■今も昔も「よそ者」だと感じさせる場所
時代の波に洗われながら変貌を遂げる東京都渋谷。駅前のスクランブル交差点を見つめ続けてきた「大盛堂書店」は、ただの書店ではない。あまり知られてはいないが、同書店は昭和文学の巨星、三島由紀夫とその自決に深く関わっている。
戦後の混沌から高度経済成長期を経て、現代へと至る日本の文化の変遷、そして一人の天才作家の精神の軌跡を、変わり続ける渋谷と変わらない大盛堂書店の姿から読み解いていこうと思う。
私が学生のころだから、もう30年も前のこと。渋谷はちょっと怖い街だった。センター街を歩くと、ごついエンジニアブーツにインディゴブルーのジーンズを合わせたチーマーたちがたむろしていた。北九州の田舎から出てきた私にとって、都会育ちの彼らは新しいタイプの不良だった。都会のど真ん中で、そんな連中を眺めながら、自分自身がよそ者であることを強烈に感じた。
それから長い時間が流れ、都会の生活にも慣れてきたつもりだが、今でも渋谷の街に立つと、やっぱり自分がよそ者だと感じる。
■かまぼこ屋根で思い出す「東口の象徴」
30年前の渋谷駅東口を象徴していたのは、かまぼこ屋根が特徴の東急東横線地上駅舎だった。改札を抜けるとすぐに街の喧騒があり、地上3階を営団地下鉄(現メトロ)銀座線が横切る風景が日常だった。
それが今や、地上230メートルの超高層ビル「渋谷スクランブルスクエア」がその跡地にそびえている。かつて地上の顔だった東横線は地下5階に追いやられ、代わりに人々は屋上展望台「SHIBUYA SKY」から、かつて見上げていた空を眼下に見下ろしている。
■昭和の住宅街から「スタートアップ」の街へ
西口・桜丘町エリアの変化も凄まじい。季節になれば、通りの両側に植えられたソメイヨシノが、ぎっしりと咲く「さくら坂」で知られる一帯だ。
かつては、バスターミナルの背後に楽器店や古びた「桜丘会館」などが並び、どこか昭和の住宅街の静けさや情緒があった。国道246号線が駅まわりの喧騒を遮る壁となって、裏町の風情もあった。数百円で酔える立ち飲み屋なんかもあり、ポケットが空になるまで、飲み明かしたのを懐かしく思い出す。
ところが現在は、巨大でカラフルな「シブヤサクラステージ」が開業し、歩行者デッキが国道を跨いで駅と街を繋いでいる。これにより、桜丘は「孤立した坂の街」から、最先端のITスタートアップが集う「空中都市の玄関口」へと生まれ変わった。
■外国人旅行客がつい撮りたくなる看板
渋谷に来ると、自分がよそ者であると強烈に感じる私だが、渋谷の街で、よそ者でなくなることができる唯一の場所がある。
神宮通りと旧大山街道が交差する「渋谷駅前交差点」。多い時には1回の青信号で2000人を超える人間が行き交うのに、接触トラブルが起きない。“ぶつからない交差点”として、世界的に知られている。渋谷を訪れた訪日客の多くが、この場所で写真や動画の撮影をする。
渋谷駅から北西方向に、この交差点を渡ると、センター街に行き着く。その手前に「大盛堂書店」はある。この日も看板の前で記念撮影をする外国人旅行客が何人もいた。大盛堂の看板を見ると、私は妙に安心する。理由を言葉にするのは難しいが、かつては日本中のどこにでもあった、街の本屋の風情を感じることができるからだろう。「大盛堂書店」の看板が見つめてきたのは、変わりゆく渋谷の姿だけではない。戦後日本の文学、書店、日本人の精神、それらが包括する文化そのものを見つめてきたといっていい。
■大盛堂書店は変化と改革の象徴だった
渋谷のスクランブル交差点にある大盛堂書店は、地下1階、地上4階の建物だ。各フロアは30坪と小さめだが、インバウンド需要にも目をくばった独自の品揃えで存在感を示している。
運営会社の代表である舩坂良雄さんは今年77歳になる。若いころには剣道や居合術、極真空手で鍛えたとあって、がっしりした体躯は、年齢を感じさせない。大盛堂書店にうかがった日、いつもはイベントなどに使われている、同店の3階に場所を用意してくれた。
変わり続ける渋谷にありながら、いつまでも変わらない姿で営業を続ける大盛堂書店だが、かつての同書店は変化や改革の象徴のような存在でもあった。舩坂良雄さんが説明する。
「もともとの創業は1912年です。私の父・舩坂弘が第二次世界大戦から帰ってきて、2代目の代表に就任してから、本格的に大盛堂の躍進が始まったと言えます」(舩坂良雄さん)
後ほど詳述するが、舩坂弘は第二次大戦で、当時「玉砕島」と言われたアンガウル島から生還したひとだ。この時の体験が、作家・三島由紀夫との縁を結ぶ。「父はビジネスマンとしての先見の明がありました。
