「国民的アニメスタジオ」のスタジオジブリ。
日本のここ20年の興行収入ベスト10を見てみると、『踊る大捜査線』シリーズ以外はすべてジブリの映画だ。
2013年の『風立ちぬ』も大ヒットになった。
ジブリについて語る人は多い。

さやわか ジブリには「語りやすさ」と「とらえどころのなさ」がある!
渡邉 ジブリは日本の「ありえたかもしれない可能性」なんです。

ただ「ジブリってなんなの?」と考えると、いまいちはっきりしない。宮崎駿の作品を思い浮かべる人もいれば、高畑勲作品や、宮崎吾朗や米林宏昌作品をひっくるめて考える人もいるだろう。
トークイベント「さやわか式☆現代文化論第3回」のテーマは「スタジオジブリ」
『AKB商法とはなんだったのか』のさやわか『イメージの進行形―ソーシャル時代の映画と映像文化』の渡邉大輔がジブリについて語った。


■ジブリといえばこの三人

ジブリについて話していると、どうしても宮崎駿・高畑勲・鈴木敏夫の三人について触れたくなってしまう。

さやわか 宮さんの作品は一種のセカイ系。少女的なものとグズグズに一体化する。パクさんはその反対で、一体感なんてまったく感じさせない。『かぐや姫』なんて一体感どころか「死ね!」って感じの突き放し方だった。
鬼畜だなーあの人! よくあの二人が一緒に映画を作れてたよね。

2013年公開のドキュメンタリー映画『夢と狂気の王国』も、彼らの関係について捉えようとした映画だった。

さやわか 鈴木さんの、宮さんやパクさんとの関係は、まさに漫画家と担当編集者。鈴木さんはもともと徳間書店の編集者だったけど、ジブリでの立ち位置も編集者的。……そもそも、ジブリってアシスタントがたくさんいる漫画家みたいなものだよね。漫画家さんがいなくなったら、アシスタントだけでは続けられない。



■これからのジブリはどうなるのか

さやわか いまの日本の文化は「グローバルなもの」と「タコツボ的なもの」が二極化していて、中間的なものが痩せほそってきている。ジブリはその「中間的なもの」。インフラや空気みたいに行き渡って、いまの表現者にとっての「発見」の入口になってる!

表現者だけに限らず、ジブリの映画はさまざまな人に大きな影響を与えている。引退の宣言と撤回を繰り返す宮崎、一本撮るのに凄まじい期間を使う高畑。ジブリの中核を担っていた二人が「映画を作れなくなる時」はそう遠くない。

さやわか これまでのジブリは、宮さんやパクさんが拘泥している問題があって、そこで綱引きをしている感じだった。
その主題は二人の引退とともに一つ区切りがつきつつある。これからのジブリはどうなるんだろう?

うーん、と考え込む二人。答えはかんたんには出ない。

渡邉 残ったのはジブリ映画を享受した30代の我々。もうバルス祭りしかない……!

『天空の城のラピュタ』でおなじみの「バルス」。Twitterでみなが一斉に「バルス」を呟く「バルス祭り」。
もともとは自然発生的なものだったが、いちばん最近の金曜ロードショー(2013年8月2日)では鈴木敏夫が見守るなど、恒例のイベントになっている。

渡邉 僕は『今年のバルスはどうかな!?』って楽しみにしている。「みんなでバルスって呟こう!」という共時的な映画の消費は、新しいんだけどある意味古い映画の見方。これは日本映画史的にでかいんです。ここに可能性がある!


■「語りやすい」ジブリ作品

「ジブリとは?」という大きなテーマだけではなく、個別の作品語りもアツかった。

さやわか 宮崎作品と高畑作品は、とにかく物語構造について語りやすい!

例として出されたのがYahoo!の映画レビュー。
『風立ちぬ』についてこう言い切っている人がいる

「この映画は 男は仕事、 女は家で黙って従うのが美しい。 という映画です」

この意見が正しいかどうかではなく、とにかく「これは○○の映画」として言い切りやすい。そのうえ、他のジブリ作品どうしを比較して語ることもできてしまう。
たとえば『風の谷のナウシカ』と『もののけ姫』。どちらも「自然vs人間」がベースで、第三項(仲介者・境界的な人物・放浪者)の主人公が関わっていく……というふうに構図の説明ができる。他にも『魔女の宅急便』と『千と千尋の神隠し』(文明と自然の橋渡し的存在の主人公)、『紅の豚』と『風立ちぬ』(ダンディズム・シンシズム・スノビッシュ)などはよく言われているものだ。
似ているだけではなく、お互いがお互いの批判になっている(ように見える)作品もある。『風立ちぬ』と『かぐや姫の物語』なんてまさにそうだ。

さやわか この二つ、同時上映しなくて本当によかった! もしこれを連続で見てたら、わけわかんなくなっちゃってたと思う。


■ジブリは「生まれたかもしれないもの」でできている

渡邉はジブリを映画史から見た。

渡邉 「ジブリとは何か?」は『風立ちぬ』と『かぐや姫の物語』で考えるべきなんです。『風立ちぬ』はまさに小津安二郎作品だし、『かぐや姫』は日活の衣笠貞之助の歴史絵巻。宮崎さんと高畑さんのルーツである東映動画の影響です。この「東映への意識」は、細田守監督にも見られますね。

宮崎と高畑は、東映動画から独立した人々だ。東映動画の歴史をさかのぼると、満州映画協会にたどり着くのだという。戦時中の満州映画協会では、かなり実験的にアニメーション映画を作っていた。手塚治虫以降、リミテッドアニメーション(動きを簡略化したアニメ)を作らざるをえなくなった日本だが、はじめはディズニーのようなフルアニメーション(動きを忠実に再現しようとするアニメ)を目指していた。

渡邉 ジブリの映画は、満州映画協会の流れにあるように思える。拡張現実のよう。「もし日本が戦争に負けなかったら」生まれたかもしれないものがマッシュアップ的にくっついている。


現在も未来も、わかったようでわからないジブリ。大きな変化のトリガーの一つは宮崎駿の引退にあることは間違いない。最後の質疑応答で、観客から「宮さん、いつ辞めるんですかね?」と聞かれた渡邉はこう答えた。
「満足することはないから、辞めることはない。あと一作すごい駄作を作って死ぬと思います!」
(青柳美帆子)