スポーツ報知では、ゆかりの人物が語る思い出や秘蔵写真などから、みんなに愛された長嶋茂雄さんの足跡をたどります。 

 第5回は“ミスター完投”の異名を取った元巨人投手の斎藤雅樹氏(60)。

1993年から2001年までの第2次長嶋政権時に「3本柱」の一角としてチームを支えてきた。引退を申し出て引き留められた時など、長嶋さんとのやり取りを回想し「太陽みたいな方でした」と故人をしのんだ。(取材・構成=秋本 正己)

 9回を投げきってマウンドからベンチ前へ歩を進めると、満面に笑みをたたえた長嶋監督がいる。そして、がっちり握手。“ミスター完投”の異名を取った斎藤にとって、それはミスターと過ごす至福の一時だった。

 「『ナイスピッチング』とか言葉は短いけど、いつも笑顔で迎えてくれた。本当に太陽みたいな方だった」

 長嶋さんが現場に復帰した93年シーズン。斎藤は89年、90年に20勝を挙げてエース格として君臨していたが、意外にもミスターとは初対面だったという。

 「オレのこと知っているかなと不安に思っていたけど、『サイト~!』と呼んでくれてうれしかった。その年、開幕投手に指名してくれたのも自分のことを認めてくれたからかな」

 ともに過ごした9年間で面と向かっての会話は少なかったと回想するが、長嶋さんの一挙手一投足、独り言のようにつぶやいていた言葉は鮮明に覚えている。

 「打たれて怒られた記憶もないけどその分、(捕手の)村田(真一)さんが叱られていた。ブルペンでも一言、二言くらいで指導らしい指導は受けたことがなかった。

いつも明るくて、暗い表情は見たことがない。皿の上の果物をちょっと口にして戻したりしたのは、いたずらっ子みたいだった。かと思えば、試合前にスタンドを見ては『きょうはお客さんが少ないな』とかつぶやいたり、テレビの視聴率のことも話していた。球界全体のことも考えていたのかも」

 長嶋さんと初めて1対1で話したのは、ONシリーズで盛り上がった2000年の日本シリーズ第6戦直前。右肩などの故障から引退を決意した斎藤は勇気を振り絞って東京Dの監督室のドアをたたいた。

 「『もう辞めようと思います』と伝えると、あの甲高い声で『何を言ってるんだ、まだできるぞ』と引き留めてくれた。長嶋さんにそこまで言っていただけるなんてありがたい限り。もう1年頑張ろうと引退を思いとどまった。翌年、長嶋さんが勇退されるタイミングで自分も引退することになり、一緒にセレモニーに参加させていただいたことはいい思い出になった」

 あの“10・8”も忘れることはできない。94年のセ・リーグ最終戦となった中日戦。勝てば優勝という大一番で槙原―斎藤―桑田の“3本柱”がリレー。勝利投手になった。

長嶋さんの「勝つ!勝つ!勝つ!」の叫びは今でも胸に残る。

 「長嶋さんが何度『勝つ!』と言ったのか記憶が定かではないけど、あの場にいた選手、スタッフ全員が盛り上がったことだけはしっかり覚えている。長嶋さんは『オレたちは勝てる!』と暗示したかったのでは。大一番を前に指揮官がうろたえていたら、不安が選手に伝染してしまう。そんな気遣いができる方だった」

 7日に営まれた通夜に斎藤も参列。棺(ひつぎ)の中の長嶋さんに「本当にありがとうございました」と感謝の気持ちを伝えた。

 「最後のお別れができてよかった。すごく穏やかで、今にも笑い出しそうなお顔だった。お通夜では何十年も会っていなかった人と会うことができたけど、それも長嶋さんの人徳があってのこと。ONの全盛期に野球を始めた我々世代にしてみれば、ミスタープロ野球と呼ばれた長嶋さんは神様のような存在。本当に太陽みたいな方だった」

 ミスターの笑顔は今でも斎藤の胸の中で燦々(さんさん)と輝いている。

 ◆斎藤 雅樹(さいとう・まさき)1965年2月18日、東京都生まれ。

60歳。市川口(現川口市立)から82年ドラフト1位で巨人に入団。89年に11試合連続完投勝利のプロ野球記録を達成するなど“ミスター完投”の異名を取り、最多勝5度、最優秀防御率3度、最多奪三振1度のタイトルを獲得し、沢村賞は3度受賞。平成前半の巨人を支えた。2001年の引退後は投手コーチ、2軍監督などを歴任。2016年に野球殿堂入りした。通算成績は180勝96敗11セーブ。防御率2.77。右投右打。

編集部おすすめ