連載「斎藤佑樹野球の旅~ハンカチ王子の告白」第45回

 2013年10月2日の札幌ドーム。右肩の痛みが癒えたプロ3年目の斎藤佑樹はようやく一軍のマウンドに上がった。

このシーズン、初先発の相手はバファローズ。しかし、斎藤は二軍戦でも思うような結果を残せずにいた。二軍で残した数字は1勝3敗、防御率8.61。つまり、結果を残しての一軍昇格とは言い難い状況だった。

斎藤佑樹のプロ3年目、試行錯誤のなか巡ってきた一軍登板 復活...の画像はこちら >>

【一軍で投げられる力はなかった】

 夏から秋にかけて一軍には上がれませんでしたが、右肩の痛みはほぼ出ていませんでした。ただ怖さがあったせいか、いろんなところが緊張していたんでしょうね......痛みではなかったものの、張りはすごくありました。

 右肩には痛みの記憶が残っていますから、どうしても痛みが再発しないよう、変なところに力が入っちゃうんです。

(肩関節に負荷がかからないよう肩甲骨の位置を正しくキープするための)僧帽筋の上部もまったく効かせないというわけにはいかないので、肩周りの筋肉もどうしたって緊張するし、怖さと、もう一歩踏み出さなくちゃいけない勇気を振り絞るのと、行ったり来たりしながら二軍で投げていました。

 あのシーズンは僕自身、一軍で投げられるような力はなかったと思っています。最後のバファローズ戦に先発させてもらったのも、栗山(英樹)監督、吉井(理人、当時のピッチングコーチ)さんが、肩を痛めて復帰を目指す僕に、この時期、一度でも一軍で投げさせておけば、今の自分がどの位置にいるのかということを推し量れるんじゃないかと考えてくれたからだったと思います。

 栗山監督は「一軍で投げないと、思いきり力めと言ってもなかなか力めない」「力んだ時に肩にどのくらいの負担がかかるのか、それを見極めていかないと回復ぶりがわからない」と言ってくれました。一軍のマウンドでメチャクチャ力んで、それでも変な痛みが出ないことがスタートになる......そういうことだったと思います。

 でも、あの時の僕は力んじゃダメだということばかりを考えていました。

初先発の前(9月27日、横須賀)のベイスターズとの二軍戦では、力を抜くために意図していたフォームが少し身についてきた感覚がありました。その前に打たれた試合のビデオを見たら、やっぱり力んでしまっていたし、練習ではうまくいくのにバッターが打席に立つとうまくいかなくなる失敗を繰り返していたんです。三振をとろうとすると、ボールに力を込めようと力んでしまいます。

 だからこそ、力を抜くことを前提に組み立てたフォームで投げなければ、と思っていました。真っすぐで三振をとろうということを意識しすぎない、コントロールも意識しすぎない、こういうフォームで投げようということも意識しない。とにかく、力を抜くことだけ。

僕はそんなふうに考えて、10月の一軍のマウンドに上がっていました。

【初球に想定外の141キロ】

 久しぶり(335日ぶり)に一軍のバッターに投げました。1番は平野(恵一)さんでしたが、その初球、141キロが出たんです。アドレナリンが出たのかもしれませんし、力んでいるつもりはなくても力んでいたのかもしれません。

 ファームで投げる時のように力を抜いて投げることを目指していましたが、それでは力のあるボールが投げられないと思っちゃって、どうしても力が入ってしまいます。栗山監督は怖さを拭い去るために力んで投げることが復帰へのスタート地点だと言ってくれましたが、僕は力を抜かなきゃと思っていましたから、正直、あの141キロには戸惑いました。

 もともと力を入れずに投げたら強いボールは投げられないという意識が染みついていますから、つい力を入れて投げてしまうクセがまた出てしまったのかと思いました。

力が入るとフォームがブレるし、肩に負担もかかります。僕はこのあともずっと、脱力して強いボールを投げる、という永遠のテーマと向き合っていたような気がします。

 この時のバファローズとの試合は5回途中、78球を投げて6失点で交代となりました。久しぶりでしたから緊張はしましたが、いい感じで試合に入れましたし、肩にも痛みは感じませんでした。

 でもコントロールが定まらず、フォアボール、デッドボールを与えたことがことごとく失点につながってしまいました。長打は打たれませんでしたが、高めに浮くボールが多く、ヒットとフォアボールの連鎖でランナーを溜めてタイムリーを打たれる、という悪循環です。

 不安もありましたし、肩の状態が回復してきてから思うように投げられない時期が長かったので、やっぱりか......という思いもありました。それでも栗山監督も吉井さんも僕のために一軍で投げる機会をつくってくれたので、何かのきっかけにしなければならないと考えていました。

