野村克也氏が亡くなってから3年が経った。今もプロ野球界は野村氏から教えを受けた選手、指導者が数多くいるが、昨年まで西武の監督を務めた辻発彦氏もそのひとりだ。

現役時代は名二塁手として西武黄金時代を支え、1992年、93年は日本シリーズで野村監督率いるヤクルトと死闘を繰り広げた。その後、96年にヤクルトに移籍し、野村監督のもとでプレーすることとなる。そんな辻氏が野村監督との思い出を述懐する。

辻発彦が初対面の野村克也から言われたまさかのひと言に発奮。「...の画像はこちら >>

選手として、監督として、野球界に多大な功績を残した野村克也氏

【野村監督からの賛辞】

── 2020年2月11日に野村克也さんがお亡くなりになられ、はや3年が経ちます。野村氏との印象深い思い出を教えてください。

 野村さんと最初に会ったのが、私のプロ入り1年目の1984年です。西武は広岡達朗監督のもと、米アリゾナ州メサでスプリングキャンプを行ない、その時に野村さんは評論家としてキャンプ視察に来られていました。

 当時の西武は高卒4年目の秋山幸二を売り出そうとしていて、野村さんのお目当ても秋山。バックネット裏の高いスタンドに陣取って、上からフリーバッティングを見ていました。私は秋山の次だったので、横のほうでスイングを繰り返していたのですが、突然「おい、そこの背番号5。見えない。どけ!」と野村さんに言われてしまって......。秋山を見たいのに私が邪魔だったんでしょうね。

「あっ、野村克也さんだ」と思いつつも、ユニフォームに『TSUJI』のネームも入っているのに、そんな言い方しなくても......というのが偽らざる本音でした。だから92年に日本シリーズで対戦した時は、「野村ヤクルトには絶対に負けてたまるか!」と思ったものです(笑)。

── 92年の日本シリーズでは辻さんの大活躍もあって、西武が日本一に輝きました。

 日本シリーズは4勝3敗で西武が勝ち、表彰式直後に野村監督とすれ違った際、「辻くん、ウチは君のあのバックホームで負けたよ」と言ってくださいました。初対面で気に留めてもらえなかったこともあり、あの時は褒められてうれしかったですね。

── その後、辻さんは96年にヤクルトに移籍し、野村監督のもとでプレーされます。

 まさかヤクルトのユニフォームを着て、野村監督と一緒にやることになるとは夢にも思いませんでした。そういう意味では、何か縁があったのでしょうね。

 じつは引退後もこんな話があったんです。野村監督が2005年オフに楽天の監督に就任した時、直々にコーチの話をいただきました。ただその時は、2006年に第1回WBCが開催されることになっていて、すでに日本代表監督の王貞治さんからコーチの依頼を受けていました。野村監督の申し出は大変ありがたかったのですが、お断りさせていただきました。

── 辻さんは2007年から中日のコーチに就かれました。

 セ・パ交流戦の時だったでしょうか。野村監督は記者の前でこう言ったんです。「この辻っていう男はな、せっかくワシがコーチに誘っているのに断ったんや!」と。もちろん冗談まじりですが、そんなこともいい思い出です。

【濃密だった野村ミーティング】

── 話は戻りますが、ヤクルトでプレーしていた頃、「ID野球」「野村ミーティング」などがあったと思いますが、どんなことが思い出されますか。

 ヤクルトに移籍したのは38歳になるシーズンでした。米アリゾナ州ユマのスプリングキャンプ。夕食後に毎日1時間以上ミーティングがあるのですが、全部参加しました。毎日ノートにみっちり4ページ、内容を書き込んでいました。

 キャンプの前半は"人生論"で、一野球人である前に一人間であれなど、人生観であったり、振る舞いであったり。当然だと思うこともありましたが、「なるほどな」と考えさせられることもたくさんあって、あらためてノートに書き込むことで初心に戻れた気がしました。

── キャンプの後半は?

 後半は"野球論"で、たとえば「12種類のカウント別打者心理、投手心理」「打者の狙い球10カ条」「打者の4タイプ/A型~D型」などですね。当時は「しんどいな」と思いながら書いていましたが、いま思うと本当に濃密な時間でした。監督になって、いろいろな場面に遭遇すると、「あの時、ちゃんと聞いておいたのは無駄ではなかった」と実感した次第です。

── ほかに思い出はありますか?

 ヤクルトの1年目、ユマキャンプから帰国して、宮崎・都城での広島とのオープン戦。そぼ降る雨のなか、野村監督が「辻の能力を見てみたい」と38歳でスタメン、フル出場することになってしまったんです(笑)。

 覚えているのは、その試合で生まれて初めてカウント3ボール0ストライクから打ちにいったことです。野村さんの野球って、そうじゃないですか。「甘い球なら初球から打ってもいい」とか「狙い球が外れたら見逃し三振でも構わない」とか。それで打ちにいって、タイミングはよかったけれど、ボールの下っ面を叩いてレフトフライ。ベンチに戻ると「辻よ、読みはドンピシャ。頭で勝ったけど、技術が伴わなかったな」と、野村監督から感想をいただいたことを今でもはっきりと覚えています。

── 96年のシーズンは、辻さんがセ・リーグ打率2位、97年は小早川毅彦(元広島)が巨人との開幕戦で斎藤雅樹から3打席連続本塁打、田畑一也(元ダイエー)が15勝。まさに「野村再生工場」の1年でした。

 ヤクルト1年目の96年は多くの試合に使っていただき、セ・リーグ打率2位の成績を残せました。また97年には、古巣・西武との日本シリーズも経験できました。しかし、その年、翌年と成績が落ち、40歳になった時にマスコミに「辻もそろそろ引退か」と噂されました。

── その時、野村監督はどんな反応でしたか。

 野村監督は「40歳までこのプロ野球界で頑張ってきた選手に対して、ワシの口から『もういいよ』とは言えない。リスペクトしなきゃ。辻が自ら辞めると言えば辞めればいいし、続けると言えば続けさせると」と。野村さん自身、45歳まで現役を続けた方なので、私の気持ちを察してくれたような気がします。

── 99年も現役としてプレーされました。

 98年のシーズン後に野村監督はヤクルトを辞め、阪神の監督になられるのですが、私は年賀状に<野村監督にいただいた1年。死ぬ気で頑張ります>と書きました。すると、「辻からうれしい年賀状がきたんだよ」と野村監督が話していたと、新聞記者の方に聞きました。僕自身は99年シーズンで現役を引退したのですが、ヤクルトでの4年間は本当に濃い時間を過ごさせていただきました。命日には、久しぶりに"野村ノート"を開いてみようと思います。

辻発彦(つじ・はつひこ)/1958年10月24日生まれ、佐賀県出身。佐賀東高を卒業後、日本通運を経て83年ドラフト2位で西武に入団。球界を代表する名二塁手として西武黄金時代を支えた。96年にヤクルトに移籍し、99年に現役引退。2000年からはヤクルト、02年から横浜(現・DeNA)、07年から11年と14年から16年は中日でそれぞれコーチ・二軍監督を経験し、17年より22年まで6年間、西武の監督を務め18年、19年と2年連続でパ・リーグ優勝に導いた