生活保護制度は、生活に困窮するすべての国民に対し、健康で文化的な最低限度の生活を保障するとともに、その「自立を助長する」ことを目的としています。しかし、残念ながら、現実の福祉事務所の窓口では、この法の趣旨から著しく逸脱し、保護利用者の自立へのステップを不当に阻むような行政の対応も散見されます。

今回は、いま東海地方で実際に起きている「引越費用(敷金等)の不支給決定」をめぐるトラブルの事例を紹介します。
これは、日本全国で起きている事態のほんの一例にすぎません。生活保護利用者が直面する理不尽な実態と、「ブラックボックス化」している行政手続きの問題点について、生活保護法や関連法令、裁判例等を踏まえ解説します。(行政書士・三木ひとみ)

追い詰められる父子家庭 「自立への一歩」はなぜ阻まれたのか

今回取り上げるのは、愛知県に住むシングルファザー・マコトさん(40代・男性)のケースです。
マコトさんは、めまいや睡眠障害、うつ病といった疾患を抱えて働くのが困難になり、その状態で息子のセイヤくんを一人で育てざるを得ず、居住する自治体の福祉事務所で生活保護を利用していました。セイヤくんは現在8歳で、帰国子女として転入した小学校でいじめにあい、それが原因で不登校となっており、地域の子どもに遭遇することを強く恐れるほどのトラウマを抱えています。
マコトさんは、セイヤくんのためにも早く仕事に復帰できるよう健康状態を回復させたいと願っていましたが、現居住地では深刻な隣人トラブルに見舞われていました。
さらに、本来支援者であるはずの担当ケースワーカーからは「最低限の生活をしろ」といった発言を受けたほか、マコトさんが電話をかけた際に向こうでケースワーカー同士が「子どもを取り上げる?」といった、利用者を中傷するような会話を交わしていたことが、マコトさんの日記に記録されています。
自治体が作成した記録には、マコトさんの「脳の萎縮」「回転性めまい」といった器質的所見、精神障害者手帳の認定など、客観的かつ重篤な病歴が保管されていました。
それにもかかわらず、ケースワーカーはそうした事実を無視するかのような配慮を欠く対応を繰り返し、マコトさんは強い威圧感を覚えることとなりました。
また、マコトさんが疾患とセイヤくんのケアで就労が困難であることを医師の診断書とともに説明していたにもかかわらず、福祉事務所は通院先の医療機関に対して「医師から軽作業が可能と聞いている」などと不当な圧力をかけ、執拗に就労活動報告を求めました。
結果としてマコトさんの体調はさらに悪化し、それまで可能だった在宅ワークすら制限せざるを得ない状況に追い込まれました。
マコトさんがケースワーカーの不適切な言動の改善と担当変更を求めても、福祉事務所は「あなたの受け取り方の問題です」と書面で一蹴。
さらに、自立に向けた医療証拠(診断書)の取得費用についても、事前の相談を行っていたにもかかわらず「福祉事務所が指示したものではない」と後出しで支給を拒否するなど、およそ支援とは呼べない対応が繰り返されていました。

マコトさん親子の自立に必要と思われた「転居」

このような極限のストレス環境下で、マコトさんの病状は悪化の一途をたどります。
マコトさんのめまいの原因究明には、座位で撮影可能な「オープンMRI」を備える名古屋市内の医療機関での診断が不可欠となっていました。
同時に、マコトさんは自立に向けて既に名古屋市内の就労継続支援B型作業所への通所が内定していました。
また、不登校が続いていたセイヤくんについても、帰国子女受け入れ校への進学という希望が見えていました。この学校は少人数制の授業が行われており、セイヤくんがいじめのリスクを回避して安心して学べる環境が整っています。セイヤくん本人も学校見学を経て通学に強い意欲を見せており、不登校改善の兆しが見えていました。
医療アクセスの確保、就労へのステップ、そしてセイヤくんの教育環境の整備。主治医も親子の状況を鑑みて「環境調整」を強く推奨し、診断書を発行していました。
マコトさんは、生活保護法に基づく正当な権利として、福祉事務所に対して「引越費用(敷金等)の支給」を求める保護変更申請を行いました。

