2007年4月14日、神宮球場にはその前年の開幕戦の4倍を超える1万8000人の観衆が詰めかけた。地上波の民放テレビやAMラジオが生中継をするほどの注目を集めた東京六大学野球、春季リーグの開幕戦。
1年生ながら春のリーグ戦の開幕投手に指名された斎藤佑樹
【6回1安打無失点の好投】
僕って「あの時は緊張したでしょう」と言われると、「いや、そんなことないですよ」とつい強がりたくなるんです。でもさすがにあの初戦の東大戦はすごく緊張しました。大学野球に挑戦する、その最初の試合でしたからね。いったいどれだけレベルが高いんだろうというところがまったくわからなかったし、リーグ戦も初めてでしたから1試合の持つ重みもよくわかっていなかった。メチャクチャ緊張して、地に足がついていない感じがありました。
大学生として初めて上がる神宮球場のマウンドに、高揚する感じと、ふわふわした気持ちがあったんだと思います。
ただ、ボールにはしっかり指がかかっていたので、ストライクゾーンに投げられれば何とか勝負はできました。だからコントロールはアバウトでも、球の力で勝負できるフォーシームとスライダーを多く使いましたね。
結局、5回まではノーヒット、6回に初安打を許しましたが、その1安打だけの無失点ピッチングをすることができました(74球、無四球、奪三振8、勝利投手)。
初回、先頭バッターの井尻(哲也)さんにいきなり強烈なファーストライナーを打たれたんですが、もしあれが抜けていたら、その後はどうなっていたかわからなかったと思います。しかもあれはファーストスイングでしたから、初めて見る僕の球にいきなりアジャストしてきたわけで、その能力の高さにはビックリさせられましたね。
周りからは「法政と明治を抑えたら本物だ」みたいな言われ方をしていたんですが、僕のなかでは東大も法政も明治も一緒でした。大学野球は大人の野球だというイメージがありましたから、そういうくくりのなかで自分のピッチングをしたら果たしてどうなるのか。そこに関しては、開幕戦で東大を抑えることができて、打線も打ってくれて、勝てた(8対0)。
神宮は高校時代に何度も投げた球場でしたが、大学で立ったマウンドは感じが違いました。日大三高との決勝とか神宮大会とか、高校の時の神宮球場って勝利を積み重ねていかないとたどり着けない場所じゃないですか。だから疲れた状態で投げる印象しかなかったんですが、大学では開幕戦ですから心身ともにフレッシュです。しかも身体が軽く感じたほどでしたから、最初、マウンドの感覚をつかむのが難しかった。力加減がわからなかったんです。
【土曜日に登板する意味】
開幕の東大戦は土曜日(1回戦)でしたが、法政戦は日曜日(2回戦)の先発でした。土曜日の法政には2つ上の須田(幸太)さんが先発して、無四球の完封勝ち。そこは「あぁ、やっぱりそういうことなんだろうな」と思いました。僕はまだ、基本は土曜日じゃなくて日曜日に投げる実力なんだなと......1年生ですから、当たり前の話です。開幕投手を僕に決めたのは、應武(篤良)監督のなかでは3年の須田さん、2年の松下(建太)さんに火をつける感覚だったんじゃないかと思います。
それは應武流の「1年生に負けんじゃねえぞ」という上級生へのメッセージだったんでしょう。
なぜそう思ったのかというと、開幕前のミーティングの時に監督が4年生の先輩たちに「おまえらは谷間の世代だ」と檄を飛ばしていたからです。さらにその上の世代にはすごいピッチャーがたくさんいて、須田さんたちの代は下級生の時、ほとんど投げるチャンスがなかった。「おまえらは最弱の世代だ、それをちゃんと理解しろ」と言われていました。だから僕の開幕投手もその代の先輩たちへの刺激のひとつだったんだろうなと思ったんです。
東京六大学で投げるピッチャーにとって「土曜日」という言葉は特別です。
この数字はつまり、1年あたり12勝、春と秋に6勝ずつがノルマになる。対戦する相手は5校ですから、最低でも1カード、どこかの大学との対戦では2勝するというシーズンを、4年間、ずっと続けなければ届かない。
じつは僕、大学に入った時には、無謀ながらこの数字を超えたい、案外、いけるんじゃないか、なんて思っていたんです。先発した試合で全部に勝って5勝、それを春秋と4年続ければ40勝だから、それに加えていくつか月曜日に勝てば、超える可能性はあるんじゃないかと......でも、1年の春にリーグ戦を戦ってみて、「そんなの絶対に無理じゃん」と思いましたね。山中さんはいったいどんなピッチングをしてそんな数字になったのか、ホント、恐ろしい数字です。
