巨人のライバルだった名選手の連続インタビュー「巨人が恐れた男たち」。第9回は元広島、巨人の川口和久さん(66)だ。

広島時代には「巨人キラー」として球団最多の通算33勝。FAで移籍した巨人ではリリーフに転向し、1996年の「メークドラマ」を完結させる胴上げ投手にもなった。幼少期から大ファンで、巨人在籍時の監督だった長嶋茂雄さんとの思い出や、引退寸前からの復活劇まで「喜怒哀楽」の記憶を掘り起こした。(取材・構成=太田 倫)

 1994年のオフにFAで巨人に移籍した。その頃は直球が速くても136キロくらい。長年の蓄積疲労で体が思うように動かず、自分の納得できる投球から遠くなっていた。

 95年は先発で4勝に終わった。96年は5月頃にはローテーションから外されて、2軍に落ちた。「もう、辞~めた」って思ってね。長嶋さんに迷惑をかけるくらいなら、身を引こうと考えていた。2軍の練習が朝の9時半から始まって、ウォーミングアップが終わったら「帰ります」。11時には家にいたので、好きな映画を見たり、家族サービスしたり…。

女房にも「辞めるから」って伝えていた。

 コーチの宮田征典さんに「辞めます」と打ち明けたら、えらい怒られた。「何言ってるんだ、お前はまだジャイアンツの一員なんだ!」と。そして、救援転向を打診された。「先発だけがピッチャーじゃない。一回やってみろ」。プライドを折られ、反骨心もなくなりかけていた。切れていた気持ちを、宮田さんがもう一度つないでくれた。そこから歩幅を狭めて制球を重視する、リリーフ仕様にフォームを改造した。

 球速自体は少しずつ戻りつつあった。巨人に来てから取り組んでいた、PNF(神経筋促通法)の効果だった。もともとは身体障害者や体にハンデを負った人のためのトレーニング。

当時の萩原宏久トレーナーから「もう一回“男”になってみないか」と勧められた。

 ブリッジをしながら脚を上げたり、地味だけど脂汗が出るほどしんどい。おかげでリリーフ転向後には、142、3キロ出るようになっていた。夏に1軍に呼ばれ、広島との最大11・5ゲーム差をひっくり返す「メークドラマ」の中で、最後はクローザーも担った。古巣に逆転して優勝したのは何かの因果だよね。

 優勝を決めた10月6日の中日戦。長嶋さんから試合前に「最後は任せたぞ」と言われ、送り出された。9回2死から立浪和義を見逃し三振。決め球の144キロのアウトローの直球は、下半身が地面をしっかりかんで、指にかかっためちゃくちゃ納得いくボールだった。日本シリーズではオリックスとやったけど、イチローも全然怖くなかった。

 引退を覚悟したところから、胴上げ投手になれた。まさに地獄から天国だった。

 ▽1996年の巨人優勝決定試合

(10月6日、ナゴヤ)

巨人 013000010―5

中日 011000000―2

(巨)宮本、木田、河野、水野、川口―村田真

(中)門倉、落合、山本昌、遠藤、中山―中村

[本]大森、マック、清水(以上巨)、矢野(中)

 【VTR】7月6日時点で巨人は首位・広島から11・5差の4位。長嶋監督の掲げた「メークドラマ」を合言葉に、43勝17敗の驚異的な追い上げで逆転優勝を果たした。中日戦では、川口が8回途中から1回1/3を無失点に抑えて3セーブ目を挙げ、胴上げ投手になった。

 ◆川口 和久(かわぐち・かずひさ)1959年7月8日、鳥取県生まれ。66歳。鳥取城北からデュプロを経て、80年ドラフト1位で広島入団。86年から6年連続2ケタ勝利。87、89、91年に最多奪三振のタイトル獲得。94年オフにFAで巨人に移籍後は主にリリーフとして活躍。通算成績は435試合で139勝135敗、2092奪三振、防御率3.38。引退後は巨人で投手コーチを務めた。左投両打。

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