スポーツ報知では、ゆかりの人物が語る思い出や秘蔵写真などから、みんなに愛された長嶋茂雄さんの足跡をたどります。第8回は巨人の川相昌弘2軍野手総合コーチ(60)。
川相にとって、長嶋さんは幼少期からの憧れだった。
「僕は岡山出身なので、子供の時からテレビでは巨人戦しかやっていなかった。家族で毎日のように見るのが習慣で、その中に常に長嶋さんと王さんがおられた。長嶋さんが引退された時は小学4年生。引退試合をテレビの前で見て、泣いたことをすごく覚えています。だから長嶋さんはスーパースターでヒーローというイメージが一番なんです」
ずっと“テレビの中の人”だったスターが、1993年に巨人の監督に復帰した。川相は当時、遊撃のレギュラー。だが春季キャンプで右肩を痛め、オープン戦の後半には座骨神経痛を発症。まさに「最悪な状態」だったが、開幕戦では「2番・遊撃」で起用された。
「打撃も最悪な状態だったんですが、僕を先発に選んでくれた。
長嶋さんが亡くなった3日には自宅を訪問。ただ感謝を伝えたい一心だった。
「レギュラーでなくなっても、ピンチバンターや時々先発で使ってくれた。よくもそんなに必要としてくれたなという感謝の思いしかない。少しでも直接お礼が言いたくて、『本当にありがとうございました』と」
印象に残るのは、現役時代に見た愛嬌(あいきょう)あふれるミスターの姿だ。
「『2番・ショートで2割5分打ったら大したもんだ。それを目指して頑張れ』と励ましてくださった。そうしたら93年は2割9分で94年は3割。オフになって、監督が脱帽しながら『2割5分とか言ってたけど、失礼しました!』と言ってくれたのはすごく覚えている。
中日でコーチを務めていた07年オフには、突然長嶋さんから着信があった。
「『コーチとして戻ってこないか?』と。当時はコーチになったばかりで、落合(博満)さんへの恩もあった。そのタイミングでは戻ることはできず、長嶋さんも『落合にも義理があるだろう』と理解してくださった。そして(11年に)巨人に戻る時に、長嶋さんのご自宅に一番最初にあいさつに行った。緊張していたからどうやって行って、どれくらい滞在したのかも分からない。でも喜んでくれていたことは覚えている」
1998年8月15日の阪神戦(東京D)で通算452犠打のプロ野球新記録を達成した。長嶋さんの心遣いは今でも忘れられない。
「日本記録の時にも『あと何個だ?』と言われることがありました。93、94年の打率もそうですが、当時は松井秀喜や落合さんがいて、普通で考えれば僕が打撃成績で勝てるわけがない。その中で僕の成績を気にしてくれたということは、選手にとっての成績がすごく大事だと気にしてくれていたからだと思います」
長嶋さんと言えば、「代打・川相!」とバントのジェスチャーをしながら選手交代を告げた伝説も残る。
「僕は監督が告げに行ったところは見ていなかったけど、『川相をここで出すということはバントなんだ』と長嶋さんも思っているだろうからね。
指導者となった今も、長嶋さんの教えは生きている。
「ここぞという時の試合をすごく楽しんでいた。そういう場にいられること自体が喜びなんだ、とすごく感じさせてくれる監督でした。監督が僕らに言っていたのは『今日しか見に来られないお客さんがいる。毎日ベストを尽くさなきゃいけない』ということ。長嶋さんが僕らや松井を育てたのは、毎日の継続であり執念。僕らも根気よく指導していくことで選手が育っていくことにつながるし、若い選手にも伝えていけたら」
憧れ続けたスーパースターとの思い出は、決して色あせることはない。
◆川相 昌弘(かわい・まさひろ)1964年9月27日、岡山市生まれ。60歳。岡山南高から82年のドラフト4位で投手として巨人入団後、野手に転向して遊撃手として活躍。2004~06年は中日でプレー。通算533犠打は世界記録。