超個性派集団・那覇高校の夏(後編)

 左投げのキャッチャーにサード、極端にかがんで構える「ダンゴムシ打法」など、セオリー度外視の個性的なスタイルで、2000年夏の沖縄大会を勝ち抜き、甲子園でも1勝を挙げた那覇高校。

 甲子園が終わり、沖縄に戻ると新チームが発足した。

新キャプテンとなった左投げのキャッチャー・長嶺勇也のもと「もう一度、甲子園へ」を合言葉に、チームの結束力は高まっていた。だが、その矢先、思いもよらぬ事態が野球部を襲った。

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【甲子園へと導いた監督の突然の解任】

「汚ねえなぁ」

 キャプテンの長嶺は校長室をあとにし、そう呟いた。

 甲子園が終わり、沖縄に帰ってきた那覇高校野球部はエースの成底和亮と長嶺の甲子園バッテリーが残ることから、新チームにも大きな期待が寄せられた。

 しかし、秋季大会は、長嶺の骨折など主力数名のケガによりベストメンバーが組めず、準決勝で宜野座高校に3対5で敗れ、翌年春の選抜への道は断たれた。さらに追い打ちをかけるように、監督の池村英樹が突然解任されたのだ。

「その年から沖縄水産で部長をしていた親川(聖)先生が来られていたので、学校側としては夏の大会が終わったら、親川先生に監督をやってもらうというのが既定路線だったようです。でも、池村さんで夏の甲子園に出場したからすぐに替えるわけにもいかず、秋季大会の結果を見て更迭したんです。せめて僕らの代だけは、最後の夏まで池村さんに監督をお願いしたいと、校長に何度もかけ合ったのですが......」

 長嶺は悔しさをにじませながらそう言った。

 2年生20人の意見をまとめて、キャプテンの長嶺は何度も校長に直談判し、「わかった」と返事をもらったが、現状は何も変わらず。業を煮やした長嶺は、ポケットにICレコーダーをしのばせて話し合いに行ったこともあった。

「秋季大会は骨折で試合には出場できなかったんですけど、ベンチから見ていてチームがまとまっているのが手に取るようにわかったんです。夏の県大会はベンチ入りするも、甲子園では外れた4人のメンバーは、大会期間中に洗濯やボール拾いしかしてないはずなのに、ものすごく上達しているんです。

いい意味で『オレたちは強い』と勘違いし、自信がみなぎっていました。甲子園の力というのを、まざまざと感じました」

【高校野球】「もう一度、甲子園へ」の希望が絶望に変わった日 伝説の超個性派集団・那覇高校に起きた悲劇
ダンゴムシ打法で甲子園を沸かせた比嘉忠志氏 photo by Matsunaga Takarin
 アップする際のTシャツもバラバラだったのが、誰からともなく「みんなで揃えようぜ」となり、自然と一致団結するようになっていた。選抜の道は断たれたが、「最後の夏はもう一度甲子園へ」と希望を膨らませていただけに、池村の解任の知らせはまさに夢を打ち砕かれたような衝撃だった。

【意地になって引くに引けない状態に】

 池村の指導法はじつに合理的であり、選手たちにとっては目からウロコの連続だった。トレーニングにしてもただ単調なことをやるのではなく、たとえば腹筋を鍛える場合はV字にほかの筋トレを組み合わせたりして、選手たちが飽きないように創意工夫されていた。

 また、シートバッティングや紅白戦で、ちょっとでもミスがあれば「どうしてそうしたの?」と常に疑問を投げかけた。どうしたら勝てるのかを選手たちで考える能力を養うため、プレッシャーをかけ続けたのだ。

 ベンチ入りメンバーを決める際には、長所を伸ばす野球を遂行するため一人ひとりと面談をして納得のもと、代打、守備、代走要員をつくっていった。前年夏の甲子園で注目を集めた「ダンゴムシ打法」の比嘉忠志が振り返る。

「部室で着替えてからグラウンドまで走っていくなかで、落ちているゴミを拾わないと怒られましたよね。よく見ているなぁと思いました。普段から注意深くすることで視野が広がるというか、集中力が増しますよね。監督が来たらピリッとします」

 グラウンドに緊張感を持たせることは、戦う集団にとって必要不可欠である。

池村は、強豪校に比べて技術や体力で劣る分、普段の生活からも厳しく叱咤することで集中力を養わせた。そんな池村を選手たちは「池さん」と慕い、長嶺もまた、自身の野球観を大きく変えてくれた池村に心酔していた。

