「豊臣兄弟!」(NHK)では秀吉が城持ちとなり、家臣が増えて会社のようになっていく。系図研究者の菊地浩之さんは「秀吉の事務方というと、石田三成など“五奉行”のイメージが強いが、その前任者である一世代上の“六人衆”たちも優秀だった」という――。

■豊臣家臣団の「六人衆」とは?
大河ドラマ「豊臣兄弟!」(NHK)に豊臣秀吉(池松壮亮)にとって“生え抜き”の家臣となる若き石田三成(松本怜生)が登場した。
三成(1560~1600年)は豊臣政権の実務を担当していた「五奉行」の一人として有名である。
「五奉行」のメンバー
・前田玄以 (1539~1602) 美濃出身

・浅野長政 (1547~1611) 尾張出身 五奉行筆頭、秀吉の義兄弟

・増田長盛 (1545~1615) 尾張出身(近江出身説あり)

・石田三成 (1560~1600) 近江出身

・長束正家 (? ~1600) 尾張出身(近江出身説あり)

この「五奉行」はある日突然、秀吉から職制を定められたわけではなく、豊臣家の家政を担当する「六人衆」のメンバーが世代交代し、再編されてメンバーが固定化していったものらしい。「六人衆」とは以下の6人を指す。
「六人衆」のメンバー
・寺沢広政 (1525~1596) 尾張出身

・蒔田広光 (1533~1595) 尾張出身

・小出秀政 (1540~1604) 尾張出身 秀吉の義叔父

・石川光重 (? ~1596) 美濃出身 石川光政の弟

・伊藤秀盛 (生没年不詳) 美濃出身?

・一牛斎能得(いちぎゅうさいのうとく)(生没年不詳) 出身地不明

■「石川光政・光重」兄弟の存在感
「六人衆の起源は、山崎の戦の戦後処理で在京していた石川光政・伊藤秀盛の二人組が天正十一年十二月の光政の死でいったん消滅したのをきっかけに、姫路留守居衆の一牛斎・寺沢・蒔田・小出が加わって、伊藤・石川光重(光政の弟)の六人で集まったことが始まりである」(寺沢光世「秀吉の側近六人衆と石川光重」『日本歴史』。以下、寺沢論文と称す。カッコ内は引用者註)。
そして、この「六人衆」に「後に一牛斎・蒔田に代わって民部卿法印(前田)玄以・増田右衛門尉長盛が加わり、秀吉の晩年に石田(三成)・浅野(長政)・長束(正家)・増田・玄以の五奉行が成立する基となった」(寺沢論文)。
秀頼が生まれると、小出秀政と片桐且元が秀頼付きの家臣とされ、秀吉が死去すると、片桐と石川光吉・一宗兄弟(光重の子)、石田正澄(三成の兄)が奏者番(俗に「秀頼四人衆」)に選ばれ、豊臣家の家政を任された。
■事務方たちの血縁ネットワーク
つまり、豊臣家臣団の事務方は、①石川光政・伊藤秀盛の二人組から、②石川光重を含めた「六人組」、③石川氏がいない「五奉行」、④石川光吉・一宗兄弟を含めた「秀頼四人衆」へと変遷していった。豊臣家臣団の事務方の本流は石川家にあり、石川家は石田三成・大谷吉継・真田信繁(幸村)をも包括した巨大な血縁ネットワークを形成していた。
石川家は美濃国厚見郡加々嶋(岐阜市鏡島)出身で、石川光信(光延、家光ともいう)は斎藤道三に仕え、のち織田信長に転じた。
その子・石川光政(?~1583)は早くから秀吉の与力とされた。秀吉からの信用が厚かったようで、天正10(1582)年6月、山崎の合戦の戦後処理を伊藤秀盛とともに任された(二人組)。
しかし、翌天正11年に光政が死去。光政が死去した際、子の石川貞政(1575~1657)はわずか七歳だったので、光政の弟・石川光重(?~1596)が後見を務めた。一方、「二人組」は「六人衆」に改編され、光重がその一員に選ばれた。
光政・光重の生年はわかっていない。しかし、「六人衆」の年齢構成から考えると、1530~40年代生まれと思われる。
■石川家の三男は賤ヶ岳で討ち死
尾張藩士の家系図を集めた『士林泝洄』によれば、石川光重には少なくとも4人の男子がいた。次男と四男が「秀頼四人衆」になっており、豊臣政権の事務方は石川光重の子孫に継承されたことがわかる。
・長男 石川光元(?~1601)

