2020年2月11日に野村克也氏が逝去してから、はや3年が経つ。野村氏は、選手としては三冠王など数々のタイトルを獲得し、監督としても日本一、選手育成など多大な功績を残した。

またグラウンドを離れても多くの人に影響を与え、亡くなる直前までプロ野球界の発展を願っていた。今回、野村克也氏の専属マネージャーとして仕事を切り盛りしていた小島一貴氏が、濃密だった15年を振り返る。

野村克也の専属マネージャーが明かす「ノムさんの仕事と素顔」。...の画像はこちら >>

2009年に楽天の監督を退任したあとも多忙を極めた野村克也氏

【午前中の仕事はNG】

── 野村克也さんの仕事をどのようにマネジメントしていたのでしょうか。

小島 2006年の楽天監督時代から亡くなられる2020年まで、約15年間、専属マネージャーを務めさせていただきました。おもな仕事は、新聞、雑誌、書籍、テレビ、ラジオ、講演会など......各メディアから事務所に取材申請がくると、最初の7、8年間は野村宅にFAXを送り、沙知代夫人が仕事を選んでいました。後半の7、8年は、私が監督(野村克也/以下同)に直接連絡して、お伺いをたてていました。

 午前中の仕事は終始一貫してお断りさせていただいていました。

後半は、宿泊を伴う遠方での仕事はNGでしたね。沙知代夫人が亡くなられてからは、野村克則夫人がいろいろと助けてくれました。

── 「受ける仕事」と「受けない仕事」はあったのですが?

小島 正直、受けない媒体はありました。それにフジサンケイグループと関連が深いヤクルトの監督を務めていたこともあって、他局のお笑い絡みの番組は辞退させていただくことがありました。NHKの仕事は節目で受けていました。あと監督は、TBSのスポーツ番組『S☆1』でアシスタントを務めていた小島瑠璃子さんがお気に入りだったようです。

── 1日のスケジュールはどのような感じだったのですか?

小島 「現役時代のナイトゲームの習慣が抜けない」ということで、完全な宵っ張りでした。仕事は夕方6時が"プレイボール"で、都内ホテルのダイニングカフェに現れます。事務所からは近いのですが、監督のご自宅からは車で結構あります。いつしかそこが"仕事場"になっていました。

 大好きなアイスコーヒー(ミルク付き)を飲みながら、1日に2社くらいの取材を受けていました。一度、私が朝11時からラジオの収録の仕事を入れた時は、ふだん怒らない監督がかなりご立腹で、1時間ほどお説教されたのを今でもよく覚えています。

なぜなら、監督は深夜3時、4時に寝て、朝10時とか11時に起きる生活をしていたからです。

 ホテルのダイニングカフェでは撮影ができないので、必要な時は小会議室で行ないました。仕事の"ゲームセット"は夜9時、沙知代夫人から監督の携帯電話に入って終わりとなります。すると「ほら、そろそろ取材終われとのことだ」と。慣れていない取材者の方は、沙知代さんからの"早く終われコール"に恐れをなし、インタビューは駆け足で終わっていました(笑)。そこからお二人で外食に行かれていました。

 監督は亡くなる前まで、かなりの大食漢でした。元プロ野球選手として量を食べることもあるかもしれませんが、幼少時代はかなり苦労したと聞きます。食べることは、すなわち生きることだったのかもしれませんね。

【現場復帰に最後まで意欲】

── 2009年シーズンを最後に楽天の監督を退任されましたが、その後も現場復帰に意欲を見せていたと聞きました。

小島 2011年、12年の頃は、「DeNAあたりが監督に呼んでくれないかな」と冗談っぽく言っていました。また高津臣吾さんがヤクルトの監督に就任した2020年のOB会で「高津監督、ヘッドコーチの御用はありませんか」と言っていたくらいです。

その1カ月後に亡くなられるのですが、じつは初めてのOB会出席。いま考えれば、ヤクルトの教え子たちに別れを告げようとしていたのかもしれないですね。

── 監督のお話は「野球の技術モノ」「指導者論」「選手批評」の3つに大別されますね。

小島 関連の著書は、ゆうに100冊を超えます。最盛期は1週間に2冊発売。さすがに多く、書籍同士が「食い合い」をしていました。

以降、1カ月に1冊とか、同じ分野の書籍は間をあけるなど、調整させていただきました。

 試合の解説はともかく、新聞、雑誌、書籍の仕事は、当日何の取材なのか、監督自身は把握していなかったと思います。各インタビュアーが似たような質問をするのに伴って、似たような答えをする時もありました。監督が直接修正を入れた校正用紙の文字を見て、「野村監督が直筆で修正してくれた。しかも達筆だ」と喜んでいる編集者の方もいましたね。

── 有名な言葉に「俺は野に咲く月見草」という言葉があります。実際のところ、王貞治さん、長嶋茂雄さんの"ON"との交流はいかがだったのでしょうか。

小島 「現役時代は王貞治がライバル、監督時代は長嶋と戦った」と言っていました。とくに90年代のヤクルト対巨人戦は、長嶋茂雄監督との「因縁対決」と言われていました。しかし、本当は長嶋さんを好きだというか、ずっと気になっていたようですね。

 長嶋さんは立教大からプロに進む際、当初は南海(現ソフトバンク)入りが濃厚でした。それが一転、巨人入りになって、国鉄(現ヤクルト)とのデビュー戦で金田正一さんに4打席4三振。その当時のことを語ったことがありました。

── どんなことを言っておられたのですか。

小島 「あの時は、せっかく手に入れた4番の座を、同い年の新人に奪われると思った。そして開幕デビュー戦での4三振は、すべて"空振り三振"だったところに長嶋のすごさがある。普通なら金田さんの速球に圧倒されて、見逃し三振するはずなのに」と。ことあるごとに長嶋さんのことを口に出していたのは、"好きの裏返し"だったのではないでしょうか。

── 小島さんが知る「素顔の野村監督」とは?

小島 楽天の監督を退任した頃から、日本野球界の衰退を憂いてボヤいていましたね。「1回から9回まで、来た球を打つだけではダメなんだ。何を考えて野球をやっているのか」と。最後まで野球を愛し、プロ野球界のことを気になされていました。

 亡くなられた年は、ヤクルト・高津臣吾監督、阪神・矢野燿大監督、西武・辻発彦監督、日本ハム・栗山英樹監督、楽天・三木肇監督ら、監督の教え子たちが、監督として野村野球を継承していました。その後も、楽天・石井一久監督、日本ハム・新庄剛志監督、そして今年はロッテに吉井理人監督が就任します。「人を遺すは上」──野村監督は言葉どおり、プロ野球界に人を遺しました。