夫の海外赴任が直前で中断になった日。「それなら自力で行こう」と決めた瞬間から、山縣さん家族の教育移住は始まりました。


住まいも学校も見学なしで決め、家族3人でマレーシア・クアラルンプールへ。半年がかりのビザ取得、円安と物価高、先生の英語さえ聞き取れなかった入学直後の2~3週間。さまざまな苦労を経験しつつ、3年半が経つ頃には、宗教も国籍もばらばらな多民族社会のなかで、親子ともに多様性への適応力と、どこにいても自分らしく生活を楽しめるという経験値を身につけました。

移住前の決断から、現地での暮らし、そして帰国後まで。即決で踏み出した家族の3年半を、率直に語っていただきました。

【保護者プロフィール】
お名前:山縣 優香さん(仮名)
年齢:41歳
移住前の居住地:広島県
家族構成:3人家族(母・長男・長女)

【子どものプロフィール】
お名前:山縣 晴翔くん、陽菜ちゃん(仮名)
現在の年齢:11歳・10歳
性格:晴翔くん:穏やか/陽菜ちゃん:明るい

【移住の概要】
移住先:マレーシア・クアラルンプール
移住元:広島県
移住時期:2022年7月~2026年2月
移住形態:家族移住
子どもの年齢(移住当時):8歳・7歳
学校:Sayfol International School(英国式カリキュラム)
学費:一人あたり約80~90万円/年
準備期間:約4カ月
見学校数:0校

■夫の赴任が直前で白紙に。「それなら自力で行こう」──家族でマレーシアへ向かった理由
——まずは、教育移住を考え始めた経緯から教えてください。

きっかけは大きく2つあります。

1つは、私自身の海外経験です。大学生の頃、オーストラリアで1年間ワーキングホリデーをしていたんです。海外で暮らしてみたいという気持ちが、ずっとあって。子どもが生まれてからは「子どもと一緒に海外で過ごしてみたい」という気持ちも重なるようになりました。


もう1つは、当時の夫の海外赴任です。夫はニュージーランド出身の英語ネイティブで、フィリピン・セブ島への赴任話が移住の4年ほど前から進んでいて、私たち家族も、心の準備から実務的な準備まで一緒に進めていました。

ところが、出発直前にその話がなくなってしまったんです。「それなら、自分で計画して移住しよう」。そう決めたのが、2022年の春でした。

——移住先にマレーシアを選ばれた決め手は何でしたか?

知人がマレーシアに住んでいて、その方の話を聞いたのがきっかけでした。検討した国はマレーシアの1カ国だけ。ほぼ即決です。

決め手は、治安が比較的良いこと、学費が抑えられること、物価も安いこと、そしてインターナショナルスクールの選択肢が多いことでした。日本食材を扱うお店が多い点も、決断を後押ししました。特に学費は、欧米圏のインターと比べて大きく抑えられる印象で。無理なく生活を続けられそうだと感じられた国でした。


——お子さんへは、どのように伝えましたか?

セブ島へ行く予定があることは知っていて、行き先がマレーシアに変わったことは特に気にしていませんでした。留学ではなく家族全員での移住なので、その点は安心材料の1つだったかもしれません。

■準備期間4カ月、見学0校で決めた学校と住まい──「完璧を待たない」スピード移住
——準備期間は4カ月とのことです。教育移住の準備としては短い印象もありますが、実感としてはいかがでしたか?

4カ月でも意外と十分だったというのが、率直な感想です。リサーチをしようと思えば、いくらでも時間はかけられます。学校をいくつも調べて、立地もこだわって……となれば、半年から1年はかかる。もちろん、じっくり調べて準備を行い、移住するのも選択肢の1つだと思います。そのうえで、ある程度のところまでで区切りをつけて動き始めるほうが、私たちにとっては良いだろうと考えて、今回はスピードを優先しました。

——現地で通う学校はどう選んだのですか?