「自立のための転居」は認められている

そもそも、生活保護利用者が転居するための費用(敷金や礼金、引越代など)はどのような場合に支給されるのでしょうか。
厚生労働省が定める保護の実施要領では、「転居に際し敷金等を必要とする場合」に特別基準として費用の支給を認めています(「生活保護法による保護の実施要領の取扱いについて」(昭和38年(1963年)4月1日社保第34号厚生省社会局保護課長通知)第7-30)。
具体的には、「病気療養上著しく環境条件が悪いと認められる場合」や「就労の場所の付近に転居することが世帯の自立助長に特に効果的に役立つと認められる場合」などの条件が明記されています。マコトさんのケースは客観的に見てこれらに該当する事案でした。

また、転居はセイヤくんの健全育成の観点からも急務でした。セイヤくんが希望する帰国子女受け入れ校への編入には「帰国後3年以内」という厳格な期限が設けられていたからです。セイヤくんの場合は残り1年数か月。これを逃せば、適切な教育環境を得る機会を永久に失うことになりかねません。

「ブラックボックス化」する行政の対応

マコトさんは上述の「病気療養上著しく環境条件が悪いと認められる場合」「就労の場所の付近に転居することが世帯の自立助長に特に効果的に役立つと認められる場合」の条件をみたすことを示す客観的な証拠をすべて揃え、転居費用の申請を行いました。
ところが、福祉事務所は不支給決定を行いました。理由は「課長通知第7-30(上述の通知)の定める理由に該当するとは認められない」という定型的な一文のみでした。
行政手続法は、行政庁が不利益処分を行う際、同時にその理由を示さなければならないと厳格に定めています(同法8条)。これは行政の恣意的な権力行使を抑制し、名宛人が不服申立てを行えるようにするためです。したがって、理由付記の程度は、不服申立てが可能な程度に具体的なものでなければなりません。
最高裁の判例は「●●(法令の条文等)の要件をみたさない」と記載するだけでは適法な理由付記となり得ないと明確に断じています(最高裁昭和60年(1985年)1月22日判決参照)。
マコトさん側が詳細な理由の開示を求めても、福祉事務所は同じ定型文を繰り返すのみで、具体的な説明責任を完全に放棄していました。「課長通知第7-30(上述の通知)の定める理由に該当するとは認められない」という記載は、前述の通り、行政手続法および最高裁判例に照らせば、何ら理由の提示になっておらず、明らかに違法です。

「なぜ病気療養上の必要性がないと判断したのか」といった事実認定の過程が一切記されていない通知は、適正な審査義務の放棄であり、利用者を疲弊させる「ブラックボックス化」の典型例です。

説明責任の完全な放棄と「引き延ばし」

県もこの状況を認め、福祉事務所には理由を具体的に説明する義務があるとの見解を示しながらも、「県は何もできない立場。こういう意見が県に対してなされた、ということを福祉事業所側に伝えることならできます」と、あまり頼りになりません。
マコトさん側は、3月18日、これらの客観的事実を提示した上で「詳細な理由の開示」を求める追加書面を提出しました。前担当ケースワーカーは行政書士である私に対しても「詳細の理由を本人に示す」と回答していたにもかかわらず、10日以上待っても何の連絡もありませんでした。
やむなく、再度「詳細な理由を説明すると言われたので、待っています」と連絡をしたところ、3月31日に福祉事務所長名で発行された書面が届きました。それは、前回と一言一句違わぬ「課長通知第7-30の定める理由に該当するとは認められない」という文言でした。
約束を反故にし、具体的な理由を一切明かさずに同じ定型文を送りつける行為を、行政書士もマコトさんと共に目の当たりにし、呆気にとられるばかりでした。
現在、マコトさん側は「再申請や不服申し立て(審査請求)を行うためにも、まずは却下の具体的な理由を教えてほしい」と、県からも福祉事務所に連絡を入れてもらっています。しかし、福祉事務所からは現在に至るまで一切の回答がありません。理由が分からなければ不服申立てすらできません。利用者の法的な救済ルートすら事実上封じようとする不誠実な対応です。