■2代目と三島由紀夫の知られざる関係
先にも触れた通り、2代目の舩坂弘は戦争体験者だ。しかも、派兵されれば生きては帰れないと言われたアンガウル島で闘った。終戦間際の1944年、約1200名の日本兵が約2万の米兵を相手に死闘を演じた。日本兵の生還者は約50人と言われている。そのひとりが舩坂弘だ。彼は米兵から、殺しても死なない男、と恐れられていたという。
「父は、兵士として非常に優秀で、銃剣術の腕前もかなりのものでした。戦争から帰ってきてからは、剣道や居合道に精進しました。私もその血を受けて、若いころから渋谷警察の道場に通っていたのです。その道場に三島(由紀夫)先生もいらっしゃっていた」(舩坂良雄さん)
舩坂弘はある時期から、戦争の悲惨さを後世に残すために、自身の体験を綴りはじめた。その第一作が『英霊の絶叫 玉砕島アンガウル戦記』だ。
「父は書き上げた原稿を、道場仲間である三島先生に読んでもらうことにした。当時の三島先生は超売れっ子の小説家ですから、相手にされなくてもともとだと、どこかで思っていたかもしれません。ところが、三島先生はその原稿を高く評価してくださり、単行本化するために尽力してくれた。その上、単行本の序文まで書いてくれたのです」(舩坂良雄さん)
その一部を抜粋する。
■お礼の刀が三島事件で介錯に使われた
【(舩坂弘)氏は、水も食もない戦場で、左大腿部裂傷、左上膊部貫通銃創二ヶ所、頭部打撲傷、右肩捻挫、左腹部盲管銃創、さらに左頸部盲管銃創といふ致命傷を受け、一旦あきらかに死亡したのち、三日目に米軍野戦病院で蘇り……】
まさに、凄まじい、のひとことだ。
「父・弘は、序文のお礼に『関孫六』という名刀を三島先生に贈呈しました」(舩坂良雄さん)これが1966年ころだ。その数年後、三島由紀夫は憲法改正、第9条破棄のために自衛隊に決起することを訴え、1970年11月25日に割腹自決をした。享年45歳。その時の介錯人である森田必勝が、三島の首を落とすために使ったのが、舩坂弘が贈呈した関孫六だった。世にいう「三島事件」である。
■変貌する渋谷駅前に残る、変わらない歴史
「事件当時、私はアメリカに短期留学していて、詳細を把握していませんが、父・弘は事情聴取のために警察に呼び出されて、取り調べを受けたようです。ただ、そのことについて、息子の私にはあまり話したがらなかった。
壮絶な歴史ではあるが、舩坂良雄さんから見た三島由紀夫は、気持ちのやさしい、“普通のおじさん”だったという。
既述のように、父・舩坂弘さんと三島由紀夫の出会いの場は、渋谷警察の道場だ。そして、高校生の舩坂良雄さんも同じ道場に通っていた。
「私は剣道と居合道の稽古を行っていました。経歴で言うと、剣道の方は三島先生のほうが先輩ですが、居合道については私のほうが少し先輩でした。稽古が終わると、併設された風呂にみんなで入ることもあった。三島先生の豊かな胸毛を見て、『先生、それを何本かください、うちで売っている先生の作品のおまけにしたら高く売れそうだから』って、そんな冗談も言ってました。先生は『いいアイディアだね』と豪快に笑っていらっしゃった」(舩坂良雄さん)
現在の渋谷は、インバウンドの聖地となり、巨大IT企業が集まるグローバルな街へと変貌した。駅も、坂も、人の流れも、かつての姿を大きく変えている。それでもスクランブル交差点の一角に、大盛堂書店は今も変わらずある。
その歴史の奥には、戦場から生還した舩坂弘の記憶があり、その原稿に序文を寄せた三島由紀夫との縁があり、さらに三島の割腹自決へとつながる一本の刀の物語がある。渋谷は、こうした変わらない歴史が生き続けている街でもある。
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末並 俊司(すえなみ・しゅんじ)
ジャーナリスト
1968年福岡県生まれ。日本大学芸術学部卒。テレビ番組制作会社勤務を経てライターに。両親の在宅介護を機に、2017年に介護職員初任者研修(旧ヘルパー2級)を取得。「週刊ポスト」などで、介護・福祉分野を軸に取材・執筆を続ける。『マイホーム山谷』で第28回小学館ノンフィクション大賞を受賞。
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(ジャーナリスト 末並 俊司)

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