■保護者会でぶつかる「正論vs.正論」
多くの小中学校で、新年度最初の保護者会が4月に行われる。担任教員からのあいさつや、学級運営方針、勉強の進め方と並んで、ほぼ必ず組み込まれているのが、クラスごとのPTA分担決めではないか。
各種イベント、学校公開(授業参観)時の受付、防犯や広報など、PTAの活動は多岐にわたる。小学校なら6年間、中学校なら3年間、子どもが在学しているうちに一度は係を受け持つ、といった(ローカル)ルールが、学校や地域ごとにある。
わが家では、妻が、このうちのひとつを引き受けたものの、その場で「保護者会に欠席している人が、これまでに担当していないことが多い。その人たちも出席する時に、あらためて決めるべきではないか」と意見が出されたそうで、ひとまず持ち越されたという。
このやりとりに、PTAをめぐる問題が集約されているのではないか。それは、公平性をめぐる意見の違いであり、言い換えれば、「正論」同士のぶつかりあいである。私自身、PTAの役員を務め、その経験をもとに、青弓社のウェブサイトでの連載「PTAのエスノグラフィー」を書いており、研究を進めている(※1)立場として、「ああ、変わらないな」と印象を深めた。
※1:「PTAの言説史・序説」(『現代社会研究』11巻、2025年)、「PTAの言説史 その始原と現在を照らし合わせて」(『現代社会研究』12巻、2026年)
■関心があるのは「わが子の在学中」だけ
なぜ、変わらないのか。PTAへの関心は、子どもがいる間に限られるからである。
ただ、自分の子どもが卒業してしまうと、学校との距離は遠くなる。切迫感が薄まるのは当然だし、たとえ「学校運営協議会」や「コミュニティ・スクール」に参加したとしてもPTAとの関係は途切れる。
渦中にいる時は、PTAの分担は死活問題であり、自分の生活を大きく左右する。行事や打ち合わせへの参加、ベルマーク収集といった(細々とした)作業など、ただでさえ共働きと子育ての両立に腐心しているなかで、負担や重荷としてのしかかる。
反対に、ひとたび、自分の子どもが学校を卒業してしまえば、もう、PTAとつながりはない。終わってしまえば他人事であり、この記事のように「PTA」の3文字を目にしたとしても食指が動かない。いや、目に入らないのではないか。
■横領事件すら世間から「スルー」される
PTAをめぐる不祥事を例にとろう。2024年、全国の小中学校を中心とした「日本PTA全国協議会(日P)」の元参与が、同会の持つビルをめぐって、工事代金を水増しして約1200万円の損害を与えたとして背任と業務上横領の罪に問われた。
同会では、約3年前にも、当時の会長によるハラスメント疑惑が浮上した。その後、その会長と同会との間で裁判となり、ハラスメント対策委員会が「適正手続きという点から十分なものではなかった」として和解に至った。
上記の背任・業務上横領事件では、被告の元参与が、昨年10月に懲役3年の有罪判決が下されたものの、控訴しており、まだ裁判が続いているし、元会長の事案もまた、経緯を見る限り、会長にのみ咎があったわけではないのかもしれない。
ただ、ここで重要なのは、同会のガバナンス不全(のみ)ではない。それよりも、全国の保護者が「PTA会費」として納めた貴重なお金の使い道について刑事事件になったり、その会のトップがハラスメントを疑われたりしながらも、ほとんど世間の関心を呼んでいないところではないか。
子どもが在学中の保護者は、私も含めて、まだこの件について多少の興味を持っているのかもしれない。けれども、大多数の、つまり、就学中の子どものいない大人にとっては、視野に入っていないのではないか。社会の無関心さがPTA問題をとらえにくくしているのではないか。
■本来は「自由参加」のはずなのに…
他人事感が強くなるのは、子どもの有無にのみ由来するのではない。PTAが抱える根本的な弱点であり強みから来る。それは、タダ働き、という点である。
もちろん、PTAは任意加入、すなわち、入るも入らないも、個人の自由である。憲法学者の木村草太氏は、『憲法の学校 親権、校則、いじめ、PTA――「子どものため」を考える』(KADOKAWA)で日本国憲法に照らして「国家といえども、法律の根拠なしに、個人に対してPTA加入を強制してはならない」と説いている(参考:〈PTAやめたい…ベルマーク集め、見守り活動に駆り出される「ブラックPTA」から親子を守るための法律知識〉)。
「ブラックPTA」と称されるのは、自由参加であるはずなのに強制のように扱われるからであり、さらに、その参加にあたっての活動が無償だからである。木村氏が授けてくれる法律知識は武器になるし、頼もしい。日本を代表する憲法学者のお墨付きがあるのだから、堂々と退会しても良い。
■「ブラックPTA」の落とし穴
ただ、まさに、ここに落とし穴があるのではないか。
もちろん、こうした知見は重要だが、現場では別の力学が働く。それは、先に述べた「日本PTA全国協議会」の元参与のように私腹を肥やそうとする(邪な)動機よりも、「子どものため」といった(純粋な)理由のほうが、参加者の大部分を占めているからである。
