江戸時代の豪商からビジネスを拡大、三井財閥を形成した三井家。系図研究者の菊地浩之さんは「今から140年前、三井北家10代目当主となった高棟は伯爵の妹と結婚。
5人の娘をもうけて、そのうち3人の娘を華族に嫁がせ、ランク・アップを目指した」という――。
※本稿は、菊地浩之『財閥と閨閥』(角川新書)の一部を再編集したものです。
■三井十代目の当主「高棟」とは
幕末維新時の三井北家の当主は、八代目・三井八郎右衛門高福だったが、1878年に隠居し、長男が家督を継いで襲名した。九代・三井八郎右衛門高朗(たかあき)(1837~1894)である。
高朗は病弱で子がなかったので、1863年に実弟の五十之助(いそのすけ)を順養子としていた。五十之助は父・高福の八男にあたり、同母兄が3人いたが、両親や義姉に愛されていたため、次期当主に選ばれたらしい。そして、1885年三月に高朗が隠居し、養子・五十之助が家督を継いで襲名した。十代・三井八郎右衛門高棟(たかみね)(1857~1948)である。
この時、高朗は49歳(数え年)、高棟は29歳だった。高朗は幕末維新に父を助けて活躍し、人望もあった。若すぎる隠居であった。隠居の理由は、明治政府からの東京移住要請を拒否してのことだという。

意外に認識されていないが、三井家は元祖・三井八郎兵衛高利以来、京都を本拠としていた。しかし、明治政府は財政的な理由から、三井家に東京に移住するように指示し、ついにそれが実現する運びとなった。高朗は京都から離れることを嫌い、高棟に家督を譲って京都に残る選択をしたのである。
かくして、高棟は1933年に77歳で隠居するまで、50年弱、三井総領家の当主として君臨した。ちなみに実父・高福は、高棟が家督相続した9カ月後に死去している。
三井財閥の婚姻戦略を高棟の婚姻戦略から見ていこう。
■前田伯爵の妹と結婚し、華族に
明治29年に受爵した三者(三井高棟・岩崎弥之助・岩崎久弥)には、華族との姻戚関係の結び方に共通点がある。三者とも、爵位を授かったときにはすでに華族の子女を妻としているのである(高棟は男爵になった)。
三井八郎右衛門高棟は1892年12月15日に、実兄・三井高弘の紹介で、旧越中富山藩主の伯爵・前田利同(としあつ)(1856~1921)の養妹である苞子(もとこ)(1869~1946)と結婚した。
実は高棟も苞子も再婚である。高棟は1883年4月に大阪加島屋・広岡信五郎の養女である幾登(きと)と結婚。1885年に長男・高寿(たかかず)が生まれたが、ほどなくして母子ともに死去した。
苞子も1889年頃に旧越前丸岡藩主の子爵・有馬家(嗣子・有馬純文[1868~1933]か?)に嫁入りしていたが、有馬家の不都合で離縁されていた(『三井八郎右衛門高棟伝』)。
■5人中3人の娘が華族へ嫁す
高棟には2男5女がおり、配偶者は以下の通りである。
・大名華族 1件(長男)

・公家華族 3件(長女、次女、五女)

・三井一族 3件(次男、三女、四女)
大名華族から嫁をもらい、公家華族に嫁を出す傍ら、一族間の結婚も行ってバランスを取る。娘を華族に嫁してしまったので、他の富商と婚姻関係を結ぶことができなかった。そんな感じであろう。
高棟の婚姻戦略について、まず娘の結婚から見ていこう。高棟には5人の娘がおり、3人が公家華族と結婚し、残り2人が三井一族と結婚した。高棟の四女・礼子は「姉二人と妹は華族へ〔嫁に〕行きましたでしょ。これは父が位がほしくなったので、そういう方と関係づけをしたくなったんでしょう」と指摘している(『三井財閥の人びと』)。
■英国皇太子も三井邸を訪れた
それは一面の真実を伝えている。高棟には強い貴族志向があり、公家華族と婚姻を結ぶことで貴族的な家風に浸りたかったのではなかったかと思われる。断っておくが、高棟の貴族志向は成金趣味のようなものではなく、三井家が日本を代表する資産家として、欧米貴族に比べても遜色のない存在たらんとするものであった。

