野球人生を変えた名将の言動(11)

梨田昌孝が語る西本幸雄 中編

(前編:西本幸雄の「闘将伝説」 背が高い選手には「ジャンプしながらビンタしていた」>>)

 梨田昌孝氏に聞く西本幸雄監督とのエピソード。その中編では、広岡達朗氏が評価した育成力や、「江夏の21球」が今なお語り継がれる1979年の広島との日本シリーズ第7戦について聞いた。

梨田昌孝が振り返る「江夏の21球」無死満塁になって西本幸雄監...の画像はこちら >>

【西本監督の指導の特徴】

――西本さんはグラブを持って直接指導をしたり、ノックをしたりしていたんですか?

梨田 阪急の監督だった時代はわかりませんが、守備面のそういった指導は近鉄では一切やっていなかったです。ただ、打撃面の指導に関しては、「へそを中心に打つんや」とよく言っていました。

 私は若い頃、バントがあまり得意ではなかったのですが、ある試合で失敗したら、「すぐに直さないといかん」と、翌日に西本さんと室内練習場でひたすらバントの練習ですよ。西本さんがボールを投げてくれて、40分くらいずっと練習をしました。

 普段から選手たちの練習をよく見る方で、練習が終わってからの特打ちなども最後まで見ていました。休むことなく、ずっとグラウンドに立っていましたよ。

――ちなみに、西武黄金時代の礎を築いた元西武監督の広岡達朗さんは、西本監督の育成力を評価し、「プロ野球史上最高の監督」と絶賛されています。



梨田 愛情もあるし、厳しさもあるし、「絶対にこのチームを強くしてやる」「この選手をなんとか育ててやりたい」という情熱がものすごく伝わってきました。

 あと、「どこに目がついているのかな?」と思うこともよくありました。顔も体もバックスクリーンのほうを向いているのに、一塁側や三塁側のゲージ内でやっているマシンでのバッティング練習も細かく見ているんです。絶対に見てないだろうと思っていると、「なんだ、そのバッティングは!」と怒られる。ビックリしましたよ。360度と言ったらオーバーですけど、本当にそのくらい見えているような感じでしたから。

――グラウンドにいる選手全員を隈なく見ていた?

梨田 そうですね。選手、あるいはコーチもそうでしょうけど、本当に油断も隙もなかった。食事時間も15分ぐらいしかなくて短かったですが、「弱いチームなんだから休憩なんかいらない」と言っていましたね。

――広岡さんは"管理野球"の一環として、食事の管理に関しても徹底されていたようですが、西本監督はどうでしたか?

梨田 広岡さんは確かにそうでしたね。広岡さんがヤクルトか西武、どちらの監督をされていた時かは忘れてしまったのですが、一緒に食事をしたことがあって。その際に広岡さんはお酒も飲んでいたし、普通にお肉も食べていたので「選手の食事には厳しいですよね?」と聞いたら、「選手は当たり前だよ。

僕はもう監督だから関係ないんだ」と笑っていました。

 それに対して西本さんは、食事のことに関しては特に何も言いませんでした。今と違って、当時は「これって栄養になるの?」という食べ物も多かったですし、まだ栄養学も浸透していなかったですからね。キャンプや遠征では、鍋物が多かったかな。

――先ほど、グラウンドにいる選手全員を隈なく見ているという話がありましたが、ブルペンでも同じでしたか?

梨田 私が監督をやるようになって数年経った頃に、野村克也さんから「ナシはピッチャーって気にならないか?」と聞かれたことがあって。私が「気になりますね」と答えたら「そうだよな。
でも、西本さんは全然ブルペンに行かないぞ」という話になって。その通りで、西本さんはキャンプの時も含めて本当にブルペンには行かないんですよ。なぜかというと、本人曰く「見てもわからんから」と(笑)。野手は寸分の隙もないくらい見ていましたけど、ピッチャーはコーチに任せるスタンスでした。

【日本一を逃した「江夏の21球」の瞬間】

――西本監督といえば、1979年の広島との日本シリーズ第7戦が印象深いシーンのひとつです。3-4と近鉄の1点ビハインドで迎えた9回裏の攻撃。

7回から広島のマウンドを託されていた江夏豊さんを無死満塁と攻めたて、球団初の日本一に迫っていました。その後、「江夏の21球」と語り継がれる場面が訪れるわけですが、その時の西本監督の様子はいかがでしたか?

