清水隆行さん(51)にとって長嶋茂雄さん(享年89)は新人時代の監督であり、プロ野球での転機を与えてくれた恩師だ。小技を駆使するそれまでの「2番像」を一新し、バントのない超攻撃的2番としての活躍は“長嶋野球”の肝の一つとなった。

ユニホームを身にまとっている時は勝負の“鬼”と化す長嶋さんの素顔を明かした。(取材・構成=西村 茂展)

 清水にとって、長嶋さんはルーキー時代からの恩師にあたる。95年ドラフト3位で入団。1年目から外野の一角を任された。

 「もう本当に、ありがとうございましたということだけですよね。1年目からチャンスをもらって、それがあったから今でもこうして野球に関わっていられると思うので」

 大きな転機となったのは3年目の98年だった。これまで主に1番、6番を任され、前年に初の打率3割を記録していた清水は、長嶋監督の意向でバントのない超攻撃的2番で起用された。

 「それまでの野球人生で2番って経験がなかったし、すごい手探りだった。自分の中で、2番はバントだったり、カウントが浅いところから打ちにいかない方がいいのかなとか。ああしなきゃ、こうしなきゃって結構自分なりに考えたりもしてたんだけど。オープン戦の時の練習中だったかな。『別に何も変える必要がないから』って。

2番としてちゃんとスタートを切る前に伝えてもらえて。あまり難しく考えずに入れた。今までのスタイルでいいっていうのが全てなんだと。もちろんバントのサインもあったと思うけど、基本的には打ってチャンスを広げてってことなんだな、と」

 ファンには常に朗らかな笑みを向けるが、ひとたびユニホームを着れば、妥協を一切許さない。長嶋さんが松井秀喜のスイングをチェックし続けたことは語り草になっているが、その場に不意に居合わせた時、清水は厳しい長嶋さんの印象を強くした。

 「ある日の試合前の練習で少し時間があって、一息ついてからいこうって思って。いつも野手がミーティングする部屋のドアをパッて開けたら、2人がいて。聞こえるのは素振りの音だけ。すごく張り詰めた空気を開けた時にすぐ感じたから、それで何も言わずに閉めたんだけど…練習でも真剣勝負の方だった」

 2000年には当時NPB史上10人目となる規定打席に到達しての併殺打なしを達成した。

 「特にあの時のメンバー構成を考えた時に、俺ぐらいの技量だったら、あのあたりをこなせるようにならないとチャンスが広がらなかった。そう考えると、新たな機会をもらって道を広げてもらいましたね」

 そんな長嶋さんを清水は“勝負の鬼”と見る。記憶に鮮明に残っているのは、2000年のリーグ優勝を決めた日だった。

マジック1、東京Dに8ゲーム差の2位・中日を迎えた9月24日。9回まで0―4の敗色濃厚な展開が続いた。

 「野球に関してはすごく厳しい方だった。試合中もすごくピリピリしてる。勝負に対してはとにかく真剣。状況的に考えたらもうほぼ優勝は決まってたようなものだった。それで、翌日は試合がない日程だったけど『明日も練習やるぞ』ってなって。僕はその試合は出てなかったんですけど、ベンチの緊張感がすごかった」

 その日はシーズンの本拠地最終戦。ファンのことを最優先に考える長嶋さんを思えば、勝利にこだわるのは当然だったその試合。9回に江藤が同点満塁弾、続く二岡がサヨナラソロを放ち、優勝を決めた。

 「東京ドームで決めるっていうのは、すごく描かれてたんだと思う。やっぱりたくさんのファンがいてこそのプロ野球というのは強く意識されていた。

あとはやっぱり負けたくない。勝負事に勝つことの執念だね。それはどの監督もあるだろうけど、でもあんなこと普通じゃ起きない。そこが長嶋監督のすごさだよね」

 ◆清水 隆行(しみず・たかゆき)1973年10月23日、東京都生まれ。51歳。浦和学院、東洋大から95年ドラフト3位で巨人入り。強打の外野手として活躍し、2002年に最多安打(191安打)とベストナイン。09年に西武へ移籍し、同年に引退した。通算成績は1485試合、打率2割8分9厘、131本塁打、488打点。11~15年は巨人コーチ。18年に「U―15ワールドカップ」の日本代表監督。183センチ、83キロ。

右投左打。

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