人は失敗を犯す。しかし、立ち直ることができる。
18歳の時、覚醒剤使用で少年院に送られた少年は、数学0点・アルファベットも書けない状態から3浪の末に医学部へ合格。今は父が遺したクリニックの院長として、患者に慕われる医師になった。大阪・河内長野市の診察室で水野宅郎さんが振り返る、転落と再生の物語。その分岐点は、少年院に届いた父からの手紙だった。ライター・ざこうじるいさんが取材した――。
■中学校に馴染めない問題児
「その風は、中国のどんなところから生まれるんですか?」
1990年、大阪の中学校1年生だった水野宅郎さんは、社会の先生にそう尋ねた。偏西風の説明を聞いて、中国には風を生み出す深い谷のような場所があるのだと思い込んだのだ。
何度もしつこく尋ねていると「授業を妨害するな!」と大声で怒鳴られ、廊下に立たされる。水野さんは先生がなぜ大声を出したのかわからないまま、廊下に出てからも中国の深い谷のことを考え続けた。
さらに、数学の先生が「結果よりも過程が重要です」と言った次の授業で、社会の先生が「導かれた結果が重要です」と言うと、どちらが正しいのかが気になってその後の授業に集中できなくなってしまう。
小学校までは「人と違う視点を持っている」と褒められたが、中学校では質問するたびに先生に怒られ、みるみる成績が下がった。
振り返ると、子どもの頃から他人と話が噛み合わない事が多かった。
授業に馴染めず、部活も続かず、恋愛もうまくいかない。それでも「モテたい」と思った水野少年は、「中途半端なバカより思いっきりバカのほうがモテるんちゃうか」と、勉強することをあえて放棄し、クラスで一番モテていた“もったん”という不良少年に近づいていく。
■パチンコとシンナーに明け暮れ、現行犯逮捕
ある日、もったんが住む長屋に遊びに行くと、部屋にいた先輩が手に持っていたビニール袋を差し出し、呂律の回らない口調で「お前も吸うか?」と聞いてきた。もったんが「ライターのガスや」と教えてくれたその袋の中身を吸い込むと、楽しい気分になった。
その日から毎日もったんの家に行ってライターのガスを吸うようになり、それは次第にシンナーに変わった。
毎日のようにライターのガスやシンナーを吸うようになった水野少年の生活は荒れた。母親の勧めで不登校や中退者を受け入れていた北海道の北星学園余市高等学校に入学したものの、仲間とのシンナー、ポーカー賭博などにより、わずか半年で退学する。
帰阪後に始めた水道工事店のアルバイトも10日で辞め、パチンコとシンナーに明け暮れる毎日。15歳の秋、公園で仲間とシンナーを吸っているところを現行犯逮捕された。留置場での取り調べを経て、大阪少年鑑別所へ。
母は高校を停学になったときと変わらず「あんたのおかげでいろんなところへ行けるわ」と面会に来てくれたが、母の気持ちを想像することはできなかった。
■不良行為が一線を越えた
25日間の鑑別所生活を経て出所した後も、反省はゼロ。
担当の保護司には「仕事を始めた」と嘘をつき、相変わらず悪友とシンナーを吸って、今で言う闇バイトにも手を出した。合計12回の保護司面談を終えて保護観察処分が終了すると「保護司を騙しきった」とガッツポーズさえしたという。
17歳になると、地元の先輩に「いつまで子どもの遊びをしてるんや」と勧められ、シンナーから覚醒剤へ移行する。夜になると覚醒剤を買う金を手に入れるための自販機荒らしに出かけ、昼間は薬物売人が多くいる西成地区へ通った。
「モテたい」という思いから始まったはずの不良行為は、いつしか水野さんを覚醒剤の沼に引きずりこみ、抜け出したくても抜け出せなくなっていた。
そして――。
覚醒剤取締法違反で逮捕。体調不良のまま先輩と行った自販機荒らしで、水野さんだけが逃げ遅れて窃盗容疑でつかまり、覚醒剤の使用を疑われたのだ。
■ゴキブリと食事をした少年院の夜
「中等少年院送致!」
2度目の鑑別所生活を経て、そう言い渡された。「今回はしくじった」ぐらいに考えていたため、理解が追いつかずににキョトンとしていると、鑑別所の職員が「お前を少年院に送るということや」と説明した。
「えっ! 俺、少年院?」心の中でそう叫んだ。
1996年、11月7日。
18歳の水野さんは兵庫県の少年院「加古川学園」に入所した。初日の夜、「キィユ、キィユ」という音で目を覚ます。見ると、特大のゴキブリが昼食のときにこぼれた汁を吸っている音だった。
「何かの間違いではないか」

