語り継がれる日本ラグビーの「レガシー」たち
【第28回】トンプソン ルーク
(三洋電機→近鉄→SA浦安→浦安DR)
ラグビーの魅力に一度でもハマると、もう抜け出せない。憧れたラガーマンのプレーは、ずっと鮮明に覚えている。
連載28回目は、日本代表LOとしては98キャップの「鉄人」大野均に次ぐ、71キャップを誇るトンプソン ルークを紹介したい。10年前の2015年9月19日に南アフリカを破る「ブライトンの奇跡」を成し遂げたメンバーのひとりだ。
※ポジションの略称=HO(フッカー)、PR(プロップ)、LO(ロック)、FL(フランカー)、No.8(ナンバーエイト)、SH(スクラムハーフ)、SO(スタンドオフ)、CTB(センター)、WTB(ウイング)、FB(フルバック)
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「リアル・ロック」空中戦はもちろんのこと、誰よりもきつい仕事でも黙々とこなす。チームで最も勇敢で力強いLOに対し、敬意を込めて人はそう呼ぶ。
196cmの長身を活かして空中戦をリードし、地上戦でもタックルをいとわず、骨身を削って体を張り続けた。日本代表選手として初めてワールドカップに4度出場したトンプソン ルークは、まさしく「リアル・ロック」と呼ぶにふさわしい。
代表活動を休んだ期間があったにもかかわらず、積み上げたキャップ数は歴代8位の「71」。その数字は、ジョン・カーワン、エディー・ジョーンズ、ジェイミー・ジョセフと、日本代表を率いてきた歴代の名将たちが信頼を寄せてきた証(あかし)でもある。
試合前の国歌斉唱では、『君が代』を誰よりも大きな声で歌っていた。トンプソンの日本愛は有名だが、出身は南の国ニュージーランド。1981年、南島・クライストチャーチ近郊にある農場の息子として生まれた。
父はラグビー選手、弟は競馬の騎手、妹はネットボールのニュージーランド代表選手というスポーツ一家に育った幼少期のトンプソンは、サッカーや13人制ラグビーをやっていたという。15人制のラグビーに専念したのは13歳の時。数多くのオールブラックスを輩出してきた名門セントビーズカレッジに入学したことが転機となった。
当時から身長が高かったため、コーチに言われるがままLOが本職となる。憧れたLOの選手はオールブラックスのトッド・ブラックアダー(現・東芝ブレイブルーパス東京ヘッドコーチ)。トンプソンはすぐさま頭角を現し、各年代のカンタベリー代表に選出されるほどになった。
【近鉄で初の外国人キャプテン】
高校卒業後は地元の名門スーパーラグビーチーム「クルセイダーズ」でプレーすることを目標に掲げた。しかし、当時のクルセイダーズにはLOのポジションに、クリス・ジャックやブラッド・ソーンといったオールブラックスが在籍。そんな状況もあって、トンプソンはチャンスを求めて三洋電機(現・埼玉パナソニックワイルドナイツ)に入部した。
来日当初、トンプソンはニュージーランドにすぐ戻る予定だったという。しかし、外国人枠の問題で出場機会が思うように得られなかったため、2006年に近鉄(現・花園近鉄ライナーズ)へ移籍する。
結果的に、大阪の水はトンプソンに合っていた。早々に帰国する予定が14シーズンも近鉄でプレーすることになり、2008年にはクラブ史上初めて外国人キャプテンにも就いている。
日本代表で初キャップを獲得したのは来日4年目の2007年。カーワンHCの目に止まり、桜のジャージーを着て香港戦のピッチに立った時は、「特別な瞬間だった」と振り返る。
2010年には日本国籍を取得。「ルーク・トンプソン」から「トンプソン ルーク」になった。本当は名前に「城(ルーク)」という漢字を入れたかったが、勘違いで受理されなかったという。
2011年は母国ニュージーランドで開催された自身2度目のワールドカップに出場。家族の前で勝利を誓ったものの、前回大会に続いて0勝3敗1分の結果に終わった。
そして2015年。「最後のワールドカップ」という位置づけで臨んでいた3度目の大会で、ついに悲願が成就される。南アフリカから歴史的勝利を奪った「ブライトンの奇跡」だ。
南アフリカ戦のロスタイム、スコアは29-32。日本はスクラムでペナルティを得た。
【妻の後押しで4度目のW杯へ】
その時だった。トンプソンはFWのチームメイトたちを鼓舞する。
「日本の歴史、作るの、誰?」
その言葉で仲間はさらに奮い立ち、スクラムで互角の勝負を挑みながらBK陣に展開し、最後はWTBカーン・ヘスケスが左隅にトライを挙げて34-32と逆転し、新たな歴史を作った。
トンプソンに会った時、あの時のセリフをあらためて聞いてみると、「たしかにそう言った記憶があります。当時はエディーが『新しい日本の歴史を作ろう』と何度も言っていましたから、あの瞬間は『まさにその時がきた!』とつい言葉として出てしまったのでしょうね」と笑いながら語ってくれた。
自身3度目となるワールドカップの最終戦を終えた時、トンプソンは「今日で代表引退です。ちょっとさみしいけど、これが最後のテストマッチでした。4年後は、僕はおじいちゃんだから無理です」と話した。
代表メンバーに選ばれると、強化合宿やテストマッチで長期間、拘束されることになる。トンプソンには3人の子どもがおり、彼らを家に置いて留守にすることがつらかったからだ。
しかし、ワールドカップイヤーの2019年になり、妻のメリッサさんからこう言われる。
ジョセフHCは「不屈の精神を持っている」トンプソンをまずはサンウルブズに招集した。LOの強化はワールドカップでの飛躍に欠かせなかったからだ。トンプソンは日本ラグビー史上初めてワールドカップに4大会出場した選手となり、38歳になっても試合で存在感を示していった。
予選プールでは世界2位のアイルランドを撃破、そしてベスト8進出を決めたスコットランド戦でも18回ものタックルを決めて勝利に寄与。本人も「この2試合は格別だった」と語る。また、準々決勝の南アフリカ戦では38歳6カ月でピッチに立ち、日本代表の最年長キャップ獲得者にもなった。
【僕には桜のプライドがある】
自身4度目のワールドカップを終えてから3カ月後、トンプソンは近鉄でのリーグ最終戦後にユニフォームを脱ぐ。しかし、一度はグラウンドから離れるものの、2021年にリーグワンのシャイニングアークス東京ベイ浦安(その後チーム再編で浦安D-Rocks在籍)で現役復帰。結局2シーズンプレーし、42歳で正式にブーツを脱いだ。
現在、トンプソンは母国ニュージーランドに戻って鹿牧場を経営している。