【怒涛の開幕8連勝】
日曜の法政との2回戦に先発した僕は、立ち上がりに1点をとられましたが、その後は7回までゼロに抑えて(91球、被安打4、与四球1、奪三振7、失点1)2勝目を挙げることができました。東大戦よりもたくさんのお客さんが来てくれたと聞かされて(2万8000人)、それはありがたいことでしたが、僕としては(前年の)あの夏の甲子園の盛り上がりを見てきましたし、その前の神宮を知らないので、そんなにすごいのかなと正直、実感できずにいたんです。
それでも大学1年の僕としては、そういう空気に合わせないといけない(笑)。周りが「盛り上がってますね」と言ってくれれば、「いやぁ、すごいですね」と言うしかないわけです。ただ、大学の応援団はホントにすごいなと思っていました。高校の時もすごかったけど、大学は規模が違います。応援団と吹奏楽と、あとはチアもいて、しかも相手の大学との応援合戦がある。あれは神宮ならではの盛り上がりだなと思いましたね。
シーズンが進むにつれて身体が軽い感じもほどよく解消され、マウンドの感覚もだんだんつかめてきます。次の立教戦はリリーフで2試合に投げて、いずれもゼロに抑えました。土曜日は7−4と早稲田がリードして9回、福井(優也)がマウンドへ行きます。
ところが福井のコントロールが定まらず、ヒット2本と2つのフォアボールで1点を奪われて、なおツーアウト満塁。僕はベンチ前でキャッチボールをしていましたが、福井はストライクが入らず、ツーボールとなったところでマウンドへ上がりました。ちゃんと覚えているわけではないんですが、ポンポンとストライクをとって、最後はツーシームでゴロを打たせたんじゃなかったかな......えっ、違いましたか? あれっ、まっすぐで空振り三振? それは覚えてないなぁ(ストライク、ストライクで2−2の並行カウントに戻し、ファウルのあと、空振り三振)。
もちろん僕は先発だけじゃなく、リリーフもやるつもりでいましたし、実際、雨で一日あいた月曜日の立教との2回戦も、僕はリリーフで8回からの2イニングを投げました。で、立教に連勝、早稲田は開幕6連勝となりました。
次の明治戦は、ともに無敗、開幕6連勝の勝ち点3同士という対戦です。土曜日の先発は須田さんで、僕は日曜の先発を言われていました。初戦、須田さんが完封(2−0)して、2回戦を迎えます。五月晴れの気持ちがいい日で、お客さんもたくさん入っていました(早慶戦を除けば当時で18年ぶりという観衆3万人)。この試合は調子がよくて、5回まで0−0。早稲田が6回に3点をとって、その裏、ツーアウト満塁のピンチで代打に謝敷(正吾)くんが出てきます。
謝敷くんは僕と同じ1年生で、大阪桐蔭の3番バッターでした。夏の甲子園でも対戦してインコース低めのスライダーで三振をとった記憶があります。そしてこの時も、球種は覚えていないんですが、変化球で空振り三振をとったんですよね。僕はその回限りで交代(6回93球、被安打5、奪三振4、与四球2、無失点)して、その後を福井、松下さんがつないでくれて、5−0で勝つことができました。これで3勝目、チームも開幕から8連勝です。
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早稲田が明治に勝って、勝ち点4。慶應も法政に勝って勝ち点3。この時点で優勝の可能性は勝ち点3の明治も含めた3校に絞られていた。頭ひとつリードしていた早稲田は、慶應に1つ勝てば、その時点で優勝が決まる。斎藤にとっては初めての早慶戦に優勝がかかることになったのだ。土曜日の先発は須田、そして斎藤は日曜日に先発することが決まっていた。
(次回へ続く)
斎藤佑樹(さいとう・ゆうき)/1988年6月6日生まれ。群馬県出身。早稲田実業高のエースとして、2006年夏の甲子園において「ハンカチ王子」フィーバーを巻き起こし、全国制覇。早稲田大進学後も東京六大学リーグで活躍し、2010年にドラフト1位指名で北海道日本ハムファイターズに入団。1年目から6勝を上げ、2年目は開幕投手も務めた。ケガに悩まされて2021年シーズンで引退。株式会社斎藤佑樹を立ち上げて、野球の未来づくりにつながるさまざまな活動を開始した。