「誰か助けにきてくれやしないか」
さまざまな「たられば」が頭をよぎったが、現実は何も変わらない。
「落ちるところまで落ちたな――」
スピードが求められる少年院で、着替えが遅くいつも整列に遅れた水野さんは、「自分は着替えることさえまともにできないのか」と自信を失った。さらに、少年院出所者の再犯率の高さを知り、「また罪を犯して刑務所に行くくらいなら、死んだほうがマシだ」と思い詰める。
しかしその頃、父・滋さんから一通の手紙が届く。そこには丁寧な筆致でこう書かれていた。
「そんなに自分を蔑むな。お前は今でも自慢の息子だ」
それは、少年院行きが決まった時に、父に宛てて書いた手紙の返事だった。
2度目の鑑別所生活中、開業医の父が面会に来た。もう何年も口を利いていなかった父に「もう懲りたか」と声をかけられても返す言葉がみつからず、後日、その思いを平仮名だらけの手紙にしたためたのだ。

「ぼくみたいなどうしようもない人間のために、めいわくをかけてしまってすみません。ぼくのことは、すててください」
父から返ってきた手紙を少年院で受け取って読んだ水野さんは、嗚咽をこらえきれなかった。
■「希望を持て」「絶望を知れ」正しいのはどっちや
同じ頃、少年院のプログラムで、近所の牧師の講話を聞くことになった。もともと仲間以外の話には聞く耳を持たず、特に宗教家は毛嫌いしていたが、このときふと「一回心の中を全部空っぽにして聞いてみよう」と思い立つ。
「今まで『偽善者』という言葉で否定してきたやつを、一回全部話を聞いてその上でぐうの音も出んくらい言い返してやろうって思って。ほんまに底辺やなって思ったんです。ここから先は取れるものは全部とってやろう、という気持ちもあった」
ところが「言い負かしてやろう」と真剣に話を聞いてみると、今まで知らなかった考え方がすっと心に響いた。
その日から、他人の言葉を素直に聞くことを徹底する。するとある日、退官する2人の教務官の挨拶を聞く機会が訪れた。一人目の教官は「希望を捨てずに頑張れ」と激励した。だが、二人目の教官が語った言葉は、その真逆だった。
「君たちは本当の絶望を知らない。
希望を語るばかりだから失敗を繰り返す。絶望を知れ」
集会が終わって寮に戻る間、「また真逆が出た……」と思いながら、「希望」と「絶望」という言葉を反芻した。
「どっちが正しいねん……そもそも絶望ってなんや……」
■「自分には何もない」と知る
国語辞典で「絶望」を調べてみると、「全てを失うこと」と書かれている。
「希望」の意味はなんとなく分かるが、「全てを失う」とは、いったいどういうことなんだろう――。
そこで、任意参加制の「内観」プログラムを受けてみることにした。「内観」とは、生まれてから今までの自分について、両親やきょうだいなどの身近な人との関係性を、1週間かけて思い出していくというもの。
本来の内観は、思い出した内容を紙に記録して終わりだ。だが水野さんは絶望を知るために、一人ずつ身近な人との関わりを思い出しては、捨てていった。その方法は、頭の中でその人が「死んだ」ことにするというものだ。
父、母、兄、祖父母、友達、彼女。一人ずつ関わりを思い出しては頭の中で「殺し」ていくにつれ、自分はどんどん一人ぼっちになっていく。途中、「殺しすぎや」とこらえきれずに嘔吐した。

