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芸術は爆発だ! 科学も爆発だ!


──農薬入り餃子事件とか、豚インフルエンザ問題とか、それこそ今回の原発事故とか。そういう大きな事件が起こったときに、聞き慣れない物質や科学的現象の名前が次々に出てきて、みんなよくわからない不安にさいなまれたりしますよね。
でも、鹿野さんはそういうときに、mixi日記やtwitterで解説してくれます。それを読むことで、わたしなんかはかなり不安が軽減されるんです。
鹿野 はあ。
──今回、鹿野さんにインタビューをお願いした理由のひとつは、その辺の安心感を、エキサイトレビューの読者にもおすそ分けしてあげたいと思いまして。
鹿野 はあ。
──なぜ安心できるのか。
そのひとつには鹿野さんの人柄があると思います。科学者や評論家って、いつも論争しているイメージがありますけど、鹿野さんは論争しませんよね。
鹿野 まあね。
──それに鹿野さんの書くものって、科学をあつかっていながら非常にくだけた文体で、しかもわかりやすい。
鹿野 そうねえ……。オレはさ、ようするに「これっておもしろいよね?」っていうことがやりたいわけ。
だけど、科学ってすごく権威的なものと結びついちゃってるからさあ、正しい、正しくないって話になると、それでおもしろさが見えなくなっちゃうところがあるんだよね。
──こういう言い方をすると誤解を受けそうですが、鹿野さんは“おもしろがってる”んですよね。
鹿野 うん。世の中のいろんなものを見て「びっくりしたなあもう」って言ってるだけなの。でも、科学の本質ってそこなんですよ。科学の本質と芸術ってすごく近いところがあって、たとえばそのー、「芸術は爆発だ!」って岡本太郎が言いました。

──言いました。
鹿野 人間ってね、思春期を過ぎる頃になると世の中のことってみんなわかっちゃうのね。だいたい10代半ばになると世間のことなんかわかったつもりになるわけですよ。
──つもりに、なりますね。
鹿野 そうなると、世の中はどんどんつまんなくなるの。で、芸術は爆発だ、っていうのも同じことで、芸術はこういうものだと型がはまってしまうと、その型の中で純化されるけれども、深いところで飽きてくるんです。
たとえば、JAZZとかROCKというものが生まれたときは、それ以前の音楽のスタイルを決めていた枠組みが壊れて、新しいものが生まれる瞬間があったわけ。それが「芸術は爆発だ!」という言葉の意味しているところだと思うんだけど、サイエンスっていうのも基本的にはそういうものなのね。人間が素朴に考えてると、まあ、自然ってこんなもんだよねって、みんなごく普通にわかってるつもりになって退屈しちゃってる。だけど、実はそうじゃなかったんだよ! っていうのが、科学でいちばんおもしろいところ。有名な例でいうと、昔の人は地球が宇宙の中心だと思ってたよね。
──はい。

鹿野 ああいう天動説から地動説へコペルニクス的転換なんてのも、みんなが常識的にはこうだよねって思っていたのが、ガラッと変わるってことなの。そんなことをしょっちゅうやろうとしてるのが科学のスタイル。人間の営みとしての科学のおもしろさっていうのはそこにあるの。だから、そこの「へえ~、そうなんだ!」っていうおもしろさをみんなと共有したいと思ってるのがオレの根本的なところで、正しいことを言うというよりも、正しいと思われていることを壊すことの方がたのしいし、それが科学の本質でもあるんですよ。もちろん、なんでもかんでも無秩序に壊せるわけではなくて、それなりにみんなが納得のいく形、ルールに則ってでないと壊せないわけだけど、そうした縛りのところがおもしろい。
──その場合、当然、反発もありますよね?
鹿野 さっき言った「科学の人がみんな喧嘩しているように見える」っていうのはまさにそれで、常識だと思っているものを壊すのはすごく大変なことなわけですよ。
だからみんな喧嘩してるように見えてしまう。大多数の人が、なるほどその通りですと言わざるを得ないくらい説得力がないといけないんだけど、みんな容易には常識を曲げないから「それはちがうだろう!」とか、説得合戦みたいなのが起きるんだよ。
──説得合戦。おもしろい言葉ですね。
鹿野 ただ、それは弁舌が巧みだから説得できるわけではなくて、人間がいくらもっともらしいと思っても、自然はそうなってないもんねって、誰にも文句がつけようない形で示したほうが勝ち。元々、科学の実験っていうのも、説得するための技術として出来てきたものなのね。ガリレオが望遠鏡をのぞいて「地球が太陽の周りを回っている」って言ったのも、ピサの斜塔からいろんなものを落としたのも、それで新しい発見があったというより、論敵に勝つための証拠としてやったことなの。歴史的に見ると、そういうところはあるんですよ。



