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今でもこの荘園の付近には当時農奴だった一部の人々が住んでいる。今年で75歳になるミマドンジュさんの家は壁一つ隔てて、悲惨な経験をしたパイラ荘園と向き合っている。ミマドンジュさんは「そこはこの世の地獄、まさに別の世界だ」と語る。
◆振り返るのが耐え難い生活
ミマドンジュさん夫妻はかつて農奴で、夫は荘園で衣服の仕立人、妻は使用人をしていた。二人がかつて住んでいたのは、荘園の中の7平方メートル余りの小屋だった。「暗くひんやりして、昼間でも物ははっきり見えなかった」。地面に土を盛って“ベッド”を2つ作り、住むこと11年。
娘が生まれると、3人は狭い小屋で肩を寄せ合い、ぼろぼろになった2枚の羊の皮で温まり、寝た。お腹は満たされず、着る物も寒さをしのげず、これがミマドンジュさん一家の普段の生活だった。農奴の食物は毎月、わずか2.5-30キログラムのハダカムギだけ。一家は計画を立てて食物を口にし、ひもじければ、水を飲んだ。
旧チベットでは、領主が仕置場を私設して、農奴を殴ったり、危害を加えたりすることは日常茶飯事だった。
◆幸せで農地に酔いつぶれる
チベットでは1956年、各地で相次いで民主革命が行われ、数多くの農奴が人身の自由を束縛していた足かせから抜け出し、生産・生活手段を手にし、真に解放されて主人となった。
ミマドンジュさん今でも記憶している。59年秋の豊作時、畑はハダカムギが立派に生長していた。この年、パイラ荘園の土地・財産を分配する大会が開かれ、全郷(村)から500人余りが参加した。
一人あたり7畝(1畝=15分の1ヘクタール)の規定に沿って、ミマドンジュさんには一家3人分として21畝の土地が分け与えられた。このほか、およそ168キログラムの穀物や掛け布団、衣料品などの生活用品が配分された。
土地の配分は、当時最も公平だとされる方式で行われた。すべての土地を区画して番号をふり、担当者が小さな紙にその番号を書き、それを丸めて帽子の中に入れる。そして、地元の住民が帽子の中にある紙をつかみとる。そうすることで、住民は自分の土地がどこにあるかを知り、自分の土地に、名前と畝数を明記した木製の札を掲げるという仕組みだ。
一枚の紙、一つの札、最も簡単な民主形式がチベットの歴史に新たな一頁を切り開いた。「土地を分け与えられて、みんな喜んだ。30人の農奴の仲間がハダカムギで作った酒を求めに来た。ここに座り、酒を飲みながら祝った。その日の午後はみんなが至極の酒を飲み、最後には農地に酔い倒れたものだ」
◆新生活では選択する権利が
ミマドンジュさんは「農奴には人身の自由はなく、荘園主の絶対的支配下にあった。自分だけでなく、孫の世代さえも一生うだつが上がらなかった。土地と財産が分与されてからは、自分が努力しさえすれば、よい生活が送れることがわかった」と言う。
2000年、ミマドンジュさんは政府の助成を受けて乳牛を購入し、牛飼育の専業農家になった。4頭いる乳牛による純年収は5000元(約7万円)。牛舎の建設でも政府の支援を受けた。現在、33畝の土地を持ち、優良品種のハダカムギを普及させているところだ。1畝あたりの年間生産量は350キログラム。
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