昭和のプロ野球秘話

松永浩美が語る石嶺和彦とのエピソード 後編

(中編:落合博満がコーチに招いた天性のバッター 同期の松永浩美に「このままでは勝てない」とスイッチヒッター転向を決意させた男>>)

 松永浩美氏に聞く、阪急やオリックス、阪神で活躍した石嶺和彦氏とのエピソード。後編では、石嶺氏と同じポジションの門田博光氏との関係性や、石嶺氏が「サッサ」という愛称で呼ばれるようになった理由などを聞いた。

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【門田博光とレフト、DHで併用】

――松永さんや石嶺さんが現役だった1980~90年代のパ・リーグは、落合博満さんや門田博光さん、秋山幸二さん、清原和博さんら多くの強打者がいました。石嶺さんもそれに匹敵するレベルでしたか?

松永浩美(以下:松永) 通算の成績では少し劣ってしまうかもしれませんが、半月板のケガと肝炎がなければもっとすごい数字を残していたはずですし、「石嶺」という名前がメディアでバンバン出ていたと思います。バッティング技術は天性のもの。私はあまりほかの選手のバッティングを見ないのですが、門田さんと石嶺は見るべきものがあったので、特打ちなども見入っていましたよ。

――それだけ技術が高かった。

松永 高校時代からすでに完成されていた感じでしたね。シンプルな立ち方、下半身と上半身の連動のさせ方、リストが利いたスイング、タイミングの取り方など、すべてが備わっていました。体は決して大きくないのですが、技術で十分にカバーしていました。

――1988年オフ、門田さんが南海からオリックスに移籍します。ポジションは石嶺さんと同じレフトでした。

松永 門田さんはオリックスに来た時に40歳を過ぎていて、石嶺よりもだいぶ年上でした。門田さんはアキレス腱断裂の後遺症があったので、その日の足の状態がよければレフトの守備につき、あまりよくなければDHで出場していましたね。石嶺も半月板に不安を抱えていましたが、門田さんに負担をかけないようにと、レフトの守備を頑張っていました。

ポジションを争うライバルという感じではなかったです。

 1989年は交互にレフトを守っていた記憶がありますね。石嶺の時はそうでもなかったですが、門田さんがレフトを守る時は、内野手は送球をカットするためにだいぶ近くまでいってフォローしていました。

――1990年はレフトで123試合に出場し、37本塁打を放ってベストナインに選ばれました。石嶺さんの外野守備はいかがでしたか?

松永 下手ではないのですが、膝が悪いから守備範囲は少し狭かったと思います。ただ、1990年にはパ・リーグ最多の14個の補殺を記録しているように、もともとキャッチャーだったこともあって肩は強かったです。繰り返しになりますが、キャッチャーとして大成した石嶺を見たかったという思いは、今でもありますね。

【愛称が「サッサ」になった理由】

――(前編・中編を含めて)ここまでお話をお聞きしてきて、石嶺さんに対する松永さんのリスペクトがすごく印象的です。

松永 私の同級生は石嶺のほかに、福良淳一(オリックス)、真喜志康永(近鉄)、広瀬哲朗(日本ハム)、セ・リーグだと木戸克彦(阪神)、吉竹春樹(阪神、西武)、西田真二、金石昭人、津田恒実(3名とも広島)などけっこう多いのですが、私のなかで一番の選手は石嶺でした。同期でプロ入りして初めてバッティングを目の当たりにした時、素質は「絶対に負けたな」と思いましたからね。

――松永さんは、試合中にチームメイトに対してよく喝を入れていましたが、石嶺さんに喝を入れることはありましたか?

松永 石嶺に対しては一度もないですね。同級生なので、何か言おうと思えば言えるんでしょうけど、やっぱり「自分よりも上」という意識が、ずっと心のなかにあったからだと思います。

――ちなみに、石嶺さんはなぜ「サッサ」という愛称で呼ばれていたのですか? お名前とはまったく関係ないと思うのですが......。

松永 偶然が重なってできた愛称なんです。私や石嶺らが新人時代に合同で自主トレをしている時、雪が降ってきたんです。石嶺が雪を見て急に立ち止まったので、「どうしたの?」と聞いたら、「雪だよ、見て! 初めて見たよ」と。石嶺は沖縄で生まれ育ったから、雪を見たことがなかったんです。

 そのあと、手のひらに雪が乗るのを見ながら「ちゅうひーさっさー」と言ったので、「どういう意味なの?」と聞くと、「『今日は寒い』っていう意味だよ」と教えてくれたんです。沖縄の言葉だと「今日」は「ちゅう」、「寒い」は「ひーさっさー」なんだと。

 あと、ちょうどその頃に、金鳥のサッサという商品のCMが流れていて、誰かが「サッサ」と「ひーさっさー」を重ねたみたいで(笑)。さっさーと語尾をのばすよりも、サッサのほうが言いやすいということで、石嶺のことをサッサと呼び始めたんです。

――松永さんもサッサと呼んでいたのですか?

松永 チームメイトといる時はサッサと呼び、それ以外の時は石嶺と呼んで使い分けていました。当時はパ・リーグの試合が放送されることが少なかったので、球場の外に出るとパ・リーグの選手を知らない方も多いわけです。なので、「この選手の名前は石嶺です」と周囲に認識させるため、あえて石嶺と呼んでいたんです。

そこまで気を遣った選手は、なかなかいないんじゃないかな(笑)。

――今でもお会いすることはありますか?

松永 最後に会ったのは上田利治監督の葬儀(2017年)の時なので、もう9年近く会っていませんね。ちょっと前に熊本でゴルフコンペがあって、ダイエーにいた新里紹也と話す機会があったんです。それで「どこから来たの?」「沖縄から来ました」などと話をしているなかで、「ところで、沖縄といえば石嶺は何をしているんだ?」っていう話になったんです。新里は「今度確認してみます」と言っていましたけどね。

――沖縄の高校で指導されている時期もあったみたいですね。

松永 それはもう、だいぶ前に終わっているみたいですからね。新里もそれ以来名前を聞いていないと言っていたので、どこで何をしているのか......。同期であり、「負けたくない」と思っていたライバルですし、やはり気になりますよ。おそらく、元気にしているんでしょうけど(笑)。

【プロフィール】

松永浩美(まつなが・ひろみ)

1960年9月27日生まれ、福岡県出身。高校2年時に中退し、1978年に練習生として阪急に入団。

1981年に1軍初出場を果たすと、俊足のスイッチヒッターとして活躍した。その後、FA制度の導入を提案し、阪神時代の1993年に自ら日本球界初のFA移籍第1号となってダイエーに移籍。1997年に退団するまで、現役生活で盗塁王1回、ベストナイン5回、ゴールデングラブ賞4回などさまざまなタイトルを手にした。メジャーリーグへの挑戦を経て1998年に現役引退。引退後は、小中学生を中心とした野球塾を設立し、BCリーグの群馬ダイヤモンドペガサスでもコーチを務めた。

浜田哲男●取材・文 text by Hamada Tetsuo

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