最終的に選んだのは、Sayfol International Schoolというインターです。情報収集は、学校のホームページやInstagramを中心に行いました。実際に現地で見学はせず、いくつか問い合わせをしたなかで、最も良さを感じた学校に決めました。最終的な決定理由は大きく2つです。


1つはローカル色が強くて先生たちも気さくで、勉強の一辺倒ではなく、いい環境で学校生活を送れそうだと感じられたこと。もう1つは、校舎のフィールドが広くて緑が多く、のびのび過ごせそうと感じられたことです。また、都心にありながらも周りは緑豊かな閑静な場所という土地柄も気に入りました。

インターのなかには、建物自体は新しくても閉鎖的な造りの学校もあります。それと比べて、Sayfolは教室を出ればすぐ外に出られるような開けた構造になっていて。子どもたちには、そういう環境のほうが合いそうだと感じたんです。

——カリキュラムやプログラムの面でのこだわりはありましたか?

特にありませんでした。それよりも、設備や校舎も含めた、学校全体の雰囲気のほうが優先順位は高かったです。

——マレーシアでのお住まいも、日本にいる間に決めたのでしょうか?

はい。マレーシアの不動産サイトを使い、現地の担当者に直接英語でコンタクトを取りました。きちんと対応してくれそうな担当者と、納得のいく物件。その両方がそろったところに決めました。
学校と同様、現地での見学はおこなっていません。

——学校も家も現地で見学せずに決めるのに、不安はなかったですか?

もちろん、不安がゼロだったわけではありません。ただ、私のなかでは判断する材料はそろっていました。そのうえで「いける」と思えたら、あとは動き出すだけだったんです。

「完璧な情報がそろうのを待っていたら、いつまでも踏み出せないだろう」という気持ちも、行動の後押しになっていると感じます。

——渡航前後の準備で、いちばん大変だったことは何ですか?

真っ先に思い浮かぶのは「ビザの取得」ですね。

私が渡航したのは、ちょうどコロナ禍からの国境再開直後でした。受け入れの運用ルールがまだ流動的だったのは事実ですが、学生ビザや保護者ビザは、入国後に手続きして申請が下りるのが一般的な流れでした。日本で準備してこなかった書類も追加で求められ、マレーシアから取り寄せるのにとても苦労しました。

ところが、現地に着いてからもルールが次々と更新されていきました。最初は不要と言われていた書類を後から求められたり、新しい要件が追加されたり。学校のビザ担当の方ですら、状況に振り回されている印象でした。
結局、ビザが下りるまで申請開始から半年ほどかかりましたね。

——ビザ以外の準備や手続きは、比較的スムーズに進んだ印象でしょうか。

そうですね。ビザのこと以外では、特に大きな苦労をした記憶はありません。住居の契約も、現地での生活の立ち上げも、想像していたよりは順調に進みました。

——その理由としては、何が大きかったと思いますか?

パッと思い浮かぶのは、住居の契約もビザの手続きも、マレーシア側の担当者と英語で直接やりとりして進めたことです。その面ではとてもスピーディに手続きを進めることができました。良い担当者に当たったのもラッキーだったかもしれません。実際、英語が苦手で現地の手続きに苦戦されているお友だちの話も聞いていました。そう考えると、うまくいった理由の1つと言えるかもしれません。

■クアラルンプール中心部での暮らしと、円安が効いてきた家計のリアル
——住まいはどのようなエリアで、生活の足はどう確保していたのでしょうか?

住まいはKLCC(クアラルンプール・シティ・センター)周辺です。中心部に位置していて、移動はGrab(タクシー配車アプリ)が中心でした。
車は持たず、毎日Grabで学校の送り迎えをしていたほどです。

呼べば数分で配車され、近距離なら1回200~300円ほどで移動できます。KLCCのような中心部では、配車サービスが移動インフラとして十分に機能していて、周りの家族も車を持っていない人はたくさんいました。

——学校がある日の1日の流れは、おおまかにどのようなものでしたか?

まず、朝7時前には家を出ないといけないんです。日が明けきらない、薄暗い時間帯からの登校なので、最初の数週間は親子ともに慣れるのに苦労しました。

朝食は学校で食べる文化です。これはうちの学校に限った話ではなく、マレーシアのインターでは朝食を学校で取る形式が多いようでした。そのため、朝食用と昼食用の2食分のお弁当を、毎朝用意して持たせていました。送り出しの準備としては、それなりに負担のかかる部分でしたね。

下校は14時くらいが基本です。放課後にクラブ活動へ参加する子は、それが終わる15時過ぎまで学校に残ります。クラブは希望者のみの選択制で、強制ではありませんでした。

——日本と比べたとき、授業の進め方や勉強の中身で、特に違いを感じた点はありましたか?

