日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出していく。2023年1月の特集は「伊東ゆかりステージデビュー70周年」。
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田家:「J-POP LEGEND FORUM」案内人・田家秀樹です。今月2023年1月の特集は伊東ゆかりステージデビュー70周年、自叙伝。伊東ゆかりさん1947年4月生まれ。初めて歌ったのが1953年、6歳でした。レコードデビューが1958年6月、11歳。そこから65年です。まだ日本にオリジナルのポップスがなかった時代に歌い始めて70年。去年ソニー・ミュージックレーベルズから『POPS QUEEN』と題したオールタイム・シングル・コレクションが発売になりました。6枚組138曲入り。
伊東:こんばんは。伊東ゆかりでございます。
田家:弘田三枝子さん、レコードデビューは1961年。伊東ゆかりさんは1959年。一緒に電車に乗って米軍キャンプに行かれたという。
伊東:電車に乗ってというか、あの頃はみんな別々ですから仕事場は。
田家:うわー、すごい話だなあ(笑)。
伊東:あとで大笑いしたんですけど。
田家:一緒の電車の中で同じことを思っていただけではなく、同じ歌も歌われております。伊東ゆかりさんで「ヴァケイション」。
ヴァケイション / 伊東ゆかり
田家:1962年10月発売、6枚組『オールタイム・シングル・コレクション』からお聞きいただきました。
伊東:これ、弘田三枝子さんの「ヴァケーション」も一緒にかけて聞くと本当に面白いと思いますよ(笑)。
田家:後ほど弘田さんの方もお聞きいただこうと思うんですが、さっきの電車の話で、あれはどうやって集められるんですか。
伊東:話せば長くなっちゃいますけど、エージェントみたいな人がいまして、東京駅の丸の内口、あの頃は甲州口って言ってましたけど新宿の今の南口、大体みんなそこらに集まるんですよ。それでエージェントさんが、あなたはここに行きなさい、あなたはここに行きなさいって、そこで分けられるんです。
田家:そこに小学生が2人いたと。
伊東:でも、そこの駅では一緒になったことはないんですよね。
田家:もう1曲、ゆかりさんのカバーポップスをお聴きいただきます。同じコニー・フランシスの代表曲ですね。
ボーイ・ハント / 伊東ゆかり
田家:オリジナルは61年の曲なんですが、伊東ゆかりさんはあえて71年にシングルにしている。「小指の想い出」とか「恋のしずく」がヒットした後にこれをシングルにしてるのが、彼女のこだわり方、私はこういう人だったのよってことを伝えたかったんだろうなと思いました。「ボーイ・ハント」の作曲はニール・セダカなんですね。ニール・セダカは名曲がいっぱいありますね。「恋の日記」とか「恋の片道切符」とか「おお!!キャロル」とか。60年代のカバーポップスとして一番歌われていた、カバーされていた作曲家と言っていいでしょうね。「おお!!キャロル」はキャロル・キングのことを歌った。これは有名ですね。こういう歌を歌ったコニー・フランシスが一番よく似合ったのが伊東ゆかりさんでしょうね。
三人娘それぞれカラーがありまして、やっぱり中尾ミエさんはタレント色が強かった。
田家:1962年2月発売、2枚目のシングル「すてきな16才」。ミコちゃん。76にもなってミコちゃんはないだろうと思いながら話しておりますが、さっきお聞きいただいた「ヴァケイション」も1962年なんですね。『アメリカン・グラフィティ』という映画があったのをご記憶の方がたくさんいらっしゃると思うんですが、あれが公開されたときのキャッチフレーズは「1962年の夏、あなたはどこにいましたか」。1962年なんですよ。ベトナム戦争が泥沼化する前ですね。
カーペンターズの『ナウ・アンド・ゼン』というアルバムを覚えてらっしゃいますか? 「イエスタデイ・ワンス・モア」が入った名盤ですね。あのアルバムのジャケットが真っ赤なアメ車。今回確かめようと思ったんですけど、家にアナログ盤がなくてですね、あのジャケットの車のナンバープレートが僕1962だった記憶があるんですよ。ひょっとしたら間違ってるかもしれないんですが、1962年だったんですね。「イエスタデイ・ワンス・モア」の中に「Every sha-la-la-la Every wo-o-wo-o」って歌詞があるでしょ? あのシャララとかウォウウォウっていうのが、さっきの「すてきな16才」にも何度も出てきているアメリカンポップスの中のウォウウォなんですよ。私の懐かしい一番いい時代なんだ、あそこに帰ろうって言うのが「イエスタデイ・ワンス・モア」だったんですね。日本では、「いつでも夢を」という歌が大ヒットした年でした。やっぱりいい年だったなと思います。僕は中学生でした。1963年の曲をお聞きいただきます。「渚のデイト」。
