後編:東京世界陸上クローズアップ/村竹ラシッド
東京世界陸上の男子110mハードルで金メダル候補として名前の上がる村竹ラシッド(JAL)。その村竹を大学入学から指導している山崎一彦コーチ(順天堂大陸上競技部副部長、日本陸連強化委員長)は、村竹の今季の成長ぶり、そして技術的な変化を冷静に分析する。
村竹が現在の位置に至るまで、指導を通してどのように世界トップハードラーとなるべくアプローチを取ってきたのか。
前編〉〉〉村竹ラシッドはいかに金メダル候補へ成長を遂げてきたのか?
【ハードル間タイムに見る村竹の成長】
110mハードルは1台目までの距離が13.72m、10台のハードル間は9.14m、10台目からフィニッシュラインまでが14.02m。村竹ラシッドが12秒台を出すにはハードル間を、1秒を切るタイムを3~4回出す必要があると言われていた。
山崎一彦コーチは「13秒04のときは1秒切りが1回でしたが、12秒92を出した福井では、簡易計測ですが3、4、5台と3回ありました」と説明する。村竹は4、5台目の動きがよくなったことを、福井のレース後にコメントしていた(前編参照)。後半もかつて感じたことのないスピードで走れたと話したが、タイムだけを見れば6台目以降は減速している。その減速の幅がかつてないくらいに小さかったので、過去最速のスピードを感じていたのだろう。
そのスピード配分を可能にしたのはトレーニングと試合経験の全てになるが、レース展開的には1~2台目のスピードを上げられたことが大きかった。4~5月のダイヤモンドリーグ(DL)厦門大会(13秒14・2位)と上海紹興大会(13秒10・2位)では、1~2台間が1.07秒と1.08秒だった(主催者発表)。
「1台目を越えたあとにもたついています」と村竹は課題を話した。
「パワーのあるスタートができるようになりましたが、その影響で2台目までが大きな歩幅になってうまく刻めません。2台目までの動きを修正できれば、中盤も自ずとよくなります」
村竹は「(世界陸上のある)9月まで時間があるので、じっくり修正していきます」と話したが、6月のDLパリ大会では予選(13秒08・1位)の1~2台間は1.04秒、決勝(13秒08・4位)は1.05秒と中国2試合よりも短縮されていた。9.14mの間でつく0.02~0.03秒差は、かなり大きな違いと考えていい。
それができたのはスタートから1台目までの7歩のうち、「最後の3歩を、ハードル間のインターバルの3歩に近いリズムに上げられたから」だと山崎コーチ。13秒5を切るレベルの選手でなければ、そのリズムに上げることは難しいかもしれないという。
山崎コーチは同じハードル種目でも、400mハードルで活躍した選手。1995年イェーテボリ世界陸上400mハードルの予選で日本新をマークし、決勝でも7位と日本人初入賞を果たした実績を持つ。ハードル間の距離はまったく違うが、1台目前のリズムをハードル間の13歩のリズムに近くすることで、前半のスピードを世界トップレベルに上げることに成功した。
【ハードルに脚をぶつけた自覚がなかった】
福井の村竹は主に抜き脚を、何台もハードルに当てていた。その点を質問されたことへの答えが印象的だった。
「当てている感覚がまったくなかったんですよ。結構、当たってました? じゃあ、当たっていたかもしれないですけど、(それでも)いいです」
テンションが上がって、当てたことに気づかなかったのだと理解した。それも一因だったかもしれないが、山崎コーチは「水平にぶつけているから大丈夫なんです」と理由を説明してくれた。
「村竹の特徴はスムーズなハードリングです。踏み切りはそこまで強くありませんが、踏み切りからハードルに向かって行くときのしなやかさは群を抜いています。ハードルを越える時に重心は上がっていますが、頭の位置は低いし、手の位置はハードルより下です。
世界トップの外国勢でも、ハードルに当てないことを重視するあまり、ハードルから高い位置を越えていく選手も多い。そこに「つけ入る隙がある」と山崎コーチ。
