甲子園優勝から41年~取手二の背番号9の控え左腕が語る「奇跡の夏」(前編)
1924年の開場以来、甲子園に60年ぶり「甲子(きのえね)」の年が巡ってきた1984年は、スコアボードが電光式にリニューアルされるなど、近代化が推し進められてきた。
ただ、当時の高校野球はまだ旧態依然としており、投手は先発完投がトレンド。
【ルーティンを忘れて試合に没頭】
あの夏の甲子園決勝。名将と名高い木内幸男率いる取手二(茨城)は、桑田真澄(元巨人など)、清原和博(元西武など)の2年生「KKコンビ」を擁して大会連覇を狙うPL 学園(大阪)に対し、4対3とリードして9回裏を迎えた。茨城県勢初の全国制覇が、目前まで迫っている。
この日、背番号9の控え左腕・柏葉勝己は、ベンチから戦況を見つめていた。木内からは試合前のミーティングで守備固めでの出番を伝えられていたが、先発のエース石田文樹(元大洋)をいつでもリリーフできるよう、初回、3回、5回と1回おきにブルペンで肩をつくっていた。
「木内さんはアピールしないと使ってくれないので、控えの時はいつもそういう形でやらせてもらっていました」
ただ、試合は大方の予想に反し、5回を終わった時点で2対0。7回表には主将の吉田剛が2ランを放ち、4対1と3点をリードした。柏葉の脳裏には「優勝」の2文字がちらつき始めた。
「自分の心の中で『勝てる』と思ってしまいました。流れってあるじゃないですか。試合を見るのに没頭してしまい、5回以降は自分がこれまでやってきたルーティンをやっていないんです」
8回裏に2点を返されても、石田が最後まで投げきって勝つと信じ込んでいた。
「柏葉、用意しろ!」
その甲高い声に、ハッと我に返ってベンチから腰を上げた。誰もが「逆転のPL」に期待した甲子園は、異様な雰囲気に包まれていた。
【木内監督に叩き込まれた幻惑投法】
柏葉は1981年の中学3年時、夏の甲子園を戦う取手二をスタンドから応援していた。OB会のバスに同乗して車中泊、京都散策を経て、外野席から入場した。その時、眼下に広がった聖地の景色は、一生忘れることはないと語る。
「『こんなところで野球するんだ、すげぇな!』という感じでしたね。今だから対戦相手は鎮西(熊本)だったと言えますが、当時はもう甲子園に行けるという喜びのほうが大きかったですね」
その時、鎮西には1対2で敗れたが、3年後の夏に準決勝で再戦。先発マウンドに立ったのは柏葉だった。3回途中で降板も、打線が爆発して18対6と圧勝。先輩たちの雪辱を果たしている。
取手二に入学後は、左投手が希少だったということもあり、毎日のように打撃投手を務めた。対照的に、1年春からベンチ入りした石田には、エースと呼べるにふさわしい「特権」が与えられていた。
「石田は毎日打撃投手をやることはなかったです。さらに毎日新しいボールをおろして投球練習をやるんです。自分にはそれはありませんでした。毎日45分から1時間は打撃投手をやっていましたね」
柏葉の高校3年間の最速は122キロ。木内は、球速を期待できない左腕に、変幻自在の「幻惑投法」を伝授した。
「基本はオーバースローなのですが、サイドやアンダー、クイックでも投げていました。当時は巨人の角三男(現・盈男)投手がスリークオーター気味で投げて抑えていた時代でした」
打撃投手でアピールを続けた甲斐もあり、1年夏から石田とともにベンチ入り。2年春の選抜こそベンチ外も、同年秋には右翼と控え投手を兼任した。「先輩が抜けて、石田と2枚看板のようなイメージはあった」と言うが、茨城1位で出場した関東大会では、石田が全4試合完投勝利で初優勝。マウンドに上がることはなかった。
「秋の大会後に、木内さんから控え投手の自分と岡田(英治)が呼ばれて、『おまえらは選抜で登板はないから』と言われました。ただ、石田が年明けから右肩の調子が思わしくなく、何とか支えていけたらと思っていました」

【練習中に打球が頭部を直撃し入院】
関東王者で迎えた1984年春の選抜。
ただ、2回戦の徳島商戦を控えた練習中、打撃投手を務めた際に打球が頭部を直撃し、救急車で運ばれ入院。同戦は頭に包帯を巻いた状態でアルプスから勝利を見届けた。
「(準々決勝の)岩倉(東京)戦は、試合前に医務室で許可が下りて、ライトでスタメン出場して9回に安打を放ちましたが、3対4とあと一歩及びませんでした」
選抜を8強で終え、最後の夏を1カ月前に控えた6月。取手二は茨城にPL学園を迎え、招待試合を戦った。結果は0対13の大敗。清原にバックスクリーンへ特大の一発を浴び、桑田には1安打完封を許すなど、完膚なきまでに叩きのめされた。途中登板の柏葉も清原に2安打されるなど、散々な内容だった。
「やっぱりマウンドで投げていれば打ち取りたいという気持ちは誰もが持っていると思いますが、清原には2打席とも打たれてやっぱりすごいなと感じました。最後は投手がいなくなり、ショートの吉田が投げて、PLの選手に死球を当ててしまい救急車が来ました」
その2カ月後。柏葉はそのPLを相手に甲子園決勝の大舞台、しかも9回の優勝を左右する場面でマウンドに上がることになる。
つづく