たとえば、高棟は嗣子・高公(たかきみ)が1924年に欧米見学に出かけると「ただ知識を得るだけでなく、英国紳士と親しく付合って、三井家の後継者としての品性や風格を身につけること」(『三井八郎右衛門高棟伝』)を指示している。また、1922年に英国皇太子・エドワードが来日した際には、三井邸を訪れている。まさに三井家は日本を代表する貴族だったのである。
■長女は公家の中御門家と上昇婚
さて、高棟の娘のうち、公家華族と結婚したのは長女、次女、五女である。
長女・慶子(のりこ)(1894~1995)は1913年に公家の侯爵・中御門経恭(1888~1954)に嫁いだ。中御門経恭は男爵の中御門経隆(1852~1930)の次男に生まれ、1899年に本家筋の侯爵家を継いだ。伯父の中御門経明(1850~1898)が一人娘・万千子(1889~1975)を遺して死去したため、その跡を継いだのだ。経恭の母は公爵・岩倉具綱の長女で、高棟夫人の義弟・岩倉具明の従姉妹にあたる。そういったツテを頼って婚姻に至ったのかもしれない。
経恭は京都帝国大学卒で「華族中の秀才で『謹厳の誉れ高き紳士』でもあった。(中略)八郎右衛門は持参金三十万円(編集部註:当時の人件費に換算し約7億7670万円)をつけ、新邸宅を準備すると言い、『華族中の大評判』となる(大正2年2月4日付『神戸又神』)。この話は山口愛川(『横からみた華族物語』昭和7年、35頁)によっても『金満家の娘を五十万円の持参金付で夫人に迎へ、その夫人の金で新婚旅行の足を欧米にまで延ばした中御門経恭侯』と触れられている」(『明治・大正・昭和 華族事件録』)。

■次女は「五摂家」の鷹司家へ
次女・裕子(とみこ)(1897~1986)は1918年に公家の男爵・鷹司信熙(たかつかさのぶひろ)(1892~1981))に嫁いだ。いうまでもなく、鷹司家は「五摂家」の一つで公家の最高位にある。信熙は公爵・鷹司熙通(1855~1918)の次男として生まれ、1905年に分家して男爵を授けられた。陸軍士官学校を卒業。1912年に陸軍歩兵少尉に任じられ、中尉、陸軍士官学校教官、砲兵中佐を歴任した。
信熙の母・順子は徳大寺実則の長女なのだが、徳大寺家は豪商・資産家と積極的に婚姻を結んだことで知られる。末弟の隆麿を富商・住友家の婿養子に出しているのだ。また、実則の三女・蓁子(しげこ)(1874~1925)が、高棟の甥・三井高縦(たかなお)(1869~1910)に嫁いでおり、前例があった。
五女・祥子(さきこ)(1907~)は1929年に公家の子爵・高辻正長(1903~1954)に嫁いだ。正長は、鷹司信熙の義兄・上杉憲章の甥にあたる。
■三女、四女は三井一族の地盤固め
一方、高棟の三女、四女は三井一族と結婚した。
三女・興子(1900~1980)は1919年に伊皿子家9代・三井高長に嫁いだ。
妹の礼子によれば、「姉の興子は伊皿子家の第九代高長のところへ嫁いだのですが、聞くところによると、高長が若い頃アメリカの学校へ行っていた時、小室三吉という三井物産の重役がアメリカへ行って『北家(総本家)の興子を〔嫁に〕もらわないか』とすすめたようです。誰が小室三吉に言ったのかはっきり姉は知らないといっていましたが、きっと父の意を受けて行って交渉したのだと思います」とのことである(『三井財閥の人びと』)。
四女・礼子(1905~1989)は1924年に永坂町家九代・三井高篤に嫁いだ。高篤との結婚は「ままごとみたいな恋愛結婚みたいでした。とにかく高篤本人から申し込まれました。まずは、父のところに行くのです。私は十六歳の時に他の親類から〔縁談〕話がありました」。「ですから父は私をそこへ〔嫁に〕やろうとしていたのですよ。でもまだ数え十六でしょ。ですからいやだって、ダダをこねました。それでのちに高篤のところへ行ったのですよ」と語っている(『三井財閥の人びと』)。
■長男は旧大名の侯爵令嬢と…
高棟の長男・三井八郎右衛門高公(1895~1992)の夫人は、越前福井藩主の末裔で侯爵の松平康荘(やすたか)(1867~1930)の長女・鋹子(としこ)(1901~1976)である。

※としこの「とし」は「かねへんに長」
越前松平家は徳川家康の次男・結城秀康を家祖とする名門で、爵位も公爵に準ずる侯爵である。高棟夫人は伯爵家(富山前田家)の出身だったからランク・アップしたといえる。
華族同士は幾重にも婚姻関係を重ねており、越前松平家と富山前田家は遠縁にあたる。松平康荘の叔父・竹屋春光(松平茂昭の四男)が公家の竹屋家の養子となり、公爵・山県伊三郎(山県有朋の甥で養子)の三女と結婚している。そして、伊三郎の長男・山県有道の妻が、前田利同の次女なのである。つまり、高公夫人(鋹子)は、義母(苞子)の姪(山県夫人)の義弟(竹屋春光)の姪にあたる。ただし、先述した通り、華族間で濃厚な婚姻関係が形成されているので、鋹子と苞子はたまたま遠縁になった可能性が高い。

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菊地 浩之(きくち・ひろゆき)

経営史学者・系図研究者

1963年北海道生まれ。國學院大學経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005~06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、國學院大學博士(経済学)号を取得。著書に『企業集団の形成と解体』(日本経済評論社)、『日本の地方財閥30家』(平凡社新書)、『最新版 日本の15大財閥』『織田家臣団の系図』『豊臣家臣団の系図』『徳川家臣団の系図』(角川新書)、『三菱グループの研究』(洋泉社歴史新書)など多数。

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(経営史学者・系図研究者 菊地 浩之)
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