いちばん違いを感じたのは、授業のスタイルでした。プレゼンテーションやグループワークの機会が多く、人前で発表したり、自分の意見を言葉にしたりする場面が、日本の小学校よりずっと多い印象です。

英国式カリキュラムに共通する特徴のようで、子どもにとっては、自然とコミュニケーション力を鍛える機会になったかもしれません。宿題は毎日しっかり出る形式で、量や頻度については日本と大きく変わらない感覚でした。

成績の付け方については、思っていたほど厳しくはなかったですね。学期末にテストがあり、その結果を保護者とのミーティングで、先生から直接共有してもらう形でした。テストの点数で進級の可否が決まったり、習熟度別にクラスが振り分けられたりするといったこともなかったですね。

——移住直後、お子さんが環境や文化に慣れるまでの様子はいかがでしたか?

最初の2~3週間は、やはり大変そうでした。100%英語の環境にガラッと変わったので、先生の話していることも、お友だちの話していることも、当然最初はわからない。加えてマレーシアの英語は訛(なま)りが強く、英語を話せる私が聞いても、先生の言っていることがわからないくらいでした。

家庭では生まれた時から英語に触れて育ってはいたものの、それはあくまで日常会話レベル。授業で使う英語とはまた違いますし、机に向かって事前学習をするようなこともしていなかったので、子どもたちにとってはかなりハードなスタートになりました。

加えて、朝7時前の登校という生活リズムや、学校で朝食を取る習慣の違いも、慣れるまでは負担になっていたと思います。家庭でもできる限りのサポートをしましたが、最終的には本人たちが自分で慣れていくしかありません。

とはいえ、つらそうな様子を見て、当時は「どうしてあげられるだろう」と毎日悩みもしていました。

それでも、子どもの適応力や耳の慣れは早いものです。1カ月が経つ頃には、何事もなかったかのように学校生活にも、日常にもすっかりなじんでいて、私もひと安心できました。

——学費・生活費はどのくらいかかっていましたか?

学費はSayfolの場合、年間で1人80~90万円ほどでした。マレーシアにはインターが数多くあり、学費の幅も広いです。Sayfolは、そのなかでもコスパの良いレンジに入ると思います。

月々の生活費は、家賃を含めて約25万円でした。入学時には制服や教材一式でまとまった出費がありましたが、それを除けば、生活面で大きな出費の記憶はあまりありません。物価自体が当時はまだ安く、車も持たずGrabで移動していたので、固定的にかかる費用も限定的だったんです。

——マレーシアでのお仕事は、どのように続けていましたか?

日本にいた頃から、リモートで完結する仕事をしていました。マレーシアに渡ってからも、その勤務形態をそのまま継続できたんです。ただ、毎日の送り迎えがある分、フルタイム勤務には工夫が必要で。時差をうまく使って7時に始業できる仕事に転職し、子どもの下校時間に間に合うところまで勤務時間を調整しながら、働いていました。

その後、円安と物価上昇のダブルパンチで金銭面にも不安が生じ、より給与水準の高い仕事に転職しています。ただ、リモートで日本企業に勤める形態自体は変えませんでした。

——円安や物価高の影響は、いつ頃から実際に感じ始めたのでしょうか?

2024~25年あたりから、じわじわと感じ始めました。私が渡航した頃にネット上で出回っていた情報の多くは、「マレーシアは日本の物価の2分の1から3分の1で生活できる」というものでした。当時はまだ、その通説と実態が大きくは外れていなかったかもしれません。

ただ、私たちが帰国する頃には、その情報はほぼ通用しなくなっていた印象です。クアラルンプールの中心部に住むなら、日本と同じか、むしろ高くつくくらいの感覚でしたね。

——具体的に、どのくらい変わったのでしょうか。

1リンギットあたりのレートで言えば、私が渡航した2022年頃は30円弱でした。それが2026年に帰国する頃には、40円ほどまで上がっていたんです。10円の差は、日常生活を過ごすうえでも大きく響きましたね。