内観を通じて一人ぼっちになると、ある疑念が生まれた。実は審判のときから「将来は介護の仕事をしたい」と話していたのだが、「俺、ほんまに介護の仕事をしたいんかな」と思うようになったのだ。母親が福祉の仕事をしていて身近だったのと、印象が良いと思っただけだった。
関係性をすべて消し去っていく中で、自分の心で考えていたことがあまりにも少ないことに気がつく。「自分には何もない」ということを突きつけられた。
■捨てられなかった父との思い出
「本当に自分が思っていることってなんや」と自問するうちに、父とのある思い出がよみがえった。
保育園の運動会の日、かけっこで最下位になって泣いてしまった水野さんを父が肩車をしてくれたシーンだ。小さな両手で父の額につかまりながら、幼い水野さんは「僕、お父さんみたいな医者になる」と言った。
「いや、医者って……それは一番ないやろ」と自分にツッコミをいれながら、よみがえったその思い出も、心の中から捨て去った。

「介護でもない、医者でもない。じゃあ俺はこの先なにして生きていくんやろな」
自問自答しながらも、父との肩車の記憶だけは、何度捨て去っても翌日になると再びよみがえった。それどころか、日に日にその記憶は鮮明になる。最後には秋晴れの空の色や、つかまっていた父の額の皮脂の感覚まで思い出した。
「今捨てられへんかったら、もう一生持っておこう」
■気丈だった母を背負い、思わずにじんだ涙
内観を終えたあと、少年院の運動会で家族を背負って走る競技があった。どんなときも陽気で気丈だった母を背負うと、とんでもなく軽い。
内観を経て、必死でシンナーの袋を取り上げようとする母を足蹴にしたことを思い出していた。それでも「あんたのおかげでいろんなところに行けるわ」とどんなところへも駆けつけてくれた母。思わずにじんだ涙を悟られないように前だけを向いてゴールを切った。
「少年院に入っていなかったら、また同じことを繰り返して、間違いなく(覚醒剤で)死んでたと思います。今振り返ると捕まって本当によかった」
1997年11月7日、少年院での生活は、1年と1日で終了する。
結局、最後まで「父のような医者になる」という思いは消し去ることができず、出院するとすぐ、「医者になるために勉強させてください」と父に土下座をした。
「高校で勉強するはずだった3年間だけ、面倒を見る。3年で無理ならあきらめろ」
父は否定することなく、静かにそう言った。
■「悪友の連絡先」を捨て、受験
とはいえ、なにをどうしたら医学部にたどり着くのか見当もつかない。ひとまずそれまで使っていた携帯電話を捨て、住む場所も変えた。いつもつるんでいた地元の悪友と連絡を絶たなければ、弱い自分はまた同じことを繰り返すと思ったのだ。
予備校に通いながら手探りで勉強を始めるが、アルファベットもまともに書けず、最初に受けた数学のテストは0点だった。3年間のうちになんとか合格したいと必死で勉強したものの、1年目と2年目の受験は全滅。
親戚はみな「絶対に受かるわけがない」とバカにしたが、出院後に保護司になってくれた田中輝彦さんだけは違った。3年目の浪人が決まって落ち込んでいると、田中さんは「石の上にも3年だ。早く医者になって、俺の死亡診断書を書いてくれよ」と励ました。
父に与えられた最後の年になって、自分に合った勉強法を編み出した。話が食い違うと途端に集中できなくなる自分の特性を逆手にとって、1人の先生に絞って授業を受けることにしたのだ。
ターゲットの先生を決めたら、その先生の授業を集中して聞きながら一言一句メモをとる。授業が終わると、すぐさま授業と同じ時間をかけて復習し、帰宅後に再度確認の復習。さらに寝る前、翌朝と、それを繰り返す。これを1週間繰り返してその教科を攻略したら、次に移る。名付けて「ストーカー学習法」だ。
この方法で1教科ずつ攻略し、着実に受験という山を登った――。
■患者に慕われる医師に
