「新型コロナは風邪と同じ」「自粛する日本人はバカだ」……。真面目に生活している人に「自粛厨」「コロナ悩」などとレッテルを貼る学者や言論人がのさばってきた。

評論家・中野剛志氏と、作家・適菜収氏が語りあった書、新刊『思想の免疫力』が8月10日に発売(Amazonは12日)になる。ここで語られるテーマは深く、そして永遠のテーマだ。「知識人が陥りがちな罠」とは何か? それは言葉を持った人間の宿痾とも言えるものだった……。





■人を説得することは可能なのか?



適菜:小林秀雄は、若い頃は人を説得しようとすることが多かったそうです。それで相手を叱ったり、非難したりしていた。でも年を取ったら丸くなっちゃった。

「丸くなった」という言い方が適当か分かりませんが、説得は無駄だと思うようになった。小林はこう言っています。



《僕は、とにかく人を説得することをやめて 二五年くらいになるな。人を説得することは、絶望だよ。人をほめることが、道が開ける唯一の土台だ》(「文学の四十年」)



《ずいぶん昔のことだけど、サント・ブーブの「我が毒」を読んだ時に、黙殺することが第一であるという言葉にぶつかったが、それが後になって分かったな。お前は駄目だなんていくら論じたって無駄なことなんだよ。

全然意味はなさないんだ。自然に黙殺できるようになるのが、一番いいんじゃないかね》(同上)



 これはどういうことなのか? 最終的には脳の構造の問題とか、体質とかの話に行き着いてしまうのかもしれない。オウム真理教に騙された人も、ばかだから騙されたのではない。インテリも大勢騙されている。なにかを「正義」だと思い込んでしまった集団が特定の世界観の中で暮らすようになると、外からの声は聞えなくなる。それで自分たちはいわれもない誹謗中傷を浴びていると被害妄想を膨らませる。



 それこそ、ウイルスを排除する免疫体系みたいなもので、本当に何を言っても無駄ということになる。今回の新型コロナ騒動においても、これまである程度まともだと思っていた人が、急速におかしなことを言い出したり、陰謀論にはまっていった。中野さんはこれをどう考えますか?





中野:人を説得できないということについて、思い当たることがあります。『小林秀雄の政治学』(文春新書)でも書きましたが、言葉の問題ですね。小林は大正時代に青春を過ごしているので、西田幾多郎の影響を受けたと思うんですが、その西田がしきりに言ったのは、主観と客観は完全に分けられないということ。これは、オルテガも言っていることだし、小林も書いていますけど、人というものは個人とその周囲の環境、両方のことだ。

あるいは、人が環境を作り、環境が人を作ると言ってもいい。だから、主観と客観は分けられなくて、その人はその人の境遇とか、育ってきた環境とか、もろもろその人にしか経験していないことでできている。その人の価値観とか思想とかも、本当はその人の生に固有のものとしてある。ただ、人間はコミュニケーションをしないと生きていけないので、言葉というもので自分の意思や経験をある程度切り取って抽象化して相手に伝える。そうやって、コミュニケーションをとるけれども、実際の自分の本当の意思や経験を伝えるのは不可能なんです。なぜなら、言葉で伝えられるものには限界があるからです。
これは以前の対談の小林秀雄論で語ったように「物事を伝えるのに、言葉をいかに工夫するか」というようなこととつながってくる話です。



 オルテガやミードを読んでいたら出て来たのですが、西洋人の慣用句なのか知らないけれど「自分の歯の痛みは人には分からない」という表現がある。「歯が痛い」とか「ズキズキする」とか、いろいろな言葉で人に伝えるけれども、本当にどの程度痛いかとか、自分が感じているダイレクトな感覚のところは言葉では表現できない。そう考えると、自分と根本的に違う人間を説得したり、価値観を共有したりするのは不可能だということになる。なぜなら説得は言葉でやるものだけれど、言葉は自分の考えを正確に伝えられないから。身も蓋もない話なんですけれどね。