田家:弘田三枝子さん1963年5月発売「渚のデイト」。これは伊東ゆかりさんもカバーしている曲ですね。「渚のデイト」の中でも弘田三枝子さんバージョンが一番エモーショナル。いろんな感情がこもってると言っていいかもしれませんね。表情豊かなボーカリストでした。訳詞が漣健児さんですね。シンコーミュージックの専務で、ミュージックライフの編集長。シンコーミュージックは洋楽の出版社でしたから、洋楽のいろんな情報がいち早く入ってくるんですね。その中で日本で流行りそうなものを見つけて日本語で歌わせた。弟さんの草野浩二さん、まだご健在ですが、彼が東芝のディレクターで、坂本九さんとか森山加代子さんとか弘田三枝子さんとか、そういう人たちに歌わせてたという。草野兄弟がこのブームを作ったわけですね。他にも訳詞する人がいたんです。音羽たかしさんって人がいたりして、伊東ゆかりさんは音羽たかしさんの訳詞の曲も歌ってますけども、キングレコード専属だったんで、やっぱり縛られてたんですね。漣さんはそういうところに縛られずに、いろんな歌手の、いろんなレコード会社の人の訳詞もしておりました。その中にはアメリカンポップスだけじゃない、こんな歌もあったんです。1964年のシングル。弘田三枝子さんで「砂に消えた涙」。
田家:弘田三枝子さん1964年12月発売「砂に消えた涙」。これはイタリアの歌手ミーナ。「月影のナポリ」という大ヒット曲もありましたけど、「砂に消えた涙」の日本語バージョンをミーナさんが歌って、これも大ヒットしましたね。弘田三枝子さんよりもミーナさんの方が歌謡曲っぽい。弘田三枝子はやっぱりジャズ、ロックですね。この切れ味はすごいですね。この曲は竹内まりやさんとか矢沢永吉さんもカバーしてたりしますね。
桑田さんがこの曲を一番好きな歌と話していたこともあります。桑田さんのソロの曲で「可愛いミーナ」って曲がありますが、今の「砂に消えた涙」を日本語で歌ったミーナのことなんですね。サザンオールスターズのアルバム『綺麗』の中に「MICO」っていう曲がありまして、あの「MICO」は弘田三枝子さんのことでもあります。歌詞の中に「人形の家に住まう前は Japanese Diana Ross」って歌詞が出てきたりするんですね。弘田三枝子さんは69年に「人形の家」で歌謡曲歌手として復活するんですが、その前はジャパニーズ・ダイアナ・ロスだったんだぜ!って歌ってるんです。でも当時、ダイアナ・ロスという人自体が茶の間の人は誰も知らないという60年代でありました。
カバーポップスは65年に下火になるんですね。きっかけは明らかにビートルズですね。漣健児さんがビートルズの訳したものもあるんです。「抱きしめたい」の漣健児バージョンとかあるんですけども、漣さんがその時にビートルは訳せないって言って訳詞家を辞めるんです。そこからシンコーミュージックはビートルズ一辺倒になっていくんですが、カバーポップスはそこで終わります。弘田三枝子さんの英語の歌をお聞きいただきます。1963年、16歳のときの歌声です。
田家:弘田三枝子さん1963年2月発売「マック・ザ・ナイフ」をお聞きいただきました。ミコちゃん16歳のときの歌声です。オリジナルは全米9週間1位だったボビー・ダーリンのヒット曲だったんですが、僕らはボビー・ダーリンよりも弘田三枝子でこの曲を知ったと言っていいでしょうね。彼女はエラ・フィッツジェラルド、ジャズの女王に気に入られて1965年の「ニューポート・ジャズ・フェスティバル」で歌ったりしているんですね。歌を表現するとき、歌にパンチがあるって言い方は弘田三枝子さんからだったんじゃないでしょうかね。 CMソングもいっぱい歌っていて、ダイナマイトポップスというニックネームを欲しいままにした。でも時代が早すぎた。そんなダイナマイト娘です。で、伊東ゆかりさんと同じ電車に乗って米軍キャンプに歌いに行っていた小学生だった。同い年です。この後、伊東ゆかりさんに伺います。
田家:伊東ゆかりさんが選ばれた弘田三枝子さんの1曲目、弘田三枝子さんのデビュー曲「子供ぢゃないの」。オリジナルはヘレン・シャピロでした。後半もよろしくお願いします。
伊東:とにかく、この頃の「Vacation」から始まってことごとくミコさんとは曲がダブりました(笑)。でも売れたのは全部ミコさんです。
田家:ははは。
伊東:ミコさんみたいな歌い方、唸るみたいなのができなかった。咳込んじゃって(笑)。だから「子供ぢゃないの」も途中でありましたよね。あれが本当にできなかったですね。
田家:弘田三枝子さんは元々童謡教室に通っていて、そこからティーブ・釜萢さんのジャズスクールに行って。それで米軍キャンプで歌うようになったんですね。米軍キャンプの歌う場所がどのくらいあるか調べたら東京と横浜だけで80何カ所以上ですよ。
伊東:多分全部回ってると思います。
田家:それはでも1組2組じゃないわけですもんね。
伊東:そうですね。同じ日にあちこちのクラブに行きますから。多分すごい人数だったんだと思いますよ、東京駅とか新宿とか。何の団体だろうと思われていたかもしれませんね。事務所があったのか私はわからないんないですけど、「今日は3時に新宿だからな」って。それまで学校から帰って来いとか言われて。
田家:そういう小学生、何人ぐらいいたんでしょう?