3回目の受験を終えてから25年後の2026年3月某日。大阪、河内長野の小さなクリニックの診察室に、水野さんの姿があった。
70代の女性患者が「朝起きたらめまいがしたんです」と不安そうに訴える。もともと別のクリニックにかかっていたが、「相談しやすそう」と水野さんの元を訪れたという。水野さんは問診で判明した血圧の薬について、「それやー! それ見せてー!」と明るい口調でこたえ、患者の血圧を確認する。
「血圧そんなに高くないから、心配やったら半分にして様子みてもいいし、この血圧やったら中止してもいいと思うけど、こっちで調整してもええ?」
女性はホッとした様子で「お願いします」と答えた。
水野さんは、父が運営してきた診療所を2018年に引き継ぎ、今は「水野クリニック」の院長として日々患者を診療する。テンポよく患者とやりとりしながらも、重要な情報を聞き出していく様子は、熟練記者のようだ。
患者たちは、「どんなことでも相談しやすい」「よそへ行こうとは思わない」「来たら元気をもらえるし、信頼している」と口々に話す。
看護師として37年のキャリアがあるというスタッフの一人は、「今まで一緒に働いてきた医者の中で、水野先生が一番です」と笑顔を見せながら訪問診療の準備を手際よく進めていた。
水野さんの過去についても話を聞いてみたが、誰一人として不安を口にする人はいなかった。それどころか、「いろいろな経験をしてはるからこそ人の気持ちを分かってくれるし、むしろプラスです」という声もあった。
■「医者になって、ようやく人の役に立てた気がした」
患者の切れ目に水野さんが話してくれた言葉に、信頼の核心が隠されていた。
「たとえ熱が37度でも、患者が『熱が出てしんどい』ってきたら、『それは大変でしたね』って一回認めて安心させてあげるようにしてます。マッサージに行った時に『凝ってますね』って言われると嬉しいじゃないですか。それと一緒ですよね」
患者の主張を認めた上で、医療がその人の暮らしの中でできることを探る。この「暮らしの最善を考える」という姿勢は、父から学んだ。
少年院の経歴が原因で婚約が破談になったこともあったけれど、その後薬剤師の妻と結婚し、2人の子どもにも恵まれた。今は子どもたちの塾の送り迎えを水野さんがこなす。かつての自分と同じようにお茶漬けばかり食べている長男を心配して「俺と同じようになるんちゃうか」と笑った。
父は大勢の人に惜しまれながら、2020年に癌で亡くなった。どんなときも「あんたのおかげでいろんなところに行ける」と言っていた母は今、認知症の症状が出始め、「私が徘徊したら、今度はあんたが迎えに来る番やで」と水野さんを笑わせる。
午前の診察時間を終えると、水野さんはスタッフが作ってくれたおにぎりと味噌汁をかきこみ、休む間もなく診療車に乗り込んだ。
「医者になって、ようやく人の役に立てた気がした。せっかく医者になったんやから、絶対に断りたくないんですよ」

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ざこうじ るい
フリーライター

1984年長野県生まれ。東京大学医学部健康科学看護学科卒業後、約10年間専業主婦。地方スタートアップ企業にて取材ディレクション・広報に携わった後、2023年よりフリーライター。WEBメディアでの企画執筆の他、広報・レポート記事や企業哲学を表現するフィクションも定期的に執筆。数字やデータだけでは語りきれない人間の生き様や豊かさを描くことで、誰もが社会的に健康でいられる社会を目指す。タイ・インド移住を経て、現在は長野県在住。重度心身障害児含む4児の母。

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(フリーライター ざこうじ るい)
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