深夜、1時30分──。

 会見室の席に座る彼女は、驚くほどに、穏やかだった。

30分前に、3時間に及ぶ死闘を終えたばかりの彼女は、まだ試合ウェアに身を包んだまま。

 それでも柔らかな笑みを浮かべる彼女は、会見で開口一番に言った。

「正直、まったく悲しくはないの。奇妙だけれど、でも当然とも思えるのは、きっと持てる力をすべて出しきったと感じているから」

大坂なおみがメンタルで自滅しなくなった 全米OPベスト4の背...の画像はこちら >>
 ニューヨークで開催された全米オープンの女子シングルス準決勝。大坂なおみは先日のウインブルドン準優勝者にして第8シードのアマンダ・アニシモバ(アメリカ)と対戦した。

 日付をまたぐ長く苦しい戦いの末に、7-6、6-7、3-6のスコアで決勝進出ならず。ただ、大坂にとって「産後最高」の結果で大会をあとにした。

 両者合わせて82本のウイナーを叩き込み、11ゲームをブレークし合い、計234ポイントを重ねた2時間56分のマラソンマッチ。それがどんな試合だったのか、総括するのは難しい。

 ただ、それら競ったスタッツやスコアにもかかわらず、試合序盤はどこか違和感をぬぐえぬ展開ではあった。最大の理由は、アニシモバのプレーから、その意図や心中がうかがいにくいことにあったろう。

 全体的にミスが多く、第1セットの第4ゲームから第6ゲームにかけて、アニシモバが獲ったポイントはわずかに3本。

時おり覚めるような強打がコートに突き刺さるが、上空に轟く雷鳴同様に単発で、そこに継続性はない。まるでピッチングマシーンやオートテニス相手に、来たボールを全力で打ち返すようなプレーが続いていた。

 一方の大坂にしても、相手の思惑が読めぬなかで、リズムをつかみあぐねている様子だった。何かが噛み合わないもどかしい展開は、第2セットの途中まで続く。

 ただ、試合が進むにつれて、明確な変化も見られ始めた。それはアニシモバの、言うなら"打率"が上がったこと。連戦の疲れのためか、大坂の動きがやや落ちてきたことも要因のひとつかもしれない。

 ツアーきっての強打自慢が、大坂のサーブを次々に打ち返し、その多くがピンポイントでコーナーに刺さる。あきれたように両手を広げ、首を振る大坂の姿からは、いつ気持ちが切れても不思議ではない危うさが漂った。

【アニシモバと私は正反対のタイプ】

 だが、そんな状況にもかかわらず、大坂は辛抱強く、丁寧に戦い続けた。

 意思疎通を拒絶する相手に対し、根気強く説得を試みるかのようにボールを追い、打ち返し、ラリーを交わそうとする。

 相手のマッチポイントに面しても、その姿勢に変わりはない。相手サーブのマッチポイントを2本しのぎ、2度のブレークチャンスにまで持ち込んで、勝利への希望をつないだ。

 そして、3度目のマッチポイント。最後は相手の強打が、必死に伸ばした大坂のラケットを弾き、大きくラインを割っていく──。

 全身を反らし咆哮をあげる勝者をネットの向こうに見やりながら、大坂は静かに天をあおぎ、ゆっくりと、勝者を称えるために歩みを進めていった。

「ベストを尽くした」と笑みすら浮かべる試合後の会見で、大坂はひとつ、この日の対戦相手について素直な所感を口にしている。

「ちょっと笑ってしまうのは、彼女のプレーには"パターン"がなかったこと。まるで来たボールを全力でコートの空いているところに打ち込んでいるようで、しかもそれが、ほとんど入ってしまうんだもの」

 大坂が相手のそのようなプレーに戸惑いを覚えたのは、今の彼女がより深くテニスを知り、そのゲーム性や戦略性を楽しんでいるからでもあるだろう。

 その傾向は、約1カ月前にトマシュ・ビクトロフスキ氏を新コーチに雇ったことで加速したはず。現に大坂は今大会中、いかにコーチが新たな戦術やショット選択を教えてくれ、それにより「テニスに対する新たな視座を獲得できた」かを繰り返し口にしていた。

 そのような大坂の「テニス観の変化」を浮き彫りにする、印象深い質疑応答の場面もあった。

 それは、米国の記者が「自分と同じプレースタイルの選手(アニシモバ)と対戦するのは、難しいか?」と尋ねた時。質問を聞きながら怪訝(けげん)そうな表情を浮かべる大坂に、記者は補足するように続けた。

「外から見ていると、ふたりの似た選手がお互い、全力でボールを打ち合っているように見えるのだけれど......」

 その説明を聞いてなお、いぶかし気に口をすぼめる彼女は、こう答えた。

「正直に言うと、彼女と私は正反対のタイプだと思う。というのも、私は強打するよりも、相手を見ながら打つことを意識しているから。結果として速いボールを打ったとしても、基本的に、私は相手に応じてプレーを変えている」

【体中に痛みが出て、年取ったんだなぁ】

 他者の解釈と、大坂の認識との乖離(かいり)......それは過去の大坂と、未来の大坂のギャップとも言えるだろう。

 他者が覚えているのは多分にかつての大坂で、対して大坂は、自分が目指すべき選手像を見ている。アニシモバの時に「蛮勇」とも言えるスーパーショットは、大坂が「成熟」と引き換えに手放したものかもしれない。

「私も体中に痛みが出てきて、年取ったんだなぁと感じる」

 自嘲気味に笑いながら、そんなことを彼女は言った。

 ただ、こうも続ける。「この痛みは、ハイレベルな試合を重ねた成果だと捉えている」と。

 同じ事象も見る角度を変えれば、まったく違った景色に映る。そのような、ある種の思考術の習得も、成長のプロセスなのだろう。

 そしておそらくは、試合後の大坂が穏やかだった最大の理由も、ここにある。

「なぜ今回は、そこまで前向きにいられるのか?」

 その問いに、彼女は自分の胸のうちを確かめるように言葉を紡(つむ)いだ。

「すべては、プロセスだと思っているから。トマシュ(・ビクトロフスキ)と組んで、まだ2大会目。そこに今の自分のレベルや、昨年どんな結果を残せたかを理解したうえで全体を見通した時、今年は本当に順調だと感じている。

 それに私は、毎年少しずつ成長していきたいタイプ。この大会を迎えた時点で、すでに自分の期待値を超えていた」

 そこまで言うと彼女は、ふと大切なことを思い出したように加えた。

「実はちょうど考えていたんだけど......振り返ってみれば、私にとっての『最悪の年』は、誰かの『最高の年』でもあったのよね。そうやって、物事をポジティブに見るちょっとした技を、私も覚えつつあるの」

 同じ事象も見る角度を変えれば、痛みは成果に、敗戦は成長の糧(かて)になる。

「今日負けたことで、もっと練習して上達したいと思えた」

 無垢で前向きなその情熱は、トロフィーに劣らぬ輝きを放つ。

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