伊東:たくさんいましたよ、あの頃。ミコさんもそうでしょ。やっぱ時代ですからね。みんな本国に家族残してきてる。結構いましたよ。私ぐらいのちっちゃな子がやるパフォーマンスの人って。でもみんな、お役所には内緒だったですよね。夜働いちゃいけないから(笑)。未成年者は。
田家:何を歌うかはご自分で?
伊東:いやいや。私は自分じゃなくて父が曲の譜面を持っていって、そのクラブの専属のバンドの人に譜面を渡してリハーサルをしました。
田家:お父さんも一緒に。
伊東:はい。一時は一緒にずっとついて回ってました。
田家:そこから本当に日本の戦後の音楽が始まったんですもんね、ポップスは。
伊東:そうでしょうね。そう思いますけど(笑)。
田家:釜萢さんはよくそういう話をされていて、トラックで行ったこともあるって言われてましたね。
伊東:あります、私も。新宿からトラックに乗せられましたね。ただ私は子供だから助手席に乗せてもらいました。どこだったかな、あの頃は青梅街道も狭かったから途中でトラックが事故っちゃってね。私が前歯を折っちゃったことがありますね。
田家:その日歌えたんですか?
伊東:ついてからすぐ病院に連れていかれましたよ。アルコールみたいなので消毒されて。歌ったでしょうね。仕事で行っていたんですから。
田家:1週目で、子供のとき歌が嫌でしょうがなかったっていうのはそういう環境も影響していたんですか。米軍基地の中に大人と一緒に混じって。
伊東:いや、そんなことはなくて、ただ歌うのが嫌だったっていうだけの話ですよね。お客様の前で。アメリカの兵隊さんだからとかそういうんじゃなくって、何で歌わなくちゃいけないのみたいな。そのうちになんとなく子供心に、私が歌えば家計が助かってるんだってわかってきて。あとは兵隊さんたちがいろんな美味しいものを持ってきてくれますから、今日は歌えば何をもらえるのかなっていうのが楽しみになりました。
田家:そういう中で、ミスダイナマイトと呼ばれた弘田三枝子さんと、ノースマイルと呼ばれた伊東ゆかりさんです。弘田三枝子さんの曲をもう1曲。「悲しき片想い」。
田家:弘田三枝子さんで1961年11月発売「悲しき片想い」。これもヘレン・シャピロ。ヘレン・シャピロも同い年だった。
伊東:そうなんですか。
田家:3人とも14歳だったんですね。弘田三枝子さんの6枚組プレミアムボックスが去年発売になりまして、その中で合田道人さんって方がお書きになってたんですが、弘田三枝子さんの三人娘の印象が紹介されておりまして、中尾ミエさんは何をやっても叶わない怖い人だったと。
伊東:うそ?! ミエさんが怖い人って言うのかな(笑)。本当? 本当ですか? はははは。
田家:はい。園まりさんは優しい人だった。プライベートのこともいろいろ相談に乗ってくれた人だった。
伊東:そうなんだ、そんなお付き合いがあったんですね、まりさんと。
田家:ゆかりさんの中ではどうですか?
伊東:私は、「人形の家」って曲が出たときにミコさんがすごく痩せて綺麗になって。ドレスの先生が同じだったんですミコさんと。仮縫いのところでもよくミコさんと会って、これからアメリカ行くとか、結婚するとか、どんどん綺麗になっていって。昔のダイナマイトのときのミコちゃんとは性格も変わっちゃったみたいな。ああ、恋をすればこんなに変わるんだなって。ドレスもよく似合ったしね。電車の中のミコちゃんとは全然印象が変わっちゃいましたね。
田家:そういうお2人が競作した曲をお聞きいただきます。1962年10月発売。弘田三枝子さんで「バケーション」。
バケーション / 弘田三枝子
田家:1962年10月発売、弘田三枝子さんで「バケーション」。同じ日に発売になったんですね。
伊東:そうですか。いやいやいや、全然歌い方が違いますね。ごーって言っちゃってますもんね。ふふふふ。負けた(笑)。
田家:直接こんなことをお聞きしていいのかどうかわかんないですけども、比較されるってやっぱり気持ちいいもんじゃないでしょう。
伊東:比較されたんですかね? よくわかんないです。「Vacation」もいろんな人が歌ってますから。ただ、私とミコさんの曲はことごとくダブリました。全部ダブりましたね、はっきり言って。何か意地悪されてんじゃないかってぐらいダブってますね。ただやっぱり、ミコさんのレコードなんか聞くと、私の歌い方はやっぱりさっぱりしすぎてるかなって感じがしますね。でもそれは私の歌い方だからいいのかなって気もするんだけど、当時はとにかくミコみたいな歌い方しろってよく言われましたから。何回かやったけど咳込んじゃって全然駄目でした、私には(笑)。
田家:やっぱりトライはされてるんですね。
伊東:レコーディングのときはしましたよ。私、言われるから。でも駄目でしたね。
田家:同じところでキャンプで歌ってた関係で、プロになって同じような歌を歌うのは何か特別なものはありました。
伊東:ふふふふ。何もありません。ただもう会ったときには、本当にミコちゃんと私ってあのときよく同じ歌を歌ったわよねって笑ったことはありましたけど。本人たちは別に競争意識はなかったんじゃないでしょうか?
