ダイヤの原石の記憶~プロ野球選手のアマチュア時代
第8回 大野雄大(中日)

 もう15年も前の話になる。関西ローカルのあるテレビ番組のロケで、我が家にお笑い芸人のブラックマヨネーズのふたりが来たことがあった。

収録の合間、それまで笑いを取り続けていた吉田敬が何かの拍子で、出身中学の話題を切り出した。

「京都の藤森(ふじのもり)中学って言うんですけど、卒業生に有名人が3人いて、ひとりは倖田來未、もうひとりがサッカーの松井大輔、そしてオレ。なかなかすごくないですか?」

 たしかに......と頷きながら、別の理由で藤森中学の名に反応していた。なぜなら、当時ドラフト候補として頻繁に取材していた佛教大のエース・大野雄大もそこの中学出身と知っていたからだ。

 そこで吉田に「今度のドラフトで、間違いなくプロに行く大野雄大というピッチャーも藤森中学です。必ずプロで活躍しますので、ぜひ覚えておいてください」と強く推薦した。

 しばらくして大野にそのことを伝えると、大いに喜び、ふたりに書いてもらったサインボールを持参していたところ、その横にマジックで"大野雄大"と大きく書き込んだ。「藤森中学4人目の有名人になります!」と宣言し、"ブラマヨさん、よろしくお願いします!"のひと言も書き加えた。

 こうして完成したなんとも豪華なサインボールは、今も我が家のリビングに飾られており、ふとした時に眺めると、大野を追いかけていたあの頃の記憶が鮮明に蘇ってくる。

大野雄大の野球人生を変えた中学時代の6連続四球 「もう野球を...の画像はこちら >>

【本気でうまくなりたいと思えた】

 なかでも強く印象に残っているのが「僕の運命を変えた試合があるんです。これまでの野球人生で一番大きな試合です」と大野が語った試合のことだ。

 藤森中の2年春に行なわれたある練習試合。大野は3対0とリードで迎えた最終回にマウンドに上がった。

ところがストライクがまったく入らず、6者連続フォアボールで同点に追いつかれ降板となった。試合後、観戦に訪れていた母に「もう野球を辞めたい」と涙ながらに口にしたという。

「とにかく情けなくて、悔しくて......でも、あの時に本気でうまくなりたいと思えたから、変われたんです」

 それから毎晩、同級生と自宅近くの河川敷を走るようになった。野球だけでなく遊びにも一生懸命な大野ゆえに、母は「続かないだろう」と思っていたそうだが、その読みを見事に裏切り、その結果、1年後のある大会で無四球完封。その活躍が京都外大西の監督(当時)だった三原新二郎の目に留まり、大野の野球人生はさらに広がりを見せた。

「僕はいつも最初につまずいて、そこから『くそっ!』って這い上がっていくタイプ。うしろから、先を行っているヤツを追いかけるほうが燃えるんです」

【控え投手だった高校時代】

 京都外大西でも悔しさの連続だった。2年生の夏、チームは甲子園準優勝という大きな結果を残したが、脚光を浴びたのは1年生のリリーフ本田拓人で、背番号1を背負っていたのは大野の同級生の北岡繁一だった。

 また、優勝した駒大苫小牧では2年生の田中将大(現・巨人)が大活躍し、決勝戦も大野はベンチから見つめていただけで、登板のないままその夏は終わった。

 悔しさのなかで迎えた新チームの秋の大会。大野は京都大会で奮闘し、3位決定戦では15奪三振の快投でチームを近畿大会へと導いた。しかし、選抜出場をかけた近畿大会では、またしても登板なし。

 のちに「高校時代ではあの時が一番悔しかった。

やっぱり自分には信頼がないのかと......」と振り返った時期だ。

 冬には再びこの悔しさを力にし、厳しい練習に励み、翌春の選抜では先発を任されるも初戦敗退。

 最後の夏を迎えるにあたり、大野はブルペンで"10球連続ストライク""7球連続(右打者の)インロー"などノルマを課し、とにかく投げに投げた。

 そして迎えた京都大会。チームは順調に勝ち進み、準々決勝で京都すばると対戦した。その試合、大野は2点ビハインドの8回裏から登板。劣勢のなか、大野は雄叫びを上げながら力投すると、その気迫がナインにも伝わり、9回表に打線が爆発し逆転。2年秋から監督を務めていた上羽功晃が「高校時代の大野のベストピッチ」と評した投球で勝利をもぎとった。

