戦国武将・荒木村重は、織田信長に取り立てられた重臣だった。だが謀反を起こし、自らは妻子と500人の家臣を見捨て毛利に逃亡。
残された家族には凄絶な運命が待っていた。一族を見捨てた男とその家族はその後どうなったのか。江戸文化風俗研究家の小林明さんが読み解く――。
■信長に届いた裏切りの一報
安土城にいた織田信長のもとに「荒木村重が謀反を企んでいる」との一報がもたらされたのは、天正6(1578)年10月21日だった(『信長公記』/信長の一代期)。
信長はにわかには信じず、真相を確かめるため松井(まつい)友閑(ゆうかん)(信長の文官)や明智光秀ら3人を村重のもとに派遣したが、村重は翻意せず拠点の有岡城(兵庫県伊丹市)に籠城してしまう。やむなく信長は11月3日、討伐のため自ら出陣した。
城下町まで堀などでぐるりと囲んだ強固な総構(そうがまえ)の要塞・有岡城に、最初は手こずった。だが、11月末には村重の配下・高山(たかやま)右近(うこん)、中川(なかがわ)清秀(きよひで)が織田方に寝返った。また長期にわたる兵糧攻め、補給路の遮断によって、村重は次第に追い詰められていった。
籠城11カ月が経過した天正7(1579)年9月2日、村重は供の者数人を連れて有岡城を抜け出し、息子の荒木村次(むらつぐ)が守備する尼崎城に移った。もちろん極秘だった。海沿いの尼崎を拠点に、味方である毛利輝元らの援軍を待ち、反撃体制を整えるためだったという。

だが、この行動はほどなく織田方に露見する。城主不在となった有岡城に信長は、「村重が降伏すれば家来たちの命は助ける」と持ちかけた。それを配下の者が尼崎に伝えた――が、村重は降伏をのまなかった。
■500人の虐殺後に待ち受けるさらなる悲劇
有岡城は見捨てられた。信長は城を落とすと、城内の者たちを容赦なく処刑した。その数、約500人(推定)。わざわざ尼崎城近辺まで連行され、磔(はりつけ)にされたり、鉄砲や槍で殺害された者もいた。
このなかに村重の家族はいなかった。家族には別途、さらに酷い仕打ちが待っていた。
『寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)』(江戸幕府が18世紀後半に編纂した大名・旗本の家譜集)で確認できる範囲では、村重の正室は摂津国の豪族だった「北河原三河守某の娘」となっている。この女性が前述の尼崎城・荒木村次の母だが、いつ、どのように没したかは不明だ。
また、村重の正室は、そもそも村重が仕えていた「摂津池田家の娘」という説もある。
ということは、「摂津池田家の娘」が最初の妻で、「北河原三河守某の娘」が継室(後妻)とも考えられるが、詳細は不明。ただし、少なくとも両名とも信長と戦ったときには死去していたと見られる。
■毅然と首を差し出した、若く美しい側室
本記事で注目したいのは、側室の「だし」である。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」にも登場している。石山本願寺に仕えていた「川那部」という人物の娘とされているが、詳しい出自などはこちらもわからない。
『信長公記』は有岡城攻防戦の天正7(1579)年当時、21歳だったと記す。天文4(1535)年生まれで45歳だった村重とは、24歳も年が離れていたことになる。「きこへ有る美人」(有名な美人だった)とも書き残す。
天正7年12月12日、だしは村重の妹や娘、親族とその子ら総勢30人余と共に、京に護送された。同16日、彼女たちは荷車1台に2人ずつ乗せられ、処刑場の六条河原まで引き廻された。「成敗の担当奉行」は、前田利家と佐々成政だった(『信長公記』)。
そして、2人ずつ斬首された。
だしの順番は2番目。身重の村重の娘(17)と同組だった。
だしは車から下りると帯を締め直し、(処刑人に)小袖の襟を少し引いてくれるようにお願いすると、微動だにせず、首を落とされたという。だしの毅然とした態度は、続いて斬首される者たちの手本となり、刑は粛々と執行された。
■「怨念の絵師」と呼ばれた息子
だしは処刑前、句をいくつか残し、それらが『信長公記』に所収されている。うち1つは有岡城が織田軍の手に落ちた際、村重を思って詠んだものと伝わる。
「霜(しも)がれに 残りて我は八重葎(やえむぐら) 難波の浦の底のみくづに」

