恋の嵐が吹き荒れている「花子とアン」。7月12日(土)の90回で、ついに、はな(吉高由里子)が村岡(鈴木亮平)からプロポーズされ「ありがとうございますよろしくお願いします」と承諾しました。


まだまだ山あり谷ありと美輪様が言ってはいますが、なんとかうまくいきそうな花子と村岡に比べて、蓮子(仲間由紀恵)と宮本(中島歩)は不穏な感じです。夫のいる蓮子の、道ならぬ恋ですから仕方ありません。
もっとも、はなも道ならぬ恋だったのが、村岡の病気の奥さんが半年前に亡くなったこと、亡くなる前にはなと村岡のことを認めて、幸せになってほしいと願っていたことによって、その罪がないことになっております。

そういう意味で、はなはラッキーです。この週、村岡に宇田川満代(山田真歩)の単行本の表紙を頼んで断られても、村岡のお父さん(中原丈雄)が頼んでくれてことなきを得ていますし、抵抗のある道ならぬ恋からも回避できました。その上、朝市(窪田正孝)や、村岡の弟・郁弥(町田啓太)や、かよ(黒木華)たちが、はなが語れなかったことを全部、村岡に伝えてくれます。

棚ぼたとはこういうことかと思わせます。
これもひとえに想像のツバサのおかげかもしれません。思い続ければ叶う的なことを、このドラマは伝えたいのでしょうか、もしかして。

はなのラッキーを際立たせるのは、蓮子の状況です。
蓮子はままならない思いにいら立つばかり。。
せっかく東京で、宮本との逢瀬を楽しんでいたところ、火曜86回では、待ち合わせのカフェに伝助(吉田鋼太郎)がやってきて、すわ修羅場か!と水曜87回に引っ張ります。
そして、87回では、何も知らずに豪放に振る舞う伝助、ぴりぴりする蓮子、困惑するはな、いらっとする宮本の四角関係が緊張感たっぷりに描かれました。

さて、そこで沸き上がるのが、蓮子に同情しがたいという思いです。
伝助は、粗野で学のない成金ではありますが、蓮子に優しく接しています。
はなも「嘉納さんって、今はすごくお金持ちだけど子供のころは貧しくて苦労したのじゃないかしら」と想像し、かよも「それに優しい人じゃ。たくさんチップをくださってほんとうにありがたいことです」と伝助に好意的なことを言います。
これには見ているこちらも大いに頷きました。
もちろん伝助にも問題があって、女遊びなどもよくしているらしく、結婚前、子供はいないと言っていたにもかかわらず、どこかの女性に生ませた娘がいたこと、蓮子の顔が美しいことにしか魅力を感じていないこと。それらが蓮子の気持ちをふみにじっていることは既に描かれています。
そうは言っても、最近の伝助は、妻のわがままを聞いてくれるいい人にしか見えません。はなと伝助がなんとなくウマが合うエピソードもあったのでよけいです。
また、演じている吉田鋼太郎が、愛嬌いっぱいに、朴訥で、かつ大きな器を感じさせるように演じているからか、ギスギスしたわがままな妻に勝手放題されて、可哀想な気持ちになってしまうのです。


木曜88回の宇田川の蓮子に対する発言「私がこの世で一番嫌いな女よ」は、蓮子にもやもやしていた我々視聴者の気持ちを代弁してくれるもののようでした。このときの、ふたりの会話は最高ですね。

土曜90回では、福岡に帰った蓮子の元に、宮本から別れようという手紙が来て、元気のない妻を優しく心配する伝助に「東京にいかせてください」「今すぐ行きたいんです」「お願いです東京に行かせてください」とたたみかけ、厳しく「ダメだ」と言われる(当たり前)と、「この家を出ていきます、離縁してください、お願いですわたくしを自由にしてください」とヒステリックに言い放つところに至っては、蓮子さん、才媛なのだから、もう少し考えて行動しようよ、とよけいなお世話ですが、心配になります。

恋ってそういうものなのかもしれないと思いながら、どうも納得がいかないので、蓮子と伝助のモデルになった白蓮と伊藤伝右衛門のことが書かれた本を読んでみます。
以前、紹介した林真理子の「白蓮れんれん」は当然、主人公の白蓮寄りに書いてあり、彼女の行動を応援したくなるんです。「花子とアン」の原案である「アンのゆりかご」も、完全に白蓮寄りに書いてあります。

が、もう一冊、ノンフィクション作家・永畑道子の「恋の華・白蓮事件」を読むと、少し印象が変わりました。
この本は、白蓮と伝右衛門の関係を、関係者に取材していろいろな角度から描いています。
そこには、当時は、女性の多くが白蓮に批判的だったともあり、「花子とアン」では、その見地から描いているのかなと思わせます。
なによりも、冒頭、白蓮が大阪朝日新聞に寄せた夫への絶縁状、そのあと、大阪毎日新聞に発表された伝右衛門の言い分が、掲載されています。読むと、ふたりの見解がまったく違うのです。これだけ見れば、「花子とアン」の伝助に同情してしまう描写もさもありなんと思えてきますし、このときのの伝右衛門の怨みつらみ発言は、彼にとって発表することが本意ではなかった(何も言うまいという考え方)という事実も登場し、じゃあ、ドラマの伝助はどうなのだろう?とますます考えさせられてしまうのです。

白蓮の自由に愛を求めた生き方を礼賛する「白蓮れんれん」(発表は98年)に対して、「恋の華」(08年)では、白蓮を歴史に残る「白蓮事件」にまで、ひとりの女を駆り立てた伝右衛門とは、どういう夫で、ふたりの関係性は実際のところどういうものだったのか。という疑問を追求しています。淡々と連なっていくたくさんの事実は、小説「白蓮れんれん」とはまた違う、白蓮と伝右衛門の関係を浮き上がらせます。伝助ファンは、こちらを読んでみていただきたい。
中園ミホは、「花子とアン」で、小説の白蓮でもなく、ノンフィクションの伝右衛門でもない、フィクションの伝右衛門(伝助)に挑み、吉田鋼太郎の身体と演技力によって、それが成就しそうな気がします。

もうひとつ、「恋の華」で面白かったのは、白蓮が、自分の悲劇的な人生を演出していたという見方です。解説の尾形明子がそこに着目していますが、作家だからそんなこともありそうですよね。
そこでふと、「花子とアン」にも、それと似たところがあることに気づきました。
女学校時代の「ロミオとジュリエット」体験です。あのとき、蓮子は、道ならぬ恋に命をかけるジュリエットを演じました。彼女にとっては、人生の絶頂だったことでしょう。満たされない蓮子が、ジュリエットの亡霊に乗り移られたままなのかもしれないと想像すると、蓮子には宮本との燃えるような恋を全うさせてあげたくなります。
そうそう、この「ロミジュリ」ははなの翻訳でした。はなの想像力が、ここでもまた現実化して、蓮子を突き動かしていると思ったら、はなの想像力、まことにおそるべしであります。(木俣冬)