問題はハードルそのものの"つくり"である。国内で普及しているメーカーのものは当てても衝撃が少ないつくりになっているが、世界陸連主催試合で使われるハードルは、当てた場合に衝撃が大きくバランスを崩しやすい。
そこで重要なのが前編でも紹介した、DLなど海外の試合経験である。剛性の高いハードルに脚を当ててしまった時に、それも外国選手と競り合う中でどう対処するか。国内でタイムを出すだけでは経験できないことを、村竹はこの2シーズンで繰り返し経験してきた。
【世界に猛スピードで近づく110mハードル】
日本の110mハードルは、2018年に金井大旺が13秒36と日本記録を14年ぶりに更新したのをきっかけに、急速に世界に近づき始めた。
▼2018年以降の110mハードル日本記録の変遷
2018/6/24 13秒36 金井大旺(福井県スポ協)
2019/6/2 13秒36 髙山峻野(ゼンリン)
2019/6/30 13秒36 髙山峻野
2019/6/30 13秒36 泉谷駿介(順大)
2019/7/27 13秒30 髙山峻野
2019/8/17 13秒25 髙山峻野
2021/4/29 13秒16 金井大旺(ミズノ)
2021/6/27 13秒06 泉谷駿介
2023/6/4 13秒04 泉谷駿介(住友電工)
2023/9/16 13秒04 村竹ラシッド(順大)
2025/8/16 12秒92 村竹ラシッド(JAL)
金井、髙山峻野、泉谷駿介の3人が日本記録更新を繰り返し、東京五輪が行なわれた2021年には13秒06まで縮めている。純粋に速く走るスプリント能力の高い選手が、110mハードルに取り組み始めたことが大きな要因だった。
100mの走りは、ハードル間を速いピッチで刻む110mハードルと比べ、ストライドが段違いに大きい。しかし山崎コーチによれば、100mや200mが速い選手の方が、ハードル間を速いピッチで刻むことができるという。大きなストライドで走る練習が必要で、「ピッチを高める練習だけでは頭打ちが早く来る」と、指導現場の経験から感じている。
またU20年代の選手たちが、「110mジュニアハードルに積極的に出場する環境がプラスに働いた」と日本陸連強化委員長でもある山崎コーチは見ている。シニアのハードルは高さが106.7cmなのに対し、ジュニアハードルは99.1cm。ハードル間は9.14mで同じである。
「ジュニアハードルの記録は(ハードル間の)ペース配分が、シニアの世界レベルに近いんです。U20選手がそのリズムを覚えることで、シニアハードルの記録向上につながったと思います」
泉谷の13秒06は2021年世界リスト5位と、世界トップレベルだった。だが東京五輪、翌22年のオレゴン世界陸上と、日本勢は決勝に残ることができなかった。日本選手は前半に強いが後半で外国勢に逆転される。そういった展開が多かった。
その頃から山崎コーチは、後半も外国勢に対抗できる走りとハードリングをどうしたらできるかを考え、泉谷と村竹に提案し始めた。
「前半で余裕を持ちながらスピードを出すことで、後半に余力を残すことができます。着地があるのでブレーキは絶対にかかるんですが、アクセルをそれほど踏まないことがポイントです。アクセルを全力で踏んですぐにブレーキをかけると、疲れてしまいます」
言葉にすると上記のようになるが、これをレース中に行うのは至難の業と言っていい。実際にスピードを抑えるのは、ハードル間で0.01秒かそれ以下になる。
しかし泉谷が23年のブダペスト世界陸上で5位、村竹が24年のパリ五輪で5位と、日本選手が世界陸上、五輪とも初めて入賞した。後半も世界と戦う110mハードルを、2人が実行し始めたのだ。世界で入賞し始めてわずか3年だが、世界のトップ記録が停滞しているのに対し、日本の110mハードルはすごい勢いで成長している。
村竹が地元開催の世界陸上でメダルを取った時、日本の110mハードルが世界と戦うパターンがひとつ、完成することになる。