・次男 石川光吉(?~1626)貞清ともいう。秀頼四人衆

・三男 石川一光(?~1583)貞友ともいう。賤ヶ岳の合戦で討ち死に

・四男 石川一宗(?~1600)頼明ともいう。
秀頼四人衆
また、光重の三男・石川一光は秀吉の馬廻りを務め、賤ヶ岳の合戦で一番槍の功を挙げた。本来なら「賤ヶ岳の九本槍」の一人に挙げられるべきだったのだが、討ち死にを遂げ、選から漏れてしまった。その功は遺児に与えられるべきだったが、一光に子がなかったので、代わりに末弟の四男・石川一宗に1000石が与えられ、のちに1万石を賜った。一般に頼明と呼ばれており、秀頼から偏諱を受けた可能性が高い。関ヶ原の合戦では毛利・石田方につき、切腹を命じられた。
■次男は秀頼四人衆、犬山城主に
光重の次男・石川光吉(三吉)は一般に備前守貞清と呼ばれる。秀吉に仕え、尾張犬山1万2000石を賜り、秀吉の死後、弟・一宗らとともに「秀頼四人衆」を構成した。関ヶ原の合戦では毛利・石田方について改易された。宗休と号し、京都に隠棲したと伝えられる。
『石田三成のすべて』『真田幸村のすべて』によれば、石田三成の次女および真田信繁(幸村)の七女がそれぞれ石川光吉に嫁いでいるのだという。
これについて、当の石川家(石河家)に伝わる家系図などによれば、「石川光吉(貞清=宗林)は大谷吉継の妹婿(北政所の側近東殿局の娘婿)であり、石川光吉の末弟・石川一宗夫人(長野殿、芳園院殿)は石田三成夫人(無量院殿)の妹」(『石田三成とその子孫』)と記されているらしい。こちらの説の方が信頼できる。
なお、光吉の子・石川重正が真田信繁の女婿という説もあり、重正と光吉を誤認した可能性は否定できない。
真田信繁は婚姻関係を見るに石川閥に取り込まれており、関ヶ原の合戦で光重の子どもたちと同様に毛利・石田方についたのだろう。
■石田三成は石川光重の後継者
「石田三成が石川光重の後継者として光重の子の光元・光吉・一宗の後楯となった。」「三成は信仰面で光重の影響を強く受け、(中略)三成は光重の政治的後継者としての自負があった」という(寺沢論文)。
石川光重は慶長元(1596)年に死去しており、「五奉行」に石川家からの登用がなかったのは、世代交代の谷間にあったからではないか。石田三成が石川家の代わりに奉行に登用されたという見方ができなくもない。
ここで、注目したいのは石田家の名前(諱)である。石田三成の父は「正継」、兄は「正澄」で、なぜ「三成」一人が諱に「正」の字を使っていないのか。そして、なぜ三成の長男は「重家」で、父三成や祖父正継の字を使っていないのか。いろいろ考えて、石川光吉(三成の義弟・石川一宗の兄)が一時期「三吉」と名乗っていたことに行き着いた。
光吉が三吉と名乗っていたのと同様、光吉の父・石川光重(みつしげ)も三重と名乗り、三成に偏諱を与えたのではないだろうか。また、三成の子・重家も光重が偏諱を与えた可能性がある。
一方、石川光忠は8歳にして父を失ったため、お亀の方に引き取られ、養育された。

■豊臣家滅亡後も石川家は栄えた
光重の長男・石川光元は秀吉に仕え、播磨竜野5万3000石を賜った。関ヶ原の合戦で毛利・石田方についたが、藤堂高虎の助命嘆願により赦され、翌慶長6(1601)年6月に死去した。
光元の側室・お亀の方(相応院。1573~1642)は、はじめ美濃齋藤家の家臣・竹腰(たけのこし)正時に嫁ぎ、竹腰正信(1591~1645)を生んで死別。その後、光元の側室となり、石川光忠(1594~1628)を生んだ後に離縁された。さらに、文禄3(1594)年に徳川家康に見初められて側室となり、尾張徳川家の家祖・徳川義直(1600~1650)を生んだ。
家康が江戸幕府を開き、慶長12(1607)年に義直が尾張清須藩主(のち名古屋に移転)になると、異父兄・竹腰正信は附家老(つけがろう)に登用され、翌慶長13年に光忠も家康に召し出され、慶長15(1610)年に美濃・摂津で1万300石を賜った。慶長17(1612)年に名古屋城代を命じられ、尾張藩政に参与。子孫は美濃国中島郡駒塚を居所として家老職を務め、四代・正章の代に本家に従って「石河(いしこ)」に改姓。明治33(1900)年には男爵に列した。どこまでもしぶとい一族なのであった。

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菊地 浩之(きくち・ひろゆき)

経営史学者・系図研究者

1963年北海道生まれ。
國學院大學経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005~06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、國學院大學博士(経済学)号を取得。著書に『企業集団の形成と解体』(日本経済評論社)、『日本の地方財閥30家』(平凡社新書)、『最新版 日本の15大財閥』『織田家臣団の系図』『豊臣家臣団の系図』『徳川家臣団の系図』(角川新書)、『三菱グループの研究』(洋泉社歴史新書)など多数。

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(経営史学者・系図研究者 菊地 浩之)
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