仮に、無理やり役員にさせられたとしても、いや、そうさせられた人のほうが、自分の貴重な時間と労力を費やしてPTA活動に従事する以上、「子どものため」との「正論」でみずからを納得させようとするのではないか。
こうして見ると、PTAをめぐる問題は、制度不備や不祥事というよりも、参加者の動機と無関心の構造に根差していることがわかる。ここに「ブラックPTA」なる呼び方の難しさがある。
■「子どものため」には敵わない
木村氏をはじめとする有識者は、理論武装においてはすばらしい。何も知らないまま、義務だと勘違いしてこき使われる保護者を、その苦役から解放してくれる。何となく抱いていた違和感を言葉にして、しかも、憲法や法律の後ろ盾によって立ち向かう勇気も与えてくれる。それは「正論」としか言いようがない。
かたや、「子どものため」は、どうか。子どもを持つ保護者、さらには、学校の教職員にとって、これだけ強いスローガンはない。子どもが健やかに育つためなら何でもする、とまではいかなくても、教育に携わる以上、「子どもファースト」は否定できない。肯定するしかない。これもまた「正論」にほかならない。
これまでのPTAは惰性や慣習に甘えて、任意加入の原則を説明せず、あたかも加入が義務であるかのように装ってきた部分があった。とはいえ、こうした「正論」と「正論」のぶつかり合いにおいては、「子どものため」には敵わない。
もはや「ボランティア」と呼ぶ自発性もなければ、逆に「ブラック」と名指すほどの強制性も見えなくなる。
■冷笑される「ボランティア」のほうがマシ
社会学者の仁平典宏氏は、「ボランティア」を論じた大著『「ボランティア」の誕生と終焉』(名古屋大学出版会)において、〈贈与のパラドックス〉という概念を打ち出した。平たく言えば「情けは人のためならず」の過剰さと言うべきか。贈与=何かを与えることが、「他者のため」と解釈され過ぎるあまりに、かえって、与えている側が相手や社会から何かを奪っているとすら受け取られかねない。こうした「パラドックス」=矛盾が生じる、と論じた。
このため「ボランティア」は「冷笑」にさらされやすい。それが仁平氏の論点だったのだが、PTAは「冷笑」されにくい。「ボランティア」と割り切れないからである。「子どもファースト」には誰もが賛同するほかないからである。
「ボランティア」のように、自分の「善意」で、自己責任で、自分の意志で進んで取り組んでいるのなら、「冷笑」されたとしても反発するだろう。「冷笑」されるならまだ健全だとさえ言えるのかもしれない。
識者の「正論」が正しければ正しいほど、余計に、「子どものため」とする、また別の「正論」の正しさが際立つ。法律論や原則論のほうが「冷笑」されている恐れがある。いや、「冷笑」されるなら、まだマシなのではないか。「ボランティア」のほうが、まだマシなのではないか。
■現場での「面従腹背」という処世術
タダ働きなのに、その理不尽さを塗り固めるための「正論」=「子どもファースト」が持ち出される。というか、「正論」とは思われておらず、もっと純粋な「善意」にあふれている場合も少なくない。
PTAが当事者に負荷が重いばかりに、かえって部外者には他人事感が強い。さらには「ボランティア」ほどの自主性を見出せないばかりに、学者やジャーナリストの「正論」が逆効果を生み出すきらいがある。そんな袋小路を生き抜くには、どうすれば良いのか。
我慢にとどまるのでも、反発し過ぎるのでもなく、適度に仲間を見つけ、ガス抜きをしていく以外に、なかなか打開策を見つけづらい。数年間の辛抱=修行のように耐えるだけではストレスがかかるし、かといって、改革をしようと拳を振り上げても、笛吹けど踊らず孤立しかねない。
とするなら、どちらかに偏るよりも、時に批判をしつつ、ただ粛々と役割を果たす。制度を変えようとするよりも、現場でのミクロなやりとりが大切である。完全に一挙に解決しようとするよりも、運用の知恵が鍵になる。そんな面従腹背、いや、したたかな付き合いにこそ、光明を見出せるのではないか。
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鈴木 洋仁(すずき・ひろひと)
神戸学院大学現代社会学部 准教授
1980年東京都生まれ。東京大学大学院学際情報学府博士課程修了。博士(社会情報学)。京都大学総合人間学部卒業後、関西テレビ放送、ドワンゴ、国際交流基金、東京大学等を経て現職。専門は、歴史社会学。著書に『「元号」と戦後日本』(青土社)、『「平成」論』(青弓社)、『「三代目」スタディーズ 世代と系図から読む近代日本』(青弓社)など。共著(分担執筆)として、『運動としての大衆文化:協働・ファン・文化工作』(大塚英志編、水声社)、『「明治日本と革命中国」の思想史 近代東アジアにおける「知」とナショナリズムの相互還流』(楊際開、伊東貴之編著、ミネルヴァ書房)などがある。
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(神戸学院大学現代社会学部 准教授 鈴木 洋仁)

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