田家:なるほど。これも競作でした。1963年12月発売、「私のベイビー」。
田家:伊東ゆかりさんが選ばれた弘田三枝子さんの4曲目「私のベイビー」。これもゆかりさんも歌われてまして、「オールタイム・シングル・コレクション」の中に入っておりますので、そちらの方で聞き比べていただけたらと思ったりします。でもこんな歌い方できる人は今でもいませんもんね。
伊東:ぐわーってのはどうやって出すんでしょうかね。ちょっといまだに私はできない。
田家:ダイナマイトと言われた所以ですね。何度か話に出てる「人形の家」で歌謡曲の方で復活して。
伊東:違う人と話してるみたいで。女らしくなっちゃったしね、本当に。アメリカ行くとかうらやましいなとか思ったこともあるし。コンサートか何かで一緒になって、ショーが終わった後に、楽屋でお弁当を食べながら話したことがある。ミコちゃん駄目、そんなに痩せちゃって駄目って。でもガパガパ食べてんですよ、お弁当を。太らなくてうらやましいわねって話して。私にも孫がいるのよって話になって。私はいないから羨ましいわねって。そんな話をして。それがミコさんと話した最後だったかな。
田家:2020年7月21日に他界されました。日本のガールポップ、ここから始まったんだって意味では、本当に一番最初からいらっしゃるわけですもんね、伊東ゆかりさんは。
伊東:あはは。弘田三枝子さんも。
田家:はい、お元気でいてください。
伊東:ミコさんにも元気でいて欲しかったですね。
田家:来週は伊東ゆかりさんのその後というんでしょうか。たっぷりお聴きしたいと思います。
伊東:ありがとうございました。
流れているのはこの番組の後テーマ、竹内まりやさんの「静かな伝説」です。米軍キャンプですよ。自分の話になってしまうんですけども、生まれたのは千葉県の船橋の映画館の隣でして、宣伝のスピーカーが家の中2階にあって、そこから歌謡曲が流れていて、子守唄が歌謡曲だったんです。小学校2年生のときに東京の府中の米軍基地の横に引っ越したんですね。フェンスの向こうのアメリカです。そこでFENを知った。テレビでは「ザ・ヒットパレード」があったりして、洋楽というのに出会うんですね。12月の最後のゲストの木﨑賢治さんが、やっぱりFEN少年でありまして。初めて会ったときにFENの話をしたら、彼は番組表、タイムテーブルを全部覚えていたので、僕はそんな話をするのやめましたけども(笑)。そうやって日本に洋楽が入ってきたんですね。ポップスの原点というのが、そこにあるんだと思いますね。日本語で洋楽を紹介して、それを聞いた僕らが洋楽を知る。そういう中で伊東ゆかりさん、弘田三枝子さんがスタートしていましたね。米軍基地の横で暮らしていると、基地というのは戦争の場所に思えないんですね。今でもどっかそういうのがあります。後にベトナム戦争反対とか米軍基地に行ったりするんですけど、どこかで俺はここ好きだもんなと思っていた自分がいました。今月の伊東ゆかりさん特集は、中学生の頃の自分に見せてあげたいなと思いながらお送りしています。
<INFORMATION>
田家秀樹
1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソリナリテイとして活躍中。
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1947年生まれ、6歳のときに米軍の下士官クラブのステージで歌い始め、11歳でレコードデビュー。その後、カバーポップス、カンツォーネ、歌謡曲、J-ポップ、シティポップスなど時代の流行に乗ってヒット曲を放ち続けてきた伊東ゆかりの軌跡を5週間に渡って辿る。パート4は、カバーポップス最大のヒロイン、弘田三枝子について、伊東ゆかりとともに語る。
関連記事:伊東ゆかりステージデビュー70周年、本人と振り返る1958年から1970年
田家:「J-POP LEGEND FORUM」案内人・田家秀樹です。今月2023年1月の特集は伊東ゆかりステージデビュー70周年、自叙伝。伊東ゆかりさん1947年4月生まれ。初めて歌ったのが1953年、6歳でした。レコードデビューが1958年6月、11歳。そこから65年です。まだ日本にオリジナルのポップスがなかった時代に歌い始めて70年。去年ソニー・ミュージックレーベルズから『POPS QUEEN』と題したオールタイム・シングル・コレクションが発売になりました。6枚組138曲入り。
まさに自叙伝のような内容。今月はご本人伊東ゆかりさんをお迎えして、アルバムを中心に70年をたどってみようという5週間です。今週は、同じ年生まれ。カバーポップス最大のヒロインと言っていいでしょうね。弘田三枝子さんについて伺っていこうと思います。こんばんは。
伊東:こんばんは。伊東ゆかりでございます。
田家:弘田三枝子さん、レコードデビューは1961年。伊東ゆかりさんは1959年。一緒に電車に乗って米軍キャンプに行かれたという。
伊東:電車に乗ってというか、あの頃はみんな別々ですから仕事場は。