 たしかに結果はよくありませんでしたが、受けていたキャッチャーの中嶋(聡)さんが「ベースを半分に割ると、右バッターのインサイドには力のあるボールが来るけど、アウトコースの球がまだ弱い」とアドバイスしてくれました。怖さがあるから最後まで腕を振り切れていないんじゃないか、と指摘してくれたんです。それは当時の僕の課題でした。

 バッターに向かっていく時、右バッターのインコースには抜けることなくボールを押し込める感覚があったんですが、アウトコースへ投げるためにボールを引っ張ってこようとすると、身体が我慢し切れずに開いてしまうんです。

そうすると、一点に集めるべき力がほどけてしまいます。肩への不安がなくなって腕を振ることへの怖さもなくなったら、アウトコースにも強い球が来るはずだ、と中嶋さんが言ってくれたのは励みになりました。

【わずか1試合の一軍登板で得た教訓】

 試合後には(武田)勝さんに食事に誘っていただきました。よくキャッチボールをしながら勝さんが僕に話してくれたのは「指にちゃんとかかったボールかどうかを大事にしたほうがいい」ということでした。「スピードもコントロールも大事だけど、まず指にちゃんとかかっているボールを増やしていったらいいんじゃないか」と言ってくれて、「俺ら、身体が大きくないんだから、身体が大きくて球が速い人を見るよりもキレとかコントロールで勝負する身体の大きくない人を見たほうがいい」って、そんなふうに話してくれました。

 指にかかったボールを投げるというのは難しいんです。タイミングが合わないと指にはちゃんとかからない。10メートルの距離で軽く投げるなら指にかけられるんです。でも18.44メートルの距離で身体全体を使って、8割以上の出力を出そうと思った途端、難しくなります。

 左足をドンッと着地する時、身体全体がブレーキとなって一瞬、止まります。その時、腕がしなって、腕が振られて、ボールを指先で切る。その時にはつま先から神経の信号が順に伝わって、パチンと指にかからなきゃいけないんです。その連動が僕はすごく下手でした。

 たぶん、高校の時にはそれができていたんだと思います。身体が元気な頃の感覚が残っていて、「高校の時はこんな感じで投げていたよな」とつい考えてしまいました。でも、ケガをしてからの自分はあの頃の自分じゃないんです。元に戻そうとするんじゃなくて、新しい自分をつくらなきゃいけなかった。そうやって腹を括るのに時間がかかってしまったというところに悔いはあります。本当はボールをここまで引っ張ってこられるはずなのに、肩が引っ張らせてくれない、だから指にかけられないんだ、なんて考えてしまっていました。

 それでもプロ3年目、1試合でも一軍で投げられたことは、その後に生きたと思っています。それは、まだこんなんじゃダメだと思えたことももちろんですが、スピード以前にキレもコントロールもまだまだなんだと思い知らされたことが大きかったと思います。

 ケガをして、ボールが速くなくなったと嘆く前に、磨けるところはいくらでもあった。キレとコントロール、変化球で抑えているピッチャーはいくらでもいるわけだし、僕がスコスコ打たれていたのはスピードだけの問題じゃない。思うように球速が出ない真っすぐでも、抑えて初めてピッチャーはスピードじゃないと言えるわけで、もっと指にかかるボールを増やして、キレもコントロールも変化球もよくしろよと、自分自身に言い聞かせようとしていました。

*     *     *     *     *

 一度だけの一軍のマウンドで、斎藤は力を入れずに強いボールを投げるという着地点をあらためて確認した。10月は宮崎でのフェニックス・リーグで投げて、プロ4年目に備える。そして2014年の名護キャンプ、最初の紅白戦で斎藤は先発ピッチャーに指名された。投げ合う相手はプロ2年目を迎える大谷翔平だった。

次回へ続く


斎藤佑樹(さいとう・ゆうき)/1988年6月6日、群馬県生まれ。早稲田実高では3年時に春夏連続して甲子園に出場。夏は決勝で駒大苫小牧との延長15回引き分け再試合の末に優勝。「ハンカチ王子」として一世を風靡する。高校卒業後は早稲田大に進学し、通算31勝をマーク。10年ドラフト1位で日本ハムに入団。1年目から6勝をマークし、2年目には開幕投手を任される。その後はたび重なるケガに悩まされ本来の投球ができず、21年に現役引退を発表。現在は「株式会社 斎藤佑樹」の代表取締役社長として野球の未来づくりを中心に精力的に活動している