(訳)今の私は霜にさらされ枯れ残った八重葎(雑草の一種)のようです。あとは難波の海に沈んで藻屑となるだけです

もう1つは斬首の直前に詠んだ辞世で、この世に残していく子への思いを詠んでいる。
「先立ちし この身か露も惜しからじ 母の思ひぞ障りとはなる」

(訳)先に死んでいくこの身は何ら惜しくはないが、母として子を思うと心に触り(心残り)があります

子が心残り――そう、実はだしの子は生き残ったと伝わる。有岡城陥落時はまだ数え2歳で、乳母と共に本願寺に逃れたという。
この子が長じて、のちの世の絵画に多大な影響を与える「浮世絵の祖」岩佐(いわさ)又兵衛(またべえ)勝以(かつもち)である。なんと村重の子は生き長らえ、絵師に転身したというのだ。

又兵衛にはおそらく、母の記憶はうっすらとしか残っていなかったはずだが、だしの辞世にある「心残り」を受け継ぐように、母の面影を感じさせる絵を残している。
■母の最期が傑作を生んだ
代表作は『山中常盤物語絵巻(やまなかときわものがたりえまき)』。奥州平泉へ下った牛若丸(源義経)を訪ねるため都を発った母の常盤御前(ときわごぜん)が、旅の途中の宿で盗賊に襲われて殺害されてしまい、失意の牛若丸がその仇を討つ――という設定で描いた、全長150cmに及ぶ壮大な絵巻物だ。
凄惨な絵である。常盤は盗賊に背後から衣服を奪われ、腰巻1枚の姿にされている。
立ち去ろうとする盗賊に常盤は、「武士なら、ものの哀れは知っていよう。情けがあるならこのような裸同然の姿のままにせず、命も一緒に取れ」と、毅然と言い放った。
盗賊は常盤の黒髪をつかんで引き倒し、乳房の下を刀で貫いた。エロティシズムと惨(むご)たらしさが合わさった残虐な描写に、目を奪われる(静岡県熱海市のMOA美術館収蔵)。
理不尽な死を毅然と受け入れる常盤の姿は、又兵衛の母・だしと、どこか似通っている。この作風をもって、又兵衛は「怨念の絵師」とも呼ばれる。
信長と成敗奉行の前田・佐々らを、母の首を刎ねた盗賊集団に見たて、彼らに復讐する義経に自らを重ねて描いたのではないか――そう思えるのだ。

ただし、『寛永諸家系図伝(かんえいしょかけいずでん)』によると又兵衛は実名を「村直」といい、村重の嫡男・村次の子、つまり村重の孫とされている。つまり、だしの子ではない。こちらの説を有力視する美術史家もいるが、正直筆者には判断つかない。
■妻子や家臣、名前も捨てた
さらに村直(又兵衛)の弟・村常が寛永11(1634)年に江戸に出府し、島原の乱(寛永14~15/1637~1638)で戦功をあげ、徳川の直参となったと系図は伝えるが、ここで血統は途切れる。おそらく無嗣断絶(後継ぎがなく家系が絶えること)したのではないだろうか。
そして、荒木は村重の叔父の子で、村重の配下として花隈城(兵庫県神戸市)を治めていた元清が家名を継いでいくことになる。その点については後述する。
尼崎城にいた村重は、家臣・一族が処刑されたのちも生き延び、味方の毛利氏のもとへ「亡命」した。
その後、信長が本能寺の変(天正10/1582年)で没すると剃髪して茶人として生き、茶名を「道薫(どうくん)」と号した。
妻子を捨てたことを恥じて「道糞(どうふん)(路傍の糞)」と名乗ったとも伝わるが、同時代の史料にこの名はない。いつの頃からか流布した俗説と考えられる。天正14(1586)、堺で死去した。