 しかし、このまますんなり甲子園出場とならないところが大野である。準決勝の福知山成美戦で先発を任され好調な滑り出しを見せていたが、5回に一発を浴び、これが決勝点となり敗退。大野の高校野球生活は終わった。

【まさかの日本代表落選】

 そんな大野の秘めたる素質が開花したのは、佛教大に進んでから。主戦となったのは3年春からだが、京滋リーグ通算18勝1敗という驚異的な数字を残した。

なかでも4年春の大学選手権では、日米100人を超えるスカウトが見つめるなか、東北福祉大戦で自己最速の151キロをマークし完封勝利。誰もが認めるドラフト1位候補となった。

 だが、大野の挫折は続く。当時、早稲田大の斎藤佑樹(元日本ハム)、大石達也(元西武)、中央大の澤村拓一(現・ロッテ)とともに 「BIG4」と称され、選出確実と思われていた世界大会の日本代表メンバーにまさかの落選。知らせを受けると、ショックのあまり泣き崩れた。

 これまで数多くのドラフト候補と接してきたが、人間的な魅力で言えば、大野がダントツだ。雑談中、大野はよくこんなことを言っていた。

「僕は野球と同じぐらい、それ以外の時間も一生懸命過ごしたいんです。遊びやバイトをはじめ、学生生活を楽しんで、野球も目一杯やりたいんです」

 事実、大学3年でドラフト候補と騒がれ始めた時も、まだ週に2~3度は深夜のガソリンスタンドでアルバイトを続けていた。「こんなドラフト候補、あまりいませんか?」と聞かれたことがあったが、ドラフト1位クラスの選手がアルバイトに精を出しているという話は、ほとんど聞いたことがない。女手ひとつで育ててくれた母に負担をかけたくないとの思いも強く、「自分で遊ぶ金は自分で稼ぐ」と胸を張っていた。

 ドラフトを目前に控えた4年秋のシーズンは、左肩の違和感から試合で投げることができなかった。

さすがにショックは大きく、「野球に対する取り組みが甘かった......」と口にしていたが、それが事実だとしても、それも含めて大野の魅力だと思えた。

【校内で評判の美人にモテるんです(笑)】

 京都外大西で監督だった上羽に、高校時代の大野の話を聞きに行った時のこと。"投手・大野"の話がひと段落すると、"人間・大野"の話題で大いに盛り上がった。

「大野は芯が強くて明るい。高校の時は調子に乗ったところがあって、しばらく練習から外したこともあったんです。そんなことがあってもあとに引かないし、いい意味でさっぱりしている。まあ、いい男ですよ」

 表裏がなく、気遣いもできて、しっかり会話もできる......次々にこれまで取材を通して感じていた"大野評"を上羽に告げると、こう返ってきた。

「ちょっとヤンチャな雰囲気も含めて、学校の先生たちからもかわいがられていました。それにあいつ、モテるんです。ほんとに。しかも校内で評判の美人にモテるんですよ(笑)」

 これだけの男である。「モテないわけがない」と、最後はふたりで納得したものだった。

 順調なら複数球団からの1位指名が確実だったドラフトでは、左肩の不安から慎重になる球団も出てきて、結果は中日の単独指名。ドラフト後の会見で大野は「こんな状況なのに1位で獲ってくれた球団に、絶対恩返しをします」と感謝の思いを口にした。

 2013年から3年連続2ケタ勝利を挙げ、19年には最優秀防御率のタイトルを獲得。そして20年には2年連続となる最優秀防御率、さらに最多奪三振の二冠を獲得。投手の最高栄誉である沢村賞にも輝いた。

 だが大野が主戦として投げ始めてから、中日は優勝していない。そういう意味で、まだ恩返しをしたとは思っていないはずだ。今年9月で大野は37歳を迎える。シーズンの最後にうれし涙を流す......そんな瞬間が訪れることを楽しみに待ちたい。

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