適菜:そうですね。話せばわかるとか、言葉ですべてが説明できるというのは傲慢な発想です。小林はこう言っている。《批評家は直ぐ医者になりたがるが、批評精神は、むしろ患者の側に生きているものだ。医者が患者に質問する、一体何処が、どんな具合に痛いのか。大概の患者は、どう返事しても、直ぐ何と拙い返事をしたものだと思うだろう。それが、シチュアシオンの感覚だと言っていい。私は、患者として、いつも自分の拙い返答の方を信用する事にしている》(「読者」)。「シチュアシオン」は英語で言えば「シチュエーション」ですね。これを小林は「現に暮らしているところ」と訳しました。





中野:自分の本当に言いたいことはどんなに言葉に尽くしても表現できないし、相手だってそれを正確には絶対受け取らない。だからこの「歯の痛みは人には分からない」という表現は、ある意味、言葉とか思想とかを考え尽くした西洋の哲学者が恐ろしいことに気付いたということでしょう。要するに、人は絶対に分かり合えない。それがさっきの「私立」という言葉にも戻ってくるわけです。つまり、これは西洋に限らない。中江藤樹も「天地の間に己一人生きてあると思うべし」と言ったわけです。要するに、最後はよくよく突き詰めると孤独なんだ、分かり合えないんだ、というような感覚ですよね。だから、説得なんてものは結局のところ不可能と言っていい。





適菜:身近なところにいた人がおかしな考え方にはまっていくというケースは一般にもよくあることだと思います。家族がマルチ商法や新興宗教にはまったとか、おじいさんにパソコンを買ってあげたらネトウヨになっちゃったとか。そういうときに、なにができるのかという問題は考えておかないといけない。







中野:ところで、前回の対談で、リベラリズムは「何々からの自由」「リバティー」の主義だと言いましたけれど、そのリベラリズムにもいいところがある。リベラリズムは、多様性を重んじ、相手の意見に寛容であるべしという主義です。しょせんお互いに理解し合えない。だったら、自分の生まれ持った環境や気質や人生経験で出来上がった固有の思想なり考え方を無理に一致させようとするのではなくて、どうせ最後は分かり合えないということで納得して、違った意見のまま、ある程度、共存するのを認める。そういう保守的なリベラリズムです。



 一方で、みんなで理性的な議論を尽くせば同じ考え方に至るんだというようなリベラリズムもある。合理主義的なリベラリズムです。これは理性によって合意に至るとするものです。それに対して、保守的なリベラリズム、あるいはリベラルな保守主義によれば、議論は大いに尽くすんだけれど、最後は悲しいかな、言葉の限界のせいで、お互いに同じ意見になることはない。ないんだけれども、ある意味、分かり合ったフリをする、お互い分かり合っていないことを承知しつつも、共同の行動を取らないと社会が成り立たないということで、どこかで妥協して「暫定協定」を結ぶ。こういったことを認めるのが保守的なリベラリズム、あるいはリベラルな保守主義ということになります。



 さて、「人を説得することはできるか」という問題に戻ると、本質的に違った人間を言葉ごときで説得するというのは不可能である。その言葉の問題と関係するのが、適菜さんが『コロナと無責任な人たち』でしきりに書いておられた「自己欺瞞」の問題です。自分を自分で騙すというのは、言葉で自分を騙している。つまり、自分で言葉を発して、その言葉を自分で理解して「俺はこうだ」と勝手に決めつけ納得する。例えば、「俺は日本のためを考えているんだ」「国民のためを考えているんだ」「俺は誰の批判も恐れないで正義を貫いているんだ」とか、自分で自分に言い聞かせる。



 自分に言い聞かせるなんてことができるのは、多分、言葉のせいでしょう。イソップ寓話の「狐と葡萄」はまさに自己欺瞞の話ですけれど――狐は言葉をしゃべれないので本当は自己欺瞞もないんですが――言葉は、自分で自分を騙すツールでもある。自己欺瞞に陥っている連中とかを見ていると、言葉というものは、つくづく恐ろしいものだと思います。