「秋季大会は準決勝で、選抜に出場することになる宜野座に敗れましたが、(その前の)8月はほぼ甲子園で、新チームの始動はかなり遅れましたし、僕ともうひとりの主力がケガで欠場するなか、準決勝まで進んだんです。

 来年の夏までにはまだ時間があるし、しっかり練習を積めばもう一度甲子園に行けると思っていました。だからこそ、池村さんの監督復帰を強く望み、意地になって引くに引けない状態になっていったのかもしれません」

【高校野球】「もう一度、甲子園へ」の希望が絶望に変わった日 伝説の超個性派集団・那覇高校に起きた悲劇
左利きの三塁氏として活躍した金城佳晃氏 photo by Matsunaga Takarin
 周囲の目には"わがまま"と映るなか、時には練習をボイコットすることもあった。練習試合でもふてくされた態度で臨むなど、甲子園で見せたあの輝きはすっかり消え失せてしまった。

【ぞれぞれの思いが交錯しチームは空中分解】

 憤懣やるかたない思いを抱えた2年生全員は、話し合いのたびに泣きながら感情をぶつけ合った。最初こそ一致団結していたものの、学校側との交渉が長引くにつれて、次第に分裂していった。

 長嶺が言う。

「(練習のボイコットをしたものの、大学の)推薦のこともあるので、学校側を敵に回したくないという理由でチームに戻る者もいれば、成底のように『最後まで野球を続けたい』という強い思いから戻っていった者もいました。そうやってチームは次第に分裂していったんです」

 キャプテンとして20人の選手をひとつにまとめたい思いが強かっただけに、長嶺にはやるせない思いが募っていった。

 監督問題は年を越し、春頃まで紛糾した。

チームは空中分解のまま春季大会に出場し、エースの成底と長嶺のバッテリーはもはや修復不能の状態だった。準決勝の浦添商戦では長嶺のパスボールが決勝点となり、0対1で敗れた。

 左投げのサードの金城佳晃が、当時を振り返り切々と話してくれた。

「僕自身も理屈っぽくて生意気なところがあったので、長嶺と一緒に最後まで学校側と戦いました。最初は『指導できる学校の先生を監督にする』という理由で池村さんを解任したはずなのに、時々教えてくれていたOBの方が監督に就任したんです。

 だったら『最初から池村さんを辞めさせる必要があったのか』という話になりますよね。どうしても納得できませんでした。結局は学校側の都合に振り回されてしまった感じで、最終的には(チームに)残ることになったんですけど......」

 金城はそれ以上、話すことはなかった。

【高校野球】「もう一度、甲子園へ」の希望が絶望に変わった日 伝説の超個性派集団・那覇高校に起きた悲劇
高校3年夏の大会前に退部したと語る長嶺勇也氏 photo by Matsunaga Takarin
【最後の夏の大会前に退部】

 そして長嶺は、秋季大会以降の記憶がないという。

「(学校側に抗議して、練習ボイコットなどをしていたのは)結局、最後は3名になってしまい、(金城)佳晃は池村さんからの『やめるな』という言葉で戻っていきました。僕も言われたのですが、バッテリー間で全然うまくいかないこともあって、夏の大会前に辞めました」

 高校2年夏に主力として甲子園に出場し、複数ヒットを放った男が最後の夏の大会前に退部したのだ。

 18歳の少年にとって、先頭に立って周囲との軋轢を抱えながらも義を貫き、学校側と戦った日々は、ストレスとプレッシャーに満ちていたに違いない。

人間は必要以上に神経と力をすり減らすと、その期間の記憶が真っ白になってしまうことがある。いわば自浄作用だ。

 それほどまでに、長嶺にとって高校2年の秋から高校3年の夏までの9カ月間は、学校組織の理不尽さとやるせなさを全身で体験する日々であり、どれほど声を枯らして咆哮を上げたかったことだろう

「最後の夏の試合は、バックネット裏で見ました」という長嶺に、それは元キャプテンとしての責任感からなのかと問うと、「どんな感じの試合をするのかなという......」と、そこから言葉が途切れた。これ以上、聞くのをやめた。

 那覇は1回戦で、前年の決勝で戦った沖縄水産と対戦し、2対3で敗れてあっけなく夏を終えた。

 その後、池村はおかやま山陽高校の監督に就任したが、体罰指導で保護者から訴えられ高校野球界から事実上、追放の身となる。そして43歳の若さで鬼籍に入った。

 最後に、高校3年の夏を前に退部したことについて悔いはなかったのかと長嶺に尋ねると、ほんの一瞬だけ目線を遠くに向けたかと思うとすぐに戻し、はっきりした口調でこう言った。

「ないです。行動が正しかったのか、正しくなかったのかはわかりませんが、後悔はありません」

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