それを実行に移す。その残虐な振る舞いに義昭が激怒すると、光秀は「信長に疑われているからそうするしかなかった」とつぶやくようだ。
だが、結論を先にいえば、この時点で信長が、光秀を疑っていたとは思えない。それどころか、ほかの重臣たちがうらやむほどの信頼を勝ち得ていた。
なぜ、そういえるのか。
そこを解き明かす前に、光秀の出自をたどっておきたい。
■実は朝倉義景のもとに10年居住した
光秀の前半生については、あまりわかっていない。光秀が討たれて100年以上経過してまとめられた『明智軍記』には、美濃(岐阜県南部)の守護、土岐氏の庶流である明智光綱の子、と書かれているが、そう記す根拠があいまいなのだ。
『兼見卿記』をはじめ同時代のいくつかの史料を総合すると、室町幕府の奉公衆だった明智家の庶流の生まれで、その明智家は美濃にゆかりがあり、土岐家に仕える家柄だったと思われる。
年齢だが、光秀の時世の句と伝えられるのが「順逆無二の門。大道心源に徹す。五十五年の夢。覚め来れば、一元に帰す」というものだ。すなわち55歳で死んだと思われ(諸説あり)、そのとおりなら享禄元年(1528)の生まれということになる。
若き光秀が越前(福井県北東部)の朝倉家と縁があったのはまちがいなく、『遊行三十一祖京畿御修行記』には「越前朝倉義景を頼み申され、長崎称念寺門前に十カ年居住」と記されている。では、その時期はいつか。
■将軍・足利義昭に仕えたきっかけ
山田貴司氏は、近年発見された光秀口伝の医術書『針薬方』をもとに推定する(『ガラシャ』平凡社)。
これを足利義昭に仕える米田貞能が書写したのは、永禄9年(1566)10月20日で、それより前に光秀は、田中城(滋賀県高島市)に籠城した折、沼田清延に口伝していた。『針薬方』の文面には、「朝倉家之薬」という表現も見られるため、光秀が越前に居住したのは、田中城に籠城する前ということになる。
では、なぜ田中城に籠城したのかだが、一緒に籠城した沼田清延は義昭に仕える人物。そのころ、南近江(滋賀県南部)の高島郡の領主で、足利将軍家に忠実な朽木家や田中家が北近江の浅井長政に圧迫されており、その事態を収拾すべく義昭が、田中城に清延と光秀を送り込んだ。山田氏はそう読む。
そうであれば、光秀が義昭に仕えるようになったのは、遅くとも永禄9年10月より何カ月か前になる。その後、ほかの将軍家がらみの史料にも「足軽衆」「明智」という名が見られるようになる。ちなみに、この場合の「足軽」はこの語が一般的に表す雑兵のことではなく、当時の幕府において、末席ではあるが一定の身分を表すという。
永禄11年(1568)に義昭が信長とともに上洛を果たすと、光秀も義昭に供奉して京都に移る。そして将軍側近として地位を高めるとともに、信長の家臣らとともに京都の政務や軍事に関わっている。当時の政権が義昭と信長の連立であったため、光秀はそれぞれに「両属」するようになったのである。
■早々に宇佐山城の城主に
「豊臣兄弟!」での光秀は、信長のもとで戦いながら義昭への報告も怠らないなど、「信用ならぬ奴」にも見える。
じつは、そのことは史実としても確認されており、たとえば、浅井長政に裏切られ退却(金ヶ崎の退き口)を余儀なくされた越前への出兵時。出陣して織田勢として戦った光秀は、途中で戦況を記した書状を、義昭の側近に送っている。
だが、それ以後、義昭との関係は次第に薄れ、信長だけに仕えるようになる。そうなったのは、「豊臣兄弟!」で描かれたように義昭の差し金によるものではなく、信長の要求に応えた光秀が、短時日に信長の厚い信頼を勝ちとったからだと思われる。
「豊臣兄弟!」の第16回でも言及されるが、元亀元年(1570)9月、宇佐山城(滋賀県大津市)を守っていた信長の家臣の森可成が、浅井・朝倉の連合軍に討ちとられてしまう(落城はしなかった)。その報に接して、急ぎ摂津(大阪府北中部から兵庫県南東部)での三好攻めから引き上げた織田勢は、しばらく浅井・朝倉勢と対峙したのち、12月に義昭の仲介で和睦した。
その間、光秀は織田勢の一員として多くの戦闘に参加して功績があったようだ。そして元亀2年(1571)の正月までに、信長は宇佐山城を光秀にあたえている。
■極めて異例の厚遇
宇佐山城は比叡山に近く、前城主の森可成は京都の代官だったので、光秀の起用にはその役割を継承させる意味もあったと思われる。こうして光秀は、長光寺城(近江八幡市)の柴田勝家、佐和山城(彦根市)の丹羽長秀、横山城(長浜城)の木下秀吉らとともに、近江における織田方の防衛および戦闘態勢の一翼をになうことになった。
加えて京都の代官も務めるのだから、新参の家臣としては、きわめて異例の厚遇というほかない。信長がいかに光秀の能力を買い、信頼を置いていたかがわかる。

その後、同じ元亀2年(1571)9月12日に強行された、比叡山延暦寺の焼き討ちにいたる。浅井・朝倉勢を支援する延暦寺に対して信長は、前年9月、織田勢に味方するか中立の立場をとるかしないかぎり、焼き討ちすると宣告しており、延暦寺が応じないので実行に移したのだ。
この焼き討ちに際し、光秀にあたえられた役割はわからない。ただ、焼き討ち前には宇佐山城を拠点に周囲の領主たちを調略し、従わなければ「なてきり(なで斬り)」にすると強い調子で迫っている。相当な覚悟で臨んでいたことが伝わる。
そして、比叡山が壊滅したのち、京都との接点にあたる近江国志賀郡の支配が、郡内の延暦寺の所領もふくめて光秀にまかされたのである。
■信長に疑われていたわけではない
志賀郡の中心で比叡山の門前町でもある坂本は、延暦寺を押さえる要の地であると同時に、天下(当時は畿内周辺を意味した)の東端で、まさに京都を中心とした天下を押さえるべき最重要地だった。交通の面でも、「天下」に運ばれる物資が琵琶湖の水運を利用して集まる重要な港町で、近江および北陸と京都を結ぶ陸上交通の要地でもあった。
この時点では光秀はまだ、京都にいる義昭との連絡役という役割も負っていただろう。だが、だからといって信長は、よほど信頼している家臣でなければ、これだけの要地をまかせない。
そして光秀は坂本に城を築いた。水上交通を意識し、琵琶湖畔に築かれた壮大な水城で、本丸には信長の安土城に先立って、高層の天守がそびえた。
イエズス会宣教師のルイス・フロイスは『日本史』にこう記している。
「明智は、都から四里ほど離れ、比叡山に近く、近江国の二十五里もあるかの大湖(琵琶湖)のほとりにある坂本と呼ばれる地に邸宅と城塞を築いたが、それは日本人にとって豪壮華麗なもので、信長が安土山に建てたものにつぎ、この明智の城ほど有名なものは天下にないほどであった」(松田毅一・川崎桃太訳)
むろん、信長の家臣の築城は、信長の意向の反映であり、信長の許可がなければ、壮麗な天守を建てることなど許されなかった。
光秀は信長の家臣のなかでも特別な位置に躍り出た。そして、しばらくその地位を保つ。人間だからなんらかの悩みは抱えていただろうが、「信長に疑われている」という悩みだけは、その後、何年も抱えなかったのではないだろうか。

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香原 斗志(かはら・とし)

歴史評論家、音楽評論家

神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)
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