理性的な考え方の出来る人がたくさん必要


──3月11日のあの瞬間、鹿野さんはどちらにいらっしゃいました?
鹿野 自宅にいました。いやあ、揺れましたね。それまでは、地震があったらtwitterで「ゆれてるー」とか書いていて、あの日も地震が起きて「ゆれゆれー」とか書いてるうちに周りでガンガンものが落ちはじめてさ、パソコンも倒れかけて「これ、初期微動でこんなに大きいの!?」って思った。
──これまで防災対策なんてしてましたか?
鹿野 寝るところには背の高い本棚をおかないようにしてたかな。本は別の一室にまとめてあるんだけど、いちおう本棚を壁に留めてある。でも、今回の東北での揺れくらいになると、何やってもムダかなあ。本のあるところにいたら確実にアウトでしょうね。
──うちは布団を敷いている横に本棚があるんですけど……。
鹿野 まあ死にますね。
──えー。
鹿野 だって、コンクリートにボルト留めしてあるような大学の図書館の書架が、みんなぶっ倒れてるんだから。
──原発が爆発したときはどう思われましたか?
鹿野 そりゃおどろきましたよ。
──テレビや新聞では「メルトダウン」なんて恐ろしい言葉も目にしました。
鹿野 たしかに「メルトダウン」って言葉はニュアンスがきっついんだよね。あの当時は、メルトダウンなんて言うと、映画の「チャイナ・シンドローム」くらいしか思い浮かばなくて、すべてドロドロに溶けてもう誰にも止められない、みたいなイメージだったでしょう。言葉としては、まあメルトダウンとか炉心溶融しかないんだけど、今回の状況はその映画的な強烈なイメージそのものかというと、やっぱいろいろ違っているから。
──震災の日からずっと、鹿野さんはtwitterでいろいろな情報を発信していました。そこには何か使命感のようなものがあったのでしょうか?
鹿野 うーん、地震直後の段階ではぼくも福島のことについて何か言えるような知識はなかったけど、最初の日に都内のみんなが家に帰れなくなってたから、どこそこに休むとこがありますよ~とか、ガスが止まったりしたので再起動するための方法とか、その程度のことをリツイートしたりはしてたよね。まあ、役に立つことはみんなで共有しましょうよ、ってだけのことだから。
──でも、おかげでわたしもずいぶん安心できました。
鹿野 オレが思うにはねえ、さっきの「権威的になるとおもしろいことが伝えられなくなる」っていうのと同じでさ、いまのメディアのスタイルって基本的に人をバカにするところからはじまってて、それがよくないなあって思うんですよ。現政権でも前政権でもいいけど、何か自分の直感とはちがった政策を耳にすると「バーカバーカ」って言うわけよ(笑)。だけど、ちょっと常識とちがうこと言ってるな、と思ったら、そこにはなんかワケがあるんでないの? ってオレは思うんだよね。
──そういう風に考える人の方が珍しいと思います。鹿野さんご自身もよく常識とちがうことを言ったりするので「バーカバーカ」って言われるでしょう?
鹿野 ま、おれはそういうのは無視するからね(笑)。
──鹿野さんの偉いのは、そこで論争をしないんですよね。
鹿野 それはね、ひとつは「人は説得できない」と思ってるからなのね。ようするに、人が何かを受け入れるときっていうのは、そのことについてまったく興味がないか、まだ知らない新しいことを聞かされたときであって、ちょっとでも自分はわかってるんだって思っていることだと、相手の説得は受け入れないんだよ。だから、オレに出来ることっていうのは、「オレはこういう風に考えるんだけどな~」って並べておくだけなの。
──それで納得したら、この知識をお持ちかえりください、と?
鹿野 そうそう。でもまあ、知識というより考え方かな。オレは自分が言ったり書いたりしてることを、額面通りに信じこんでほしくないんだよね。もちろん、オレが何か書くときはかなり調べたり考えたりしてて、自分で信じてるものしか出さないけど、それでも、それでいいとは限らないもんね。そういう結論的なところよりも、たとえば世間でこうだこうだって決めつけが起きてるようなときに、ああいうこともあるし、こういうこともあるし、そうだとするとこうなんじゃないの? っていう、考え方のプロセス込みで書いてるから、読者には、そりゃあおかしいんでないのとか、そういうことも考慮するといいかとか思いながら、自分なりに考えてほしいのね。ツッコミも入れやすい仕様になっております(笑)。
──だから論争しない?
鹿野 基本めんどくさがり屋だからなあ。まあ、最初にバーカバーカと言う無礼者は無視ね。まあ、そういうんじゃなくて、話して有意義なことが起きそうな人とは話すけど……。あと、議論するとしたら聴衆がいるときかな。オレは議論を闘わすときは、相手を凹ましても意味なくて、プロセスを第三者に見せるのならいいかなって思ってるのね。
──第三者に見せるのが重要。
鹿野 そう。で、そういうときには下品なことを決してしない。あくまでも理性的に話す。そうすると、そのうち相手の人は人格攻撃とかしてきたりすることもあるんだけど、そういうのは無視するの。まあ、態度が下品な人ってのは、ただそれだけで説得力を失うからね。オレが意識してるのは、議論の相手じゃなくてく聴衆なの。
──相手を無視すると「逃げた」とか言われませんか?
鹿野 いや、おれも論争するときはそう簡単にやめないよ。相手を凹ますようなことは言わないけど、向こうが「やめます」って言わない限りはやめないから(笑)。でも、メンドクサイから、滅多にわざわざ議論はしない。まあ、そんな風に誰かを説き伏せるよりも、自分が理性的とか合理的であるって思うようなことを、どう考えたか筋道も込みで並べておくだけ。そうすれば世の中にはわかってくれる人が必ずいるから。
──少なくとも鹿野さんの友人関係にはそういう人が多いですね。
鹿野 やっぱりこう、“3.11後”にすごい感じるのは、いまこそ民主的な社会をちゃんと作らないとダメなんじゃないかってことなんだよね。民主的な社会には、そういう「理性的な考え方の出来る人」がたくさん必要だから、そういう人が少しでも増えてくれたらなあとは思ってるんだなあ。
(とみさわ昭仁)

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