巨人のライバルだった名選手の連続インタビュー「巨人が恐れた男たち」。第8回は元中日の谷沢健一さん(77)だ。

1974年に巨人の10連覇を阻んだ中日の主軸であり、持病のアキレス腱(けん)痛を克服してカムバックを果たした不屈のスラッガー。6月3日に永眠した長嶋茂雄さんとの縁や、復活の裏にあった「酒マッサージ」との出会いまで、「喜怒哀楽」を語った。(取材・構成=太田 倫)

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 1974年に巨人の10連覇を阻止し、初めて優勝を経験した。名古屋での優勝パレードは10月14日。長嶋さんの引退試合となる、後楽園での中日とのダブルヘッダーと重なってしまった。

 巨人戦には1軍半の選手が行って、主力組はパレードに参加した。シーズンも終わってなくて、2日後にロッテとの日本シリーズが開幕する。なんでこのタイミングなんだ?っていう思いは正直あった。長嶋さんのスピーチは、パレードからナゴヤ球場に戻ってきて、球団事務所で見た。パレードには65万人ものファンが来てくれてありがたかった反面、「ああ、この場(引退試合)にいたかったな…」っていう感情があったね。

 プロ7年目の76年、打率3割5分5厘で初めて首位打者になった。王貞治さんと食事する機会があって、「3割を狙うには3割5分を狙わないといけない」と心構えをアドバイスされ、ついに3割の壁を破れた。

ところが球団は満足しない。176安打中、単打が128本だったのもあって「貢献度が低い」と、年俸を100万円しか上げてくれなかった。さすがに文句を言ったら、「サラリーマンの世界ではすごい額なんだ」って言い返された。「サラリーマンと一緒にするな!」って机をたたいて、部屋を出て行ったもんだよ。

 引退のいきさつもね…。86年の10月初めに球団に呼ばれた。「来年から星野仙一君が監督をやる。君はその構想に入っていない」。一方で「年俸はこのくらいでどうだ?」と大幅減の金額提示も受けた。矛盾しているよね…。他の球団に行くことも考えたけど、結局は辞める決意をした。

 11月1日に星野さんに呼ばれた。

「谷沢監督は谷沢選手を使えるか?」と聞かれたよ。君はもう使わないってことだ。引退は決めていた。それでもカチンときた。何の返答もせず、その場は別れた。近くのホテルで球団代表が待っていた。「どうするんだ?」って迫ってきたから、「辞めます」と伝えて、発表する段取りになった【注2】。非常にさみしい思いをしたね。

 【注2】引退記者会見は86年11月7日。谷沢は「もう1年プレーするつもりでいた。新監督の気持ちを察して身を引くことにした」と無念さをにじませた。

 ◆谷沢 健一(やざわ・けんいち)1947年9月22日、千葉・柏市生まれ。

77歳。習志野3年時の65年、第1回ドラフト会議で阪急から4位指名を受けるが、早大進学。69年ドラフト1位で中日入団。70年新人王。76、80年首位打者。ベストナイン5度。81年9月20、21日の巨人戦では4打席連続本塁打。85年10月23日の広島戦(広島市民)で2000安打、86年オフに引退。94、95年には西武で打撃コーチを務めた。左投左打。

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