でも、例えば小田急線沿線とか横須賀線沿線とか電車はみんな一緒です。最後間に合えば最終電車。終電にはみんないろんな駅から乗ってきます。当時は、私のライバルは弘田三枝子さんって知っていましたから。ミスダイナマイト。すごく愛嬌が良くてジェスチャーたっぷりで。あるとき、私は大和から先に乗っていた電車に相模大野の駅だったと思いますけど、そこから弘田三枝子さんとおぼしき方が乗ってきて、ちょうど私の席の真向かいに座ったんですね。あ、この人が私のライバルっていう弘田三枝子って人かなって、後で仕事で会ったときにミコさんに「あのとき、どう思ってたの?」って言ったら、弘田さんも「この人があのノースマイルって言われている伊東ゆかりか」と思ったんですって(笑)。2人でじーっと見つめ合ったことは覚えてます。あははは。
田家:うわー、すごい話だなあ(笑)。
伊東:あとで大笑いしたんですけど。
同じこと思ってたのねって。
田家:一緒の電車の中で同じことを思っていただけではなく、同じ歌も歌われております。伊東ゆかりさんで「ヴァケイション」。
ヴァケイション / 伊東ゆかり
田家:1962年10月発売、6枚組『オールタイム・シングル・コレクション』からお聞きいただきました。
伊東:これ、弘田三枝子さんの「ヴァケーション」も一緒にかけて聞くと本当に面白いと思いますよ(笑)。
田家:後ほど弘田さんの方もお聞きいただこうと思うんですが、さっきの電車の話で、あれはどうやって集められるんですか。
伊東:話せば長くなっちゃいますけど、エージェントみたいな人がいまして、東京駅の丸の内口、あの頃は甲州口って言ってましたけど新宿の今の南口、大体みんなそこらに集まるんですよ。それでエージェントさんが、あなたはここに行きなさい、あなたはここに行きなさいって、そこで分けられるんです。
田家:そこに小学生が2人いたと。
伊東:でも、そこの駅では一緒になったことはないんですよね。
田家:もう1曲、ゆかりさんのカバーポップスをお聴きいただきます。同じコニー・フランシスの代表曲ですね。
「ボーイ・ハント」。オリジナルは1961年なんですが、伊東ゆかりさんは1971年にあえてシングル発売して、今もステージで歌われている曲です。
ボーイ・ハント / 伊東ゆかり
田家:オリジナルは61年の曲なんですが、伊東ゆかりさんはあえて71年にシングルにしている。「小指の想い出」とか「恋のしずく」がヒットした後にこれをシングルにしてるのが、彼女のこだわり方、私はこういう人だったのよってことを伝えたかったんだろうなと思いました。「ボーイ・ハント」の作曲はニール・セダカなんですね。ニール・セダカは名曲がいっぱいありますね。「恋の日記」とか「恋の片道切符」とか「おお!!キャロル」とか。60年代のカバーポップスとして一番歌われていた、カバーされていた作曲家と言っていいでしょうね。「おお!!キャロル」はキャロル・キングのことを歌った。これは有名ですね。こういう歌を歌ったコニー・フランシスが一番よく似合ったのが伊東ゆかりさんでしょうね。
三人娘それぞれカラーがありまして、やっぱり中尾ミエさんはタレント色が強かった。
一番女性ボーカルとして甘酸っぱい感じがしたのが伊東ゆかりさんですね。吉田拓郎さんは中尾ミエさんにファンレターを書きましたが、僕は伊東ゆかりさんの方が好きでした(笑)。対照的にダイナミックだったのが弘田三枝子さんなんですよ。ダイナマイト娘っていうキャッチフレーズがついておりました。伊東ゆかりさんに弘田三枝子さん。ミコちゃんの話を聞く前にちょっと予習をしていきたいということで、これもニール・セダカの曲です。
田家:1962年2月発売、2枚目のシングル「すてきな16才」。ミコちゃん。76にもなってミコちゃんはないだろうと思いながら話しておりますが、さっきお聞きいただいた「ヴァケイション」も1962年なんですね。『アメリカン・グラフィティ』という映画があったのをご記憶の方がたくさんいらっしゃると思うんですが、あれが公開されたときのキャッチフレーズは「1962年の夏、あなたはどこにいましたか」。1962年なんですよ。ベトナム戦争が泥沼化する前ですね。
アメリカの青春が一番感傷的だったというんでしょうかね。ビートルズ上陸前ですよ。ビーチボーイズが活躍していて、アメリカンポップスが一番甘酸っぱかった。青春だった頃ですね。
カーペンターズの『ナウ・アンド・ゼン』というアルバムを覚えてらっしゃいますか? 「イエスタデイ・ワンス・モア」が入った名盤ですね。あのアルバムのジャケットが真っ赤なアメ車。今回確かめようと思ったんですけど、家にアナログ盤がなくてですね、あのジャケットの車のナンバープレートが僕1962だった記憶があるんですよ。ひょっとしたら間違ってるかもしれないんですが、1962年だったんですね。「イエスタデイ・ワンス・モア」の中に「Every sha-la-la-la Every wo-o-wo-o」って歌詞があるでしょ? あのシャララとかウォウウォウっていうのが、さっきの「すてきな16才」にも何度も出てきているアメリカンポップスの中のウォウウォなんですよ。私の懐かしい一番いい時代なんだ、あそこに帰ろうって言うのが「イエスタデイ・ワンス・モア」だったんですね。日本では、「いつでも夢を」という歌が大ヒットした年でした。やっぱりいい年だったなと思います。僕は中学生でした。1963年の曲をお聞きいただきます。「渚のデイト」。
