『4軍くん(仮)』コミックス第1巻発売記念SPECIAL!
大学野球を10倍楽しく見よう!特集~第2回 立教大OB・上重聡氏

『ヤングジャンプ』で連載中の『4軍くん(仮)』のコミックス第1巻発売を記念して、「大学野球を10倍楽しく見よう!」特集がスタート。今回は東京六大学野球部OBの6人にご登場いただき、母校について熱く語ってもらった。

第2回はPL学園から立教大に進み、東京六大学リーグ史上2人目の完全試合を達成した現・日本テレビアナウンサーの上重聡氏だ。

上重聡が最初に覚えた立教大野球部の寮則は「長嶋茂雄さんがテレ...の画像はこちら >>

PL学園から立教大に進み、現在は日本テレビのアナウンサーとして活躍中の上重聡氏

【高校時代とのギャップに戸惑い】

── 漫画『4軍くん(仮)』の荻島航平が通う池袋大学は立教大学がモデルとなっています。立教には4軍があるんですか。

上重 4軍ですか? いやぁ、私の時にはありませんでしたよ。でも今は部員数もすごく多くて、4軍があるみたいですね。楽天の田中和基くんは4軍というか、D班からスタートして2年の秋にはレギュラーの座をつかんだという話を、楽天戦の実況中に紹介したことがありました。

── 漫画のなかの"4軍"には、たとえば就職活動を有利に運ぶために体育会の硬式野球部に籍を置いているだけの輩がいました。

立教にそういう部員はいたんでしょうか。

上重 私が1年の秋、立教がリーグ戦で9年ぶりに優勝したんです。私はメンバーには入っていたものの、登板はなし。池袋の立教通りをパレードした時も、私は1年生ですからオープンカーの後ろにくっついて、提灯を持って歩いていました。ところがメンバー外の4年生や、一度も顔を見たことのない4年生がオープンカーに乗って、わーっとうれしそうに騒いでいるんです。「おいおい、ちょっと待てよ」と(笑)。

 私はメンバーなのに提灯持って歩いていて、練習にも出てこない先輩が、まるで「優勝したのはオレの活躍があったからだ」的な我が物顔で手を振っている......そういうことが許される立教の緩い雰囲気には正直、驚かされましたね。学年関係なく試合に出た人が日の目を見るPLでは、そんなことはあり得ませんでしたから。

── PL学園での上重さんは、松坂大輔投手のいる横浜と夏の甲子園で延長17回の死闘を繰り広げました。甲子園で優勝することを目指した高校3年間を経て入学した立教大学の雰囲気にはどんなことを感じたのでしょう。

上重 いろんなところに凄まじいギャップがありましたね。1年春のリーグ戦で立教は開幕から8連敗を喫したんです。

でもその試合後のミーティングが「明日も頑張ろう」だけで終わったんです。「えっ、それだけ?」と本当にビックリしました。PLでは"負けイコール死"を意味する空気が当たり前でしたから、8つも続けて負けてもスーッと次の日を迎えられる空気に麻痺していく自分が怖くなりました。

── それでも上重さんが1年の秋にはリーグ戦で優勝を果たしています。開幕8連敗の春から秋に優勝......何があったんですか。

上重 8連敗したシーズンを終えて、今までのレギュラーを撤廃することにしたんです。

夏の紅白戦の成績を寮の廊下に貼り出して、結果を残した選手が試合に出ることになった。そうしたら1年で抜擢される選手が出てきたり、キャプテンが外されたこともありました。情を一切排除した実力主義で臨んでの優勝だったんですが、結果を残せなかった私にも登板機会は与えられませんでした。

【東京六大学史上2人目の完全試合】

── それでも上重さんは、2年の秋には東京六大学史上2人目の完全試合を達成します。順調な大学生活だったように見えます。

上重 そこだけ切りとるとそう見えるかもしれませんが、私、ピッチャー失格の烙印を押されていたんです。

1年の秋には登板機会がなく、2年になっても期待に応えられなかった。2年の春、私は日大とのオープン戦で(村田)修一に満塁ホームランを打たれるなどして13失点。その試合で右バッターの頭にデッドボールを当てて、投げるのが怖くなってしまいました。それで春のリーグ戦は外野手として試合に出ていたんです。

 でも、守備位置や打席からほかのピッチャーを見ていたら、すごいボールを投げるピッチャーがゼロで抑えるわけじゃないことに気づいたんです。そうか、(松坂)大輔みたいなすごいピッチャーにならなくても打ちにくいピッチャーになればいいんだと発想を転換したら、2年秋のシーズンにピッチャーとしてうまく入っていけました。

5勝を挙げたそのシーズン、最後の東大戦で完全試合を達成することができたんです。

── その日のピッチングは今、どんなふうに脳裏に焼きついているんですか。

上重 こうやって投げればそこに行くというレールが、野球人生で初めて見えた気がしました......いや、あの日はたしかにそれが見えていましたね。ただそんな感覚は長く続かなかったことと、周りから"完全試合をしたあの上重"と言われる十字架を背負わされて、またスランプになってしまいました。だから4年生の時、プロ野球選手になるのをあきらめて、アナウンサーを目指すことにしたんです。

── 今、アナウンサーとしてマイクの前で野球を伝える上重さんにとって、あの完全試合はどんな意味を持っているのでしょう。

上重 大学時代、私には野球で活躍できずに不本意なまま終わってしまったという思いがあります。そんななか、ひとつだけ名前が残る記録を残せたことは、大学で野球をやった自分を支えてくれています。のちに大学野球を実況することがあって、早稲田大の斎藤佑樹投手のデビュー戦も実況しました。その時の斎藤投手、東大を相手に途中まで完全試合を続けていたんですよ。で、「もし達成すればオレ以来」というのをいつ言おうかなと思っていました(笑)。アナウンサーって一見、華やかに見えるかもしれませんが、誰かを輝かせるために言葉で表現する裏方の仕事です。だからこそ、大学時代に苦しんだ経験はすごく大きかったと思っています。

── 上重さんにとっての立教魂を言葉にしていただくとしたら......。

上重 立教魂ですか? それはもう、長嶋茂雄さんに尽きるんじゃないですか。立教に入って最初に覚えた寮則のなかに「長嶋さんがテレビに映ったら正座をしてこんにちはと言え」という一文があったんです。しかも括弧つきで「ただし一茂さんは別」と書いてある(笑)。こんなギャグみたいな寮則でいいのかなと思いましたよ。

 立教のイメージってよく言えばスマート、悪く言えば勝負弱い。誇っていいのは偉大なOBの長嶋茂雄さん......長嶋さんの存在って立教野球部にとっては永久に不滅ですし、それこそが唯一無二の立教魂なのかもしれませんね。


上重聡(かみしげ・さとし)/1980年5月2日生まれ、大阪府出身。PL学園時代にはエースとして春夏連続甲子園に出場し、春はベスト4、夏はベスト8に進出。敗れた相手はともに松坂大輔を擁する横浜高校だったが、夏の"延長17回の死闘"は球史に刻まれる名勝負として、今も語り草になっている。立教大学に進学後は、東京六大学リーグ史上2人目となる完全試合を達成。その後プロへの道は断念し、現在は日本テレビアナウンサーとして活躍中。