■直系は途絶え、庶流が継いだ荒木の名
さて、前述の「村重の親戚が家名を継いだ」ことに話を進めよう。
村重の直系が無嗣断絶すると、親戚が荒木を継ぎ「荒木流」という馬術の流派を興し、徳川の幕臣として存続したという。系図では、その8代後までは確認できる。
つまり整理すると、荒木一族の系図は村重の正室の子・村次の頃から血統が2派に分かれ、1派は村次が2人の男児を授かり、長男が絵師となって岩佐又兵衛を名乗った。そこで次男が荒木を継いで徳川の直参となったが、次男の代で断絶したという。これが寛永18~20(1641~1643)年に編纂された『寛永諸家系図伝』に載っている家譜である。
だが『寛永諸家系図伝』は、編纂期間が2年間と短かったため、正確さが担保されていないといわれている。十分に検証しないまま世に出してしまった可能性があるのだろう。荒木又兵衛がだしの子か否かの混乱も、元をたどれば『寛永諸家系図伝』の曖昧さにあるといえよう。
もう1派は、寛政11~文化9(1799~1812)年編纂の『寛政重修諸家譜』に掲載された血統で、村重の親戚が祖となって荒木を継ぎ、その家が8代後まで確認できる。急ごしらえだった『寛永諸家系図伝』の反省のもと約150年後に「重修」、すなわち再編纂したため、信ぴょう性はより増したと“いわれてはいる”。
■一族を見捨てた罪が評価を分けた
いずれにせよ、戦国期に“敗者”となった村重の直系が途絶え、親戚筋が残ったなどは、秀吉の姉・日秀尼(にっしゅうに)の血統しか後世に残らなかった豊臣に似ている。信長の次男、すなわち直系の信雄(のぶかつ)が細々とでも「名門」として存続した織田家とは、異なっている。
荒木村重はもともと、摂津国の有力国衆だった池田氏の家臣だ。系図をさかのぼると藤原北家(ふじわらほっけ)の秀郷(ひでさと)流の血を汲むと記されているが、池田氏を事実上乗っ取るなど、下剋上の武家といって良い。そうした「成り上がり」の気質は、秀吉と似ているように見える。
ただし、『信長公記』はこう記す。
「荒木村重ひとりのしでかしたことが原因で、一門・親類数知れず別れの血の涙を流した。死んでいった人々の恨みが恐ろしいと、皆舌も引きつる思いで慄(おのの)いた」
『信長公記』は信長の伝記ゆえ、信長への賛辞が目立つ。しかし、その点を差し引いても、この一文は村重に対する人々の共通認識だったと思えるのだ。
秀吉と同じく戦国を成り上がった武将だったとはいえ、村重の評価は低い。一族を見捨てた罪は、やはり重かったといわざるを得ないだろう。

参考図書

・天野忠幸『戦国期三好政権の研究 増補版』(清文堂出版、2015年)

・日本史史料研究会監修・渡邊大門編『信長軍の合戦史』天野忠幸「有岡城の戦い」(吉川弘文館、2016年)

・太田牛一著、中川太古訳『現代語版 信長公記』(新人物文庫、2013年)

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小林 明(こばやし・あきら)

江戸文化風俗研究家 編集プロダクション「ディラナダチ」代表

編集プロダクションdylan-adachi(ディラナダチ)代表。江戸文化風俗研究家としてニッポンドットコム、和樂web、Merkmal、ダイヤモンド・オンライン、弁護士JPニュースなどに記事を執筆中。また『歴史人』(ABCアーク)、『歴史道』(朝日新聞出版)など歴史雑誌の編集も担当している。著書『山手線「駅名」の謎』(鉄人社)など。

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(江戸文化風俗研究家 編集プロダクション「ディラナダチ」代表 小林 明)

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