梨田 私は西本さんの斜め後ろくらいにいたのですが、無死満塁になった瞬間は「よしっ!」という感じで、笑ったとまではいかなくても、表情がふっと緩んだように見えました。それはかすかに記憶にあります。

――球団としても西本さんご自身としても初の日本一が迫り、「勝てるかもしれない」という思いがあったんでしょうね。

梨田 そう感じましたね。いつも難しい顔をされている西本さんがそういう表情を見せることは、まずないので。


――広島ベンチも動き、池谷公二郎さんと北別府学さんがブルペンに向かいました。その時に江夏さんが怒っていたということはよく知られていますが、近鉄ベンチからはどう見えましたか?

梨田 「なんで俺が投げているのに、ブルペンは次のピッチャーを用意するんや」と言わんばかりに、カリカリ怒っていました。でも、それがきっかけで江夏さんの闘争心に火がついたような気がしましたね。ファーストを守っていた衣笠祥雄さんがいいタイミングで声を掛けにいって、冷静さを取り戻したようにも見えました。

――その後、近鉄の代打・佐々木恭介さんが三振して一死満塁。西本監督は、次の石渡茂さんにスクイズのサインを出しましたが、空振りでスクイズ失敗。三塁ランナーが三本間に挟まれてタッチアウト。その後、石渡さんは三振し試合終了となりました。

梨田 石渡さんが打席に入った時、私は「スクイズのサインは出さないほうがいい」と思っていました。石渡さんはあまりバントが得意ではなく、満塁でのスクイズは難しいんです。三塁ランナーの藤瀬史朗は足が速かったですが、スタートがよすぎて察知されてしまった。あれならホームスチールのほうがよかった、と思えるくらいのいいスタートでした。

――あと一歩のところで日本一を逃してしまいましたが、試合後に西本監督は何か話をしましたか?

梨田 いや、何もなかったですね。一番悔しかったのは西本さんでしょうし。初めて監督に就任した大毎時代の大洋との日本シリーズ(1960年)も、第2戦でのスクイズの失敗が響いて日本一を逃していますしね。結局は(大毎、阪急、近鉄で監督を歴任して)通算8回日本シリーズに出て、一度も日本一になれなかった。悲運といえば、悲運の監督なのかもしれません。

 阪急の監督時代に巨人と日本シリーズで対戦した時(1971年)は、1-0とリードした第3戦の9回で、長嶋茂雄さんが二死一塁から打ったボテボテのゴロをショートが捕れずにヒットになり、その後に王貞治さんが逆転サヨナラ3ランを打って負けた。当時の私は高校生でしたが、ラジオの放送を夢中で聞いていました。

――西本さんの歴史を知っていると、日本シリーズでどうしても勝たせてあげたいという気持ちが、梨田さんにもあった?

梨田 そういう気持ちは強かったです。「歴史は繰り返す」と言いますが、スクイズ失敗での敗戦はショックでしたね。引退後、ゴルフで西本さんとご一緒させていただく機会がけっこうあったんですが、日本シリーズのスクイズのことは話題にできませんでした。西本さんから話を振られることもなかったですね。

――常に「日本一になる」という目標があったからこそ、西本さんは"闘将"であり続けたのかもしれませんね。

梨田 そうですね。選手を集めて檄を飛ばすことはほとんどなく、広島との日本シリーズでもみんなの前で何かを話すことはありませんでしたし。ただ、試合では常に先頭に立ってくれて、抗議もすごかった。「選手を守る」という意味もあったと思いますが、試合を放棄してしまいそうな剣幕でしたし、すごい闘志だなと。とにかく勝利への執念がすごかったですね。

(後編:目指した監督像は、西本幸雄と仰木彬の「いい部分を融合させた形」だった>>)

【プロフィール】
梨田昌孝(なしだ・まさたか)

1953年、島根県生まれ。1972年ドラフト2位で近鉄バファローズに入団。強肩捕手として活躍し、独特の「こんにゃく打法」で人気を博す。現役時代はリーグ優勝2 回を経験し、ベストナイン3回、ゴールデングラブ賞4回を受賞した。1988年に現役引退。2000年から2004年まで近鉄の最後の監督として指揮を執り、2001年にはチームをリーグ優勝へと導いた。2008年から2011年は北海道日本ハムファイターズの監督を務め、2009年にリーグ優勝を果たす。2013年にはWBC 日本代表野手総合コーチを務め、2016年に東北楽天ゴールデンイーグルスの監督に就任。2017年シーズンはクライマックスシリーズに進出している。3球団での監督通算成績は805勝776敗。