加えて、マレーシア国内の物価そのものも上昇しています。給与は日本円で受け取っていたので、現地で使う際の目減りと、現地の物価上昇という二重の影響を同時に受けた形です。家賃を例に挙げると、現地通貨であるリンギットベースでも年々上がり続けていて、それを日本円に換算すると、想定よりずっと大きな差として家計に跳ね返ってきました。

■「自分は自分、あちらはあちら」──多民族社会で身につけた距離感
——マレーシアでの3年半を経て、お子さんたちに見えた変化のなかで、特に印象的な点を教えてください。

英語の力ももちろん磨かれましたが、それ以上に、「多様性への理解が子どもたちの性格形成に与えた影響」が印象深いです。私たち日本人とは異なる考え方や価値観を持つ人たちが、日常のなかに当たり前にいる。そういう環境のなかで、同級生や先生と関わることに、時に戸惑いも感じていたようです。

そのうえで、自分軸を持って過ごす感覚を、子どもたちが無意識のうちに身につけていったように見えました。その日あった出来事を親子で会話する際に、文化的な背景を交えて考えるような場面が日常的に多かったです。そのなかで、自分のアイデンティティを確立していったような印象があります。3年半で育っていったのは、まさにこの「自分を持つ強さ」だと感じます。マレーシアでの経験を通じて、「日本を出てどこに行ってもやっていける」という感覚も、子どもたち自身のなかに根づいたかもしれません。

——マレーシアは多民族国家として知られていますが、現地で暮らすなかで強く印象に残ったことはありますか?

マレーシアはマレー系(その多くがムスリム)の方が人口の多くを占める国です。たとえば、ハラル以外のものを口にしない、女性が髪を覆うといった、ムスリム特有の約束事も少なくありません。それに加えて、インド系、中華系の方々も大きな割合を占めていて、それぞれが固有の文化や宗教を保ったまま、共存しています。

3年半を通じて私の印象に残ったのは、文化的なバックグラウンドが異なる人たちどうしが、うまく距離感を取りながら生活を共にしている光景です。お互いをリスペクトしつつも、過剰には踏み込まない。「私は私、あちらはあちら」という、ちょうどいい距離を保ちながら、社会全体として成立している。日本にいたら、なかなか触れることのなかった感覚かもしれません。

——お子さんたち自身は、その環境のなかでどのように友達関係を築いていましたか?

クラスメイトを見ても、宗教も国籍もばらばらです。それぞれが違いを抱えたまま、お互いを受け入れて毎日を過ごしている。普段のお友だちとの関わり合いを見ていて、その様子を感じ取っていました。

私が言葉で教えたわけでも、何かを諭したわけでもありません。子どもたち自身が、毎日の暮らしのなかで自然と身につけていった感覚なのだと思います。——山縣さんご自身が現地で築いていた、保護者どうしのつながりについても伺えますか?

保護者たちのなかにも、それぞれの形で日常を支え合うつながりがありました。特に、日本人のママ友どうしは、結束が強かったですね。学年ごとにLINEのグループを作って、行事の連絡から生活面の細かな情報まで、頻繁にやりとりしていて。私自身も、本当に助けられた存在でした。

一方、ローカルのママ友との付き合い方は、まったく異なるものでした。日本人のように細かく予定を立てて集まるのではなく、前日に「明日、誕生日会するから来てね」と急に誘われたり、ドタキャンもごく普通にあったり。約束を交わす感覚そのものが違いましたね。

——それは、戸惑いとして残るのではなく、良い違いとして感じられましたか?

はい。相手のことをリスペクトしていないわけではなくて、お互い気を使いすぎずに気楽に関係を保てる。日本人どうしの付き合いとは少し違う、良い意味での余裕やおおらかさがありました。

——3年半を振り返って、もっとやっておけばよかったと感じることはありますか?

