九州国際大付・楠城祐介監督インタビュー(後編)
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九州国際大付(福岡)を率いる楠城祐介監督は、2023年8月に父・楠城徹さんのあとを受け、春夏通算12度の甲子園出場を誇る強豪校の指揮を執ることになった。ともにプロを経験した親子による監督継承は、全国的に見ても珍しい。
【右の長距離砲として注目】
小倉高--青学大--松下電器(現・パナソニック)、そしてプロと、その球歴は華々しい。ただ、1浪の末に入学した青学大時代にもがき、苦しんでいた。高市俊(元ヤクルト)や円谷英俊(元巨人)、大崎雄太朗(元西武)、横川史学(元楽天、巨人)ら同級生のレベルに追いつこうと、必死にスイングを繰り返すも、2年冬に左手有鉤骨を骨折。一時は野球を辞めることさえ考えた。
父は「いつでも辞めたらいい」と一度は突き放したが、「もしまだ野球に未練があるんだったら、体を鍛えたらどうだ」とアドバイスすることも忘れなかった。
「そこからボディビルダーの方にいろいろとレクチャーを受けて体を鍛え直しました。すると、骨折が治ったあとに一気に打球の飛距離が伸びて、そこから試合に使ってもらえるようになりました。本当に恵まれていましたね」
肉体改造の成果もあり、3年春からDHでスタメンを勝ち取ると、4年春は5番左翼に定着してチームの3連覇に貢献。同年秋には4番も任されるなど、大学通算4本塁打を放ち、プロからも注目される右の長距離砲へと成長を遂げた。
「プロになりたいというのは高校の時から漠然と思っていましたけど、もしかしたら手が届くところにあるかもしれないと思ったのは大学3年生の頃ですね。プロ志望届も提出しました」
ただ、ドラフト当日、同期の4人が指名されるのを横目に、自身の名前は最後まで呼ばれることはなかった。その後、一度は断りを入れていた社会人の松下電器が枠を空けて待ってくれていたことが判明。「本当に救ってもらいました」。

【楽天に5位で指名され入団】
松下電器では、野球選手の前に、社会人として学びを得るに十分な2年間だった。野球部員だからといって、特別扱いはなし。一般の新入社員と同じく、2週間ほどの研修をみっちりとこなした。配属部署には創業者である松下幸之助さんの「素直」という言葉が掲げられていた。
「高校生もそうですけど、素直な心を持っている選手のほうが成長しますよね。松下球場(現・パナソニックベースボールスタジアム)にも、松下政経塾(※)の『五誓』のなかで最初に挙げられている『素志貫徹の事』が掲げられており、自分の好きな言葉である『成功の要諦は成功するまで続けるところにある』が書いてあります。松下幸之助さんから受けた影響は大きいです」
※松下幸之助が1979年に設立した未来のリーダーを育成するための公益財団法人
アマチュア最高峰の大会である都市対抗にも2年連続で出場。2年目の2008年には、再びプロ注目の外野手として数球団が指名リストに挙げていた。そこには、父が編成部長を務めていた楽天も含まれていた。
「青学から先にプロに入った4人を追いかけたいという思いが強かったですね。父からは『自分と一緒のチームが嫌とかはあるか?』という確認はありました。父の息子に生まれた以上は、何を選択しても『親の七光り』と言われます。
そうして楽天からドラフト5位指名を受け、大学時代に手の届かなかったプロ入りを果たすことになる。
【プロ引退後、父の誘いでコーチに就任】
2年目の2010年に一軍に初昇格し、プロ初安打をマークするなど4試合に出場。翌2011年1月には結婚を発表し、勝負の3年目へ向けて意気込んでいた矢先に、東日本大震災が起こった。
「震災の時は教育リーグで浦和にいて、仙台に帰ることができたのは確か5月ぐらいでした。母がひとりで仙台にいたのですが、居酒屋さんの店主の方が母の面倒をいろいろと見てくださって、人の温かさや絆のようなものを強く感じることができました。震災が起こった3月11日には、自分が経験したことを生徒たちに伝えるようにはしています」
激動のなかで始まったシーズンは最後まで一軍に昇格することなく、オフに交換トレードでヤクルトへ移籍。2013年には二軍で打率.312、6本塁打を放ったが、小川淳司一軍監督(当時)から2年間で一度も声がかかることなく、戦力外通告を受けた。5年間でわずか1安打だった。
「楽天時代の3年間は監督が毎年変わり(野村克也監督、マーティ・ブラウン監督、星野仙一監督)、いろいろな指導者の野球を知ることができたという面では、すごくいい経験をさせてもらいました。情けない成績ではありますけど、高校、大学、社会人、プロとすべてのクラスを経験できたのは自分の強みかなと思っています」
現役引退後は父のようなスカウトになることを次なる目標に、野球塾を手伝っていた。しかし2016年、その父からお呼びがかかった。監督を務める九州国際大付の指導者が足りないので、コーチになってほしいという。
「埼玉に家を買っていたのですが、それを処分して福岡に引っ越しました。
同年春から故郷に戻り、九州国際大付のコーチとして父を支え始め、すぐに夏の甲子園へ出場。その後はなかなか結果が出なかったが、2022年に春夏連続出場、そして翌2023年に夏の福岡連覇を果たした。その時、父は72歳。夏前には勇退を決断し、甲子園でユニホームを脱いだ。
「父は70歳前後になった時に監督交代の話もちらほらありましたが、そこから怒濤のように勝ち始めて、息子ながらにやっぱりすごいなと思いました。今でも特別顧問として残り、中学生を見にいってくれたり、B戦の采配をしてくれたりと、支えてもらいっぱなしです」
【0を1にするのはすごく難しい】
その後、学校側から監督就任を要請され、一度は固辞するも、父から説得され、あとを引き継いだ。今年で2年目。今春の北九州市長杯では注目の二刀流1年生・岩見輝晟を外野で抜擢し、本塁打を放つなど投打がかみ合い、自身初の優勝タイトルを手に入れた。
「岩見は、持っているものは本当にすばらしいです。今の時点では3番を打たせるつもりで、バッティングが注目されていますが、投げても130キロ台後半が出ているので、3年時には150キロ近く出るようになるとは思います」
岩見は中学時代、ヤング志免レッドスピリッツ(福岡)で135キロをマークした188センチの長身左腕。全国の強豪約40校から勧誘を受けたが、九州国際大付に憧れ、地元から甲子園に出場する道を選択した。
今夏は背番号9でベンチ入り。
楠城監督はまだ甲子園出場の経験がない。父は九州国際大付を9年間率い、春夏5度の甲子園に導いた。その父を追う監督人生は、まだ始まったばかりだ。
「0を1にするのはすごく難しいなと感じています。まだ自分が監督になってから甲子園は0回で、それを1回にするのは相当なパワーが必要です。この夏は初戦から、まずは最初の1点を取ることを意識してやっていこうと選手たちには言っています。彼らが持っている力を発揮したら間違いなく優勝をつかめるところにありますので、どうやって1点を取るか、そしてその1点をどうやって守るかに注視しながら、一戦一戦、戦うごとに強くなっていきたいです」
真っ黒に日焼けした顔が、充実ぶりを物語る。今夏の福岡を制すれば、母校・小倉の最多10度に手が届く。41歳の若き指揮官は0を1にするために、選手を信じて2度目の夏に挑む。