田家:弘田三枝子さん1963年5月発売「渚のデイト」。これは伊東ゆかりさんもカバーしている曲ですね。「渚のデイト」の中でも弘田三枝子さんバージョンが一番エモーショナル。いろんな感情がこもってると言っていいかもしれませんね。表情豊かなボーカリストでした。訳詞が漣健児さんですね。シンコーミュージックの専務で、ミュージックライフの編集長。シンコーミュージックは洋楽の出版社でしたから、洋楽のいろんな情報がいち早く入ってくるんですね。その中で日本で流行りそうなものを見つけて日本語で歌わせた。弟さんの草野浩二さん、まだご健在ですが、彼が東芝のディレクターで、坂本九さんとか森山加代子さんとか弘田三枝子さんとか、そういう人たちに歌わせてたという。草野兄弟がこのブームを作ったわけですね。他にも訳詞する人がいたんです。音羽たかしさんって人がいたりして、伊東ゆかりさんは音羽たかしさんの訳詞の曲も歌ってますけども、キングレコード専属だったんで、やっぱり縛られてたんですね。漣さんはそういうところに縛られずに、いろんな歌手の、いろんなレコード会社の人の訳詞もしておりました。その中にはアメリカンポップスだけじゃない、こんな歌もあったんです。1964年のシングル。弘田三枝子さんで「砂に消えた涙」。
田家:弘田三枝子さん1964年12月発売「砂に消えた涙」。これはイタリアの歌手ミーナ。「月影のナポリ」という大ヒット曲もありましたけど、「砂に消えた涙」の日本語バージョンをミーナさんが歌って、これも大ヒットしましたね。弘田三枝子さんよりもミーナさんの方が歌謡曲っぽい。弘田三枝子はやっぱりジャズ、ロックですね。この切れ味はすごいですね。この曲は竹内まりやさんとか矢沢永吉さんもカバーしてたりしますね。
桑田さんがこの曲を一番好きな歌と話していたこともあります。桑田さんのソロの曲で「可愛いミーナ」って曲がありますが、今の「砂に消えた涙」を日本語で歌ったミーナのことなんですね。サザンオールスターズのアルバム『綺麗』の中に「MICO」っていう曲がありまして、あの「MICO」は弘田三枝子さんのことでもあります。歌詞の中に「人形の家に住まう前は Japanese Diana Ross」って歌詞が出てきたりするんですね。弘田三枝子さんは69年に「人形の家」で歌謡曲歌手として復活するんですが、その前はジャパニーズ・ダイアナ・ロスだったんだぜ!って歌ってるんです。でも当時、ダイアナ・ロスという人自体が茶の間の人は誰も知らないという60年代でありました。
カバーポップスは65年に下火になるんですね。きっかけは明らかにビートルズですね。漣健児さんがビートルズの訳したものもあるんです。「抱きしめたい」の漣健児バージョンとかあるんですけども、漣さんがその時にビートルは訳せないって言って訳詞家を辞めるんです。そこからシンコーミュージックはビートルズ一辺倒になっていくんですが、カバーポップスはそこで終わります。弘田三枝子さんの英語の歌をお聞きいただきます。1963年、16歳のときの歌声です。
田家:弘田三枝子さん1963年2月発売「マック・ザ・ナイフ」をお聞きいただきました。ミコちゃん16歳のときの歌声です。オリジナルは全米9週間1位だったボビー・ダーリンのヒット曲だったんですが、僕らはボビー・ダーリンよりも弘田三枝子でこの曲を知ったと言っていいでしょうね。彼女はエラ・フィッツジェラルド、ジャズの女王に気に入られて1965年の「ニューポート・ジャズ・フェスティバル」で歌ったりしているんですね。歌を表現するとき、歌にパンチがあるって言い方は弘田三枝子さんからだったんじゃないでしょうかね。 CMソングもいっぱい歌っていて、ダイナマイトポップスというニックネームを欲しいままにした。でも時代が早すぎた。そんなダイナマイト娘です。で、伊東ゆかりさんと同じ電車に乗って米軍キャンプに歌いに行っていた小学生だった。同い年です。この後、伊東ゆかりさんに伺います。
田家:伊東ゆかりさんが選ばれた弘田三枝子さんの1曲目、弘田三枝子さんのデビュー曲「子供ぢゃないの」。オリジナルはヘレン・シャピロでした。後半もよろしくお願いします。
伊東:とにかく、この頃の「Vacation」から始まってことごとくミコさんとは曲がダブりました(笑)。でも売れたのは全部ミコさんです。
田家:ははは。
伊東:ミコさんみたいな歌い方、唸るみたいなのができなかった。咳込んじゃって(笑)。だから「子供ぢゃないの」も途中でありましたよね。あれが本当にできなかったですね。
田家:弘田三枝子さんは元々童謡教室に通っていて、そこからティーブ・釜萢さんのジャズスクールに行って。それで米軍キャンプで歌うようになったんですね。米軍キャンプの歌う場所がどのくらいあるか調べたら東京と横浜だけで80何カ所以上ですよ。
伊東:多分全部回ってると思います。
田家:それはでも1組2組じゃないわけですもんね。
伊東:そうですね。同じ日にあちこちのクラブに行きますから。多分すごい人数だったんだと思いますよ、東京駅とか新宿とか。何の団体だろうと思われていたかもしれませんね。事務所があったのか私はわからないんないですけど、「今日は3時に新宿だからな」って。それまで学校から帰って来いとか言われて。
田家:そういう小学生、何人ぐらいいたんでしょう?