ローカルのママ友を、もっと作りたかったです。私はリモートとはいえ仕事をしていたので、平日のランチに出かけるような時間の余裕があまりなかったんです。仕事をされていないお母さんたちはお互いに頻繁に集まり、現地のいろんな場所を一緒にめぐっているようでした。せっかく海外で暮らしていたのに、現地で暮らしてきた方々との接点を広げきれなかった。3年半を振り返って心残りなのは、その点ですね。

ただ、1人とても仲良くなった中華系マレーシア人のお友だちがいて。ローカルの彼女にいろんな場所へ連れて行ってもらったり、友人たちの集まりに呼んでもらったりして、彼女のおかけで「マレーシア生活を満喫した」と言えることにとても感謝しています。帰国前にも、たくさんの友人を集めてお別れ会をしてくれました。ローカルのお友達とのつながりは、海外生活に大きな意義をもたらすと感じます。

——帰国を決断されたのはどのような理由からだったのでしょうか?

1つは、息子がサッカーを本格的にやりたいと言うようになったことです。マレーシアでも現地のクラブチームなどを探したのですが、本人が望むレベルの環境を見つけられませんでした。日本のほうが本格的に取り組める環境があると判断して、いったん戻ろうと決めたんです。

もう1つは、学費負担の問題です。先ほども触れたとおり、円安と現地の物価上昇という2つの圧力で、インターの学費自体も毎年上がり続けていました。家族3人での教育移住をこの先も続けるのは、現実的に厳しいラインに入ってきていたんです。

もともと、移住前から「2~3年程度」という期間を想定してはいました。最初から長期定住ではなく、ある程度のところで日本に戻ることが前提の移住。なので、計画通りといえば計画通りだったとも言えます。

——2026年2月に帰国されたとのことでしたが、お子さんたちのその後の学校生活はいかがですか?

4月から、息子が新小6、娘が新小5として、広島県内の小学校に通い始めました。引っ越しの関係で、移住前に通っていた学校とは別の小学校に編入しています。

日本の学校生活への復帰は、思った以上にスムーズでした。ただ、漢字だけは少し大変そうにしていますね。マレーシア滞在中も、いずれ帰国することは前提だったので、家庭で日本語の本を読ませたり、漢字ドリルに取り組ませたりはしていました。

それでも、3年半のブランクを完全に埋めるところまではいかなかったようです。日々の学校生活のなかで、徐々に慣れていければいいかなと考えています。

——最後に、これから教育移住を検討されているご家族へ、アドバイスをお願いします。

教育移住と聞くと「すごく大変そう」「自分にできるのかな」という不安が先に立つ方も少なくないと思います。もちろん、大変なことはどうしても発生してきます。そのうえで、実際には意外と行ってみたらどうにかなることもたくさんありました。それが、実際に3年半を過ごしてみた結果として、一番伝えたいことかもしれません。

仮に予定より短い期間で帰ることになったとしても、その間に得られる学びは親子ともにあるはずです。完璧に準備してから動こうとせず、一度トライしてみてほしいなと思います。

そのうえで、注意点を挙げるとすれば、英語が日常の環境に子どもが合うかどうかは、実際に行ってみないとわからないことでしょうか。これだけは、どれだけ事前にリサーチしても見えてこない部分です。私たちもそれを含めての挑戦だったと、今は感じています。私たちの場合も、すべてが計算通りに進んだわけではありませんでした。

不安や迷いは尽きないかもしれません。それでも、興味があるならば、機会を逃さず一歩を踏み出してみてほしい。3年半を経たいま、心からそう思います。

■取材後記
取材のなかで印象的だったのは、山縣さんの「即決」の裏側にある考え方です。4カ月でマレーシアへ渡る──。一見勢い重視の物語に映りますが、判断を支えていたのは、「完璧な準備がそろうのを待っていたら、踏み出せない」という割り切りもあったはずです。

3年半で子どもたちに残った「自分を持つ強さ」も心に残りました。宗教も国籍もばらばらな環境のなか、相手をリスペクトしながら「自分は自分」という芯を持つ。言葉でなく、日々の暮らしのなかで自然と身につけたという点が、多文化環境ならではの学びです。

一方、「日本の物価の3分の1」という通説が円安と物価上昇で通用しなくなったエピソードは、情報を常にアップデートする重要性を教えてくれます。これから検討される方にとって、山縣さんの振り返りは貴重な道標になるはずです。

この記事の執筆者:塾選ジャーナル編集部
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