司法が戒める「裁量権の逸脱・濫用」

生活保護行政においては、個別の事案の判断において福祉事務所(実施機関)にある程度の裁量が認められています。しかし、それは行政が「何をどう決定してもよい」という自由裁量ではありません。

過去の生活保護をめぐる数々の裁判例を紐解くと、司法は行政の恣意的な権力行使に対して厳しい目を向けています。
たとえば、生活保護費の返還決定をめぐる事案において、福岡地裁平成26年(2014年)2月28日判決は、「その判断が裁量権の行使としてされたことを前提とした上で、その判断要素の選択や判断過程に合理性を欠くところがないかを検討し、その判断が重要な事実を欠くか、または社会通念に照らし著しく妥当性を欠くと認められる場合に限って、裁量権の逸脱または濫用として違法となる」という明確な判断枠組みを示しています。
本ケースにおいて、福祉事務所の決定は、「主治医の診断」や「就労先の内定」といった自立に向けた極めて重要な事実を無視(あるいは不当に軽視)している疑いが強く、社会通念に照らしても著しく妥当性を欠くと言わざるを得ません。

実施要領にも違反する行為

精神疾患を抱え懸命に生きる利用者に対して「子どもを取り上げる」と迫り、医療機関に圧力をかける行為は、支援者としての職務から完全に逸脱しています。保護の実施要領においても、「生活保護の相談に当たっては、相談者の申請権を侵害しないことはもとより、申請権を侵害していると疑われるような行為も厳に慎むこと」と明記されています。
利用者の尊厳を傷つけ、恐怖で支配しようとする行為は、憲法25条が保障する「健康で文化的な最低限度の生活」の根幹を根底から破壊する看過できない問題です。
先の見えない行政の不作為と引き延ばしが続く現在も、マコトさんのめまいの症状は改善しておらず、体調は決して芳しくありません。それでもマコトさんは、「無理はしないようにしつつ、何とか息子のケアだけは死守したい」と、父親として必死に日常を支え続けています。
連絡をしても返事が来ない、後日回答するといった約束も守らない行政の不作為は、こうしたギリギリの状態で生きる親子の心身を、日々蝕んでいるのです。

「水際作戦」が形を変えて根強く残る実態

かつて、生活保護の窓口で申請用紙すら渡さずに追い返す「水際作戦」が社会問題化しました。
しかし、全国的な批判と裁判闘争を経て、あからさまな申請不受理は減少しつつあります。そもそも法律上は「受理」という概念自体あり得ず、申請があれば行政庁は審査を開始する義務を負うことになっています(行政手続法7条)。
ところが、本件のように「申請は受理するが、具体的な理由を示さずに不透明な裁量で却下し続ける」という、形を変えた巧妙な水際作戦、あるいは、兵糧攻めとも呼べる事態が、今なお各地の現場で起きています。

生活に困窮し、病気を抱え、日々の生活を維持するだけで精一杯の利用者が、役所から突きつけられた不支給の通知書を前に、一人で反論することは極めて困難です。
「お上が決めたことだから仕方がない」「これ以上反抗したら生活保護自体を打ち切られるかもしれない」という恐怖から、正当な権利であるはずの自立への道を諦め、泣き寝入りしてしまう方が数多く存在します。
しかし、行政の決定が、常に正しく絶対だということは、物理的にあり得ません。また、生活保護は恩恵や施しではなく、憲法と法律によって明確に保障された国民の「権利」です。
診断書等の客観的な証拠に基づいて法的な要件該当性を論理的に主張することは、行政の恣意的な運用に対する強力な牽制となります。また、行政不服審査法に基づく都道府県知事への審査請求という正当な手続きを通じて、誤った決定を覆す道も用意されています。


■三木ひとみ
行政書士(行政書士法人ひとみ綜合法務事務所)、社会保険労務士(ひとみ社労士事務所)。官公庁に提出した書類に係る許認可等に関する不服申立ての手続について代理権を持つ「特定行政書士」として、これまでに全国で1万件を超える生活保護申請サポートを行う。著書に『わたし生活保護を受けられますか(2024年改訂版)』(ペンコム)がある。


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