伊東:たくさんいましたよ、あの頃。ミコさんもそうでしょ。やっぱ時代ですからね。みんな本国に家族残してきてる。結構いましたよ。私ぐらいのちっちゃな子がやるパフォーマンスの人って。でもみんな、お役所には内緒だったですよね。夜働いちゃいけないから(笑)。未成年者は。
田家:何を歌うかはご自分で?
伊東:いやいや。私は自分じゃなくて父が曲の譜面を持っていって、そのクラブの専属のバンドの人に譜面を渡してリハーサルをしました。
田家:お父さんも一緒に。
伊東:はい。一時は一緒にずっとついて回ってました。
田家:そこから本当に日本の戦後の音楽が始まったんですもんね、ポップスは。
伊東:そうでしょうね。そう思いますけど(笑)。
田家:釜萢さんはよくそういう話をされていて、トラックで行ったこともあるって言われてましたね。
伊東:あります、私も。新宿からトラックに乗せられましたね。ただ私は子供だから助手席に乗せてもらいました。どこだったかな、あの頃は青梅街道も狭かったから途中でトラックが事故っちゃってね。私が前歯を折っちゃったことがありますね。
田家:その日歌えたんですか?
伊東:ついてからすぐ病院に連れていかれましたよ。アルコールみたいなので消毒されて。歌ったでしょうね。仕事で行っていたんですから。
田家:1週目で、子供のとき歌が嫌でしょうがなかったっていうのはそういう環境も影響していたんですか。米軍基地の中に大人と一緒に混じって。
伊東:いや、そんなことはなくて、ただ歌うのが嫌だったっていうだけの話ですよね。お客様の前で。アメリカの兵隊さんだからとかそういうんじゃなくって、何で歌わなくちゃいけないのみたいな。そのうちになんとなく子供心に、私が歌えば家計が助かってるんだってわかってきて。あとは兵隊さんたちがいろんな美味しいものを持ってきてくれますから、今日は歌えば何をもらえるのかなっていうのが楽しみになりました。
田家:そういう中で、ミスダイナマイトと呼ばれた弘田三枝子さんと、ノースマイルと呼ばれた伊東ゆかりさんです。弘田三枝子さんの曲をもう1曲。「悲しき片想い」。
田家:弘田三枝子さんで1961年11月発売「悲しき片想い」。これもヘレン・シャピロ。ヘレン・シャピロも同い年だった。
伊東:そうなんですか。
田家:3人とも14歳だったんですね。弘田三枝子さんの6枚組プレミアムボックスが去年発売になりまして、その中で合田道人さんって方がお書きになってたんですが、弘田三枝子さんの三人娘の印象が紹介されておりまして、中尾ミエさんは何をやっても叶わない怖い人だったと。
伊東:うそ?! ミエさんが怖い人って言うのかな(笑)。本当? 本当ですか? はははは。
田家:はい。園まりさんは優しい人だった。プライベートのこともいろいろ相談に乗ってくれた人だった。
伊東:そうなんだ、そんなお付き合いがあったんですね、まりさんと。
田家:ゆかりさんの中ではどうですか?
