【切磋琢磨してきたふたり】
世界陸上東京大会3日目の9月15日。夜9時すぎから行なわれた女子100mハードル準決勝に、1995年生まれの福部真子(日本建設工業)と中島ひとみ(長谷川体育施設)の同世代コンビが登場した。
結果は福部、中島ともに予選からタイムを落とし、決勝進出はかなわなかった。
高校に進学すると福部が100mハードルでインターハイ3連覇を達成し、世代のトップ選手へと成長。中島はインターハイで100mと100mハードルの2種目で準決勝敗退に終わったが、高校2年時の国体100mハードルでは福部を破って優勝し、続く日本ユース五輪も優勝。互いを意識し、競り合う仲間となっていった。
大学は、福部が関東の日本体育大学、中島が関西の園田学園女子大学と東西に分かれて進学。それぞれが伸び悩み、社会人になってもしばらくは結果が出ない時期が続いたが、福部が先にそこから抜け出した。
2019年、100mハードルに復帰した寺田明日香(パソナ→ジャパンクリエイトグループ)が13秒00の壁を突破する12秒97の日本記録を出すと、日本の女子ハードル界が活性化。
そのなかで2022年から福部の快進撃が始まった。6月の日本選手権で初優勝を果たすと、直後の布勢スプリントで12秒93と12秒台へ。
そんな福部に対して遅れながらも、昨年9月に12秒99と12秒の壁を突破した中島が今年、一気に肉薄してきた。
4月の織田記念で12秒93をマークして優勝したのち、日本選手権の予選ではキレを増したハードル間の走りを見せて12秒81の自己ベスト記録。決勝では田中佑美(富士通)に次ぐ2位で12秒8台を連発。その2週間後にはフィンランドで世界陸上参加標準記録(12秒73)を突破する12秒71を出すと、8月の実業団・学生対抗戦でも12秒71を出して代表入りを果たした。福部も8月16日のアスレティックナイトゲーム福井で12秒73を出して、ともに大舞台に向けた準備を整えた。
【12秒台をマークして準決勝へ】
そして迎えた世界陸上東京大会。モーニングセッションの予選第5組で登場した福部は、着順進出の3位に0秒10届かない4位。それでも12秒92で、着順のほか記録上位進出の4名にギリギリ入って準決勝に駒を進めた。福部は安堵の表情でこう振り返った。
「スタートで出遅れた感覚だったし、中盤以降のピッチが上がってこないなかで、海外の選手は力強く前に進んでいく。
一方、第6組の中島は初の大舞台で少し緊張したのか、日本選手権と比べるとキレのない走りながらも順位争いに加わった。結局、同タイムの3、4位に0秒02差の12秒88で準決勝進出を果たした。
「必ず3着以内に入りたいと思っていましたが、かなり混戦でゴールした時には自分が何位なのかも分からない状況でした。満足はしていないけど、初の舞台でこうしたレースをできたのはすごくいい経験になりました」
30歳でやっと届いた世界の舞台について、中島は「初めて着る日本代表のユニフォーム、その重みを初めて知った」と言い、「懲りずに応援してくださる方々がたくさんいるので、そういう人たちの言葉や応援の力が私にとって支えになっていました」と話す。福部とともに、夜の準決勝を戦えることを楽しみにしていた。
【楽しさ、うれしさ、悔しさが混在】
しかし準決勝は、3組上位2着が決勝進出、プラス記録上位で決勝にいけた2名は12秒53までという厳しい条件だった。
「スタートがどうしてもうまくハマらなくて、そこから上げきることもできず最後まで必死に走るのみのレースになってしまい、『何をしに来たんだろう』と思いながらゴールしました」
福部は、13秒06で組7位という結果に、「13秒台で走った事実がすごく重くのしかかってきて、最悪のレースをしてしまった」と悔しさをにじませた。
ただ、この世界陸上で福部は昨年11月に公表した「菊池病」とも闘っていた。準決勝の前日は昼頃に発熱し、夜はひどい頭痛に見舞われ、鎮痛剤を飲んで眠ったという。それでも走るのは、「ひとりでも、私が頑張っていることで『もう少し頑張ろうかな』と思ってくれる患者の方がいればいいし、今まで病気を知らなかった人も『菊池病はこういう病気なんだ』とまずは調べて認知度が高まれば、もっと菊池病の人がすごしやすい社会になると思う」という思いがあるからだ。
「菊池病になった時に『もう終わりかな、代表のユニフォームはもう着られないかな』と思った時期もあり、こうしてまた日本代表として、皆さんに応援してもらえる姿はまったく想像できていなかった。だから準決勝に進めたことも大きな価値というか、『よく頑張ったなあ』と自分を褒めてあげたいと思います。
結果は悔しいものでも、こう言いきれる世界陸上でのレースだった。
一方、準決勝の第2組を走った中島は、スタートの反応はよかったものの、世界記録保持者のトビ・アムサン(ナイジェリア)もいる組で硬さが出てしまい、13秒02の7位に終わった。
「何度か海外の試合も経験しましたが、(今回は)押しつぶされるような感じというか、重みが違いました。これでまで経験したことのない、満員の国立競技場を見て『まだ走りたかったな』という気持ちと、『続けてきてよかったな』という思いが湧き上がってきました。大歓声にタイムで応えることはできなかったけれど、一生忘れられない景色でした」
世界のトップと走ったからこそ感じられた、自分に足りないものの数々。その悔しさと同時に「同じくらいの幸せな気持ちをもらった」と話す中島は、すでに次を見据えていた。
「今季で引退される寺田さんがいた穴を私自身が埋めることはできないけど、寺田さんが作り出したハードラー同士の仲間意識の強さは、私たちが受け継げるものだと思うので、ここに出ていた選手だけではなく日本のハードラーたちと、もっともっと世界を目指せる選手になっていきたいです」
日本の女子ハードラーたちのレベルをさらに引き上げて、世界と戦える12秒5台に入るためにも、日本歴代1位と2位の記録を持つ福部と中島の牽引は不可欠。その役割を果たす決意を、ふたりはこの世界陸上で確かに胸に刻んだはずだ。