野球人生を変えた名将の言動(12)

末次利光が語る川上哲治 後編

(中編:末次利光が思うV9達成の価値 後期には「バッターとランナーでお互いにサインを出していた」>>)

 末次利光氏に聞く川上哲治監督とのエピソード。後編では、ON(王貞治長嶋茂雄)の後ろを打っていたバッターしか体験できない感覚、川上監督が実践していた野球の印象とその偉大さなどを聞いた。

巨人V9時代に王・長嶋の後ろを打った末次利光が語る「最高」と...の画像はこちら >>

【ONの後ろを打つ打者ならではの喜びと落胆】

――巨人のV9時代、末次さんは3番の王さん、4番の長嶋さんの後ろの5番を打つことが多かったと思いますが、どういう気持ちで打席に入っていましたか?

末次利光(以下:末次) 王さんも長嶋さんも偉大すぎる存在でしたから、あまり意識することはなく、「自分が出せる力を最大限に出そう」と集中して打席に入っていました。王さんや長嶋さんがフォアボールなどで出塁した時は、「スエ! 頼むぞ!」とか声をかけてくれましたね。

――末次さんのバットで王さんや長嶋さんを本塁に還す場面も多かったと思います。

末次 それができた時は爽快でしたよ。2人の後ろを打つ経験をした選手は、私を含めて少ないと思うので(笑)。ただ、逆に2人が出塁して僕が打てなかった時もあった。

 当時のお客さんは、今みたいにトランペットや太鼓を使った応援ではなく、今のメジャーと一緒で手拍子と声かけでした。

2人を塁に置いてポーンっと平凡なフライなどを打ち上げようものなら、球場全体がため息に包まれるんです。今では想像がつかないと思いますが、当時の球場はそういう雰囲気でしたから、打った時は最高ですけど打てなかった時は最悪でした。

 もっとキツかったのは、王さん、長嶋さんがホームランを打った直後の自分の打席です。2人のホームランでワーッと球場が沸いて、歓声が静まらないうちに僕がショートゴロとかセカンドゴロなど凡退をした時は、ベンチにトコトコと帰るのがものすごく寂しかったですよ(笑)。余韻が残っているうちに、僕の打席がどさくさにまぎれて終わっちゃっている。それだけ、2人が打った時の球場の熱気がすごかったということです。

――王さんや長嶋さんをはじめ、劇的な一打があった場合、川上さんは喜びを表に出す方でしたか?

末次 喜怒哀楽はあまり表に出さなかったですし、大逆転などをしても騒ぐ監督ではなかったです。

【川上監督の野球は"執念"】

――(インタビューの前編で)川上さんの練習に対する厳しさや妥協を許さない姿勢をお聞きしていると、近鉄や阪急で監督をされた西本幸雄さんと似ている部分もあるのではないかと思いましたが、いかがですか?

末次 似たようなところはあるんじゃないですか。ただ、川上さんの場合は"鉄拳制裁"はなかったです。怠慢プレーに対しては厳しかったですけどね。

――どう厳しかったのですか?

末次 怠慢プレーをしたら、罰金を取られました(笑)。それに試合で使ってもらえなくなりますし......。川上さんから何も言われなくても、「あぁ、これは怒っているんだな」とわかりましたね。

――野村克也さんのように、ベンチの中でぼやいたりすることはなかったですか?

末次 そういうことはなかったですね。野村さんは特別ですよ(笑)。南海と日本シリーズで対戦した時は、僕らがバッターボックスに立っている時に後ろで随分とぼやいていましたけどね。本当によく喋る人だなと(笑)。「末次は投げてくるボールがわかってるもんな」とか、ブツブツ言ってくるんですけど、それに乗っちゃダメなんです。

――野村さんが監督とした野球は"ID野球"と形容されますが、川上監督の野球をひと言で表現するとすれば?

末次 シンプルな言葉ですけど、"執念"でしょうね。

もしくは"徹底"とか、そういう言葉が合うんじゃないかなと思います。中途半端なことは絶対にダメでしたから。守備では「球際の強さを養え」を指摘されることが多かったのですが、例えばライトを守っていたとしたら、ライト線の打球はクッションボールを待つのではなく、「フェンスに当たる前に捕ってセカンドに投げろ」といった指導もそう。戦術の徹底もそうですし、すべてにおいて妥協しない方でした。

【あらためて感じる川上哲治の偉大さ】

――川上さんが監督をやめられた後にお会いする機会もあったと思いますが、監督をされていた時の印象とは違いましたか?

末次 違いましたね。監督をされている時は最も尊敬する方であり、師匠であり、地元の大先輩という感じでしたけど、やめられた後にお会いした時はい"いオヤジさん"でしたよ。

 ただ、お会いするとしても、会食などで年に1回ぐらいでしたね。たまにゴルフコンペでご一緒させていただいた時は打ち解けた感じでお話ができましたが、野球のことは話しませんでした。

――地元が同じということで、可愛がられていた?

末次 普通はそう思いますよね? それが、逆に厳しかったんです。打撃指導を受ける時も、ほかの選手より厳しくされていた部分があったのかもしれません。ただ、僕も地元の後輩が同じチームにいたら、やっぱり厳しくなるんじゃないかなと思いますけどね(笑)。

――末次さんは引退後、巨人で一軍や二軍の打撃コーチ、二軍監督などを歴任されていますが、川上監督の教えが生かされることはありましたか?

末次 僕らが川上さんから教えていただいた時と同じように、何事も"徹底"を意識して取り組んでいましたね。

原辰徳も自分がコーチになってから入ってきた選手ですが、「中途半端ではなく、最後まで徹底してやり抜くことの大切さ」を伝えていました。

――末次さんは「野球の教え方がうまい」という評判をよく耳にします。

末次 いやいや、普通ですよ(笑)。教えるといえば、数年前まで子供たちを対象とした野球スクールを宮崎と熊本で続けていたのですが、コロナ禍で中止になってしまったのが残念で仕方がなくて......。子供たちに野球をしっかり教えて、いいプレーヤーになってくれたらいいな、という思いで取り組んでいたので悔しかったですね。

――ここまで、川上さんが球界に遺されたものをいろいろとお聞きしましたが、巨人だけでなく、野球界にとっていかに大きな存在であったかをあらためて実感します。

末次 川上さんの存在は、野球界にとって非常に大きかったと思います。2013年に亡くなられて、もう10年になるんですね。当時、東京ドームホテルで「お別れの会」があり、各界の著名な方々が1000人近く来られたのですが、その光景を目の当たりにした時にあらためて「偉大な方だな」と思いました。地元の熊本県人吉市で行なわれた追悼の式典でも、九州の各県から重鎮の方々が訪れていましたね。

――末次さんにとって、川上監督との出会いはターニングポイントになりましたか?

末次 私の人生のすべてを変えてくれた方です。僕が物心ついた時から"神様"のような存在でしたけど、今でもそれは変わりません。

【プロフィール】
末次利光(すえつぐ・としみつ)

1942年3月2日、熊本・人吉市出身。鎮西高、中央大を経て、1965年から13年間巨人でプレー。川上哲治監督が率いるV9時代に、長嶋茂雄、王貞治と共に5番打者としてクリーンナップを形成した。1971年には日本シリーズMVP、1974年にはリーグ4位の打率.316を残してベストナインにも選ばれている。1977年に引退後は巨人の2軍監督、スカウト、編成部長などを歴任した。