伊東:私は、「人形の家」って曲が出たときにミコさんがすごく痩せて綺麗になって。ドレスの先生が同じだったんですミコさんと。仮縫いのところでもよくミコさんと会って、これからアメリカ行くとか、結婚するとか、どんどん綺麗になっていって。昔のダイナマイトのときのミコちゃんとは性格も変わっちゃったみたいな。ああ、恋をすればこんなに変わるんだなって。ドレスもよく似合ったしね。電車の中のミコちゃんとは全然印象が変わっちゃいましたね。
田家:そういうお2人が競作した曲をお聞きいただきます。1962年10月発売。弘田三枝子さんで「バケーション」。
バケーション / 弘田三枝子
田家:1962年10月発売、弘田三枝子さんで「バケーション」。同じ日に発売になったんですね。
伊東:そうですか。いやいやいや、全然歌い方が違いますね。ごーって言っちゃってますもんね。ふふふふ。負けた(笑)。
田家:直接こんなことをお聞きしていいのかどうかわかんないですけども、比較されるってやっぱり気持ちいいもんじゃないでしょう。
伊東:比較されたんですかね? よくわかんないです。「Vacation」もいろんな人が歌ってますから。ただ、私とミコさんの曲はことごとくダブリました。全部ダブりましたね、はっきり言って。何か意地悪されてんじゃないかってぐらいダブってますね。ただやっぱり、ミコさんのレコードなんか聞くと、私の歌い方はやっぱりさっぱりしすぎてるかなって感じがしますね。でもそれは私の歌い方だからいいのかなって気もするんだけど、当時はとにかくミコみたいな歌い方しろってよく言われましたから。何回かやったけど咳込んじゃって全然駄目でした、私には(笑)。
田家:やっぱりトライはされてるんですね。
伊東:レコーディングのときはしましたよ。私、言われるから。でも駄目でしたね。
田家:同じところでキャンプで歌ってた関係で、プロになって同じような歌を歌うのは何か特別なものはありました。
伊東:ふふふふ。何もありません。ただもう会ったときには、本当にミコちゃんと私ってあのときよく同じ歌を歌ったわよねって笑ったことはありましたけど。本人たちは別に競争意識はなかったんじゃないでしょうか?
田家:なるほど。これも競作でした。1963年12月発売、「私のベイビー」。
田家:伊東ゆかりさんが選ばれた弘田三枝子さんの4曲目「私のベイビー」。これもゆかりさんも歌われてまして、「オールタイム・シングル・コレクション」の中に入っておりますので、そちらの方で聞き比べていただけたらと思ったりします。でもこんな歌い方できる人は今でもいませんもんね。
伊東:ぐわーってのはどうやって出すんでしょうかね。ちょっといまだに私はできない。
田家:ダイナマイトと言われた所以ですね。何度か話に出てる「人形の家」で歌謡曲の方で復活して。
伊東:違う人と話してるみたいで。女らしくなっちゃったしね、本当に。アメリカ行くとかうらやましいなとか思ったこともあるし。コンサートか何かで一緒になって、ショーが終わった後に、楽屋でお弁当を食べながら話したことがある。ミコちゃん駄目、そんなに痩せちゃって駄目って。でもガパガパ食べてんですよ、お弁当を。太らなくてうらやましいわねって話して。私にも孫がいるのよって話になって。私はいないから羨ましいわねって。そんな話をして。それがミコさんと話した最後だったかな。
田家:2020年7月21日に他界されました。日本のガールポップ、ここから始まったんだって意味では、本当に一番最初からいらっしゃるわけですもんね、伊東ゆかりさんは。
伊東:あはは。弘田三枝子さんも。
田家:はい、お元気でいてください。
伊東:ミコさんにも元気でいて欲しかったですね。
田家:来週は伊東ゆかりさんのその後というんでしょうか。たっぷりお聴きしたいと思います。
伊東:ありがとうございました。
流れているのはこの番組の後テーマ、竹内まりやさんの「静かな伝説」です。米軍キャンプですよ。自分の話になってしまうんですけども、生まれたのは千葉県の船橋の映画館の隣でして、宣伝のスピーカーが家の中2階にあって、そこから歌謡曲が流れていて、子守唄が歌謡曲だったんです。小学校2年生のときに東京の府中の米軍基地の横に引っ越したんですね。フェンスの向こうのアメリカです。そこでFENを知った。テレビでは「ザ・ヒットパレード」があったりして、洋楽というのに出会うんですね。12月の最後のゲストの木﨑賢治さんが、やっぱりFEN少年でありまして。初めて会ったときにFENの話をしたら、彼は番組表、タイムテーブルを全部覚えていたので、僕はそんな話をするのやめましたけども(笑)。そうやって日本に洋楽が入ってきたんですね。ポップスの原点というのが、そこにあるんだと思いますね。日本語で洋楽を紹介して、それを聞いた僕らが洋楽を知る。そういう中で伊東ゆかりさん、弘田三枝子さんがスタートしていましたね。米軍基地の横で暮らしていると、基地というのは戦争の場所に思えないんですね。今でもどっかそういうのがあります。後にベトナム戦争反対とか米軍基地に行ったりするんですけど、どこかで俺はここ好きだもんなと思っていた自分がいました。今月の伊東ゆかりさん特集は、中学生の頃の自分に見せてあげたいなと思いながらお送りしています。
<INFORMATION>
田家秀樹
1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソリナリテイとして活躍中。
https://takehideki.jimdo.com
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音楽評論家・田家秀樹が日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出す1時間。
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