■「言葉の恐ろしさ」と自己欺瞞



適菜:彼らは自分の発した言葉にしばられてしまったという側面もあります。言葉の恐ろしさを自覚するのが本来の保守であるはずです。保守主義とは近代において、理性や合理ですべてを割り切れるという発想を批判し、表層に浮かんでこない知を重視する立場のはずですから。だから過去の保守思想家は宗教や迷信、先入見を擁護した。しかし、理性過多になって、自然との接続がなくなると、言葉は暴走していく。



 中野さんがおっしゃったように、言葉は世の中すべてを捉えられるものではない。それどころか、誰でも知っているようなことでも、言葉では説明できなかったりする。本田宗一郎は誰でもリンゴの味を知ってるが、りんごの味はこれだという適切な言葉はないと言っていますね。前回の対談でも言ったかもしれませんが、コーヒーの香りですら、言語化することはできない。自転車の乗り方も、泳ぎ方も言葉では伝達することができない。だから、実際にやってみて習得するしかない。



 概念では世界のわずかな領域しか示すことができない。だから、理性だけでのぼせ上がった頭でっかちのバカは危険なんです。その一例が藤井聡の「自粛厨」だの「コロナ悩」といった発言でした。マッドサイエンティストみたいなのが真善美とか「当方の理性的な説明を教えて差し上げる」などと言って、社会を変革しようとするのが一番危ない。チェスタトンは保守主義者ではありませんが、彼の「狂人とは理性を失った人のことではない。 狂人とは理性以外のあらゆる物を失った人である」という言葉はその通りだと思います。





中野:昨年の春頃、大騒ぎするマスコミや、外出自粛を求める感染症の専門家たちに対して、「インフルエンザや自動車事故で、もっと大勢死んでいるのに、この程度で騒ぐのはおかしい」とか「命より大事なものはないなどという生命至上主義を懐疑すべし」といった批判を展開した知識人たちが出てきました。その後、新型コロナは世界中で大勢の死者を出し、国内でも大阪を医療崩壊させるという事態をもたらした。ところが、彼らの中には、未だに「自粛には効果がない」「緊急事態宣言は不要だ」という新型コロナ軽視の論調を続けている者がいる。





適菜:頭の中が更新されていないんです。「メディアが騒ぐので過剰な行動制限がかかり経済が疲弊している。これは全体主義だ」といったレベルの言説も一時期蔓延していましたね。「自殺者が増える」とか「夜の街の人がかわいそう」と言って善人面して見せたり。新型コロナで死ぬ人は気の毒ではないのか。本当に気持ち悪い。批判すべきは、場当たり的な政策で社会を混乱させ、必要な補償をしようとしない政府です。





中野:そういう新型コロナ軽視論のボスみたいな学者にくっついて言論活動をしている知り合いがいた。その彼――名前は敢えて伏せますが――と話していたら、何と、自分のボスの議論がデタラメだと分かっているのです。だったら、そういう言論活動から離脱すべきだと彼を説得しようとしたことがあります。でも、駄目でした。その彼は「別に、自粛しないのは不謹慎だという風潮に異を唱える意見があったって、いいじゃないですか」とか「僕の関心は、もっと別のところにあるんです」とか、あれこれ御託を並べて、結局、離れようとはしないのです。要するに、間違っていたと分かっているのに、態度を改めないですむ理屈を自分で考えて、自分で納得しようとしている。自分を騙しているんです。こういう自己欺瞞に閉じこもった人間を説得するのは不可能です。とりわけ知識人、言論人は、言葉を極度に武器にしていますよね。そうすると、知識人、言論人には、自己欺瞞に陥りやすい危険性がものすごくある。







適菜:言論を勝ち負けにしちゃうということですか? ネット上のスラングなのかよく知りませんが「謝ったら死ぬ病」というのがあるそうですが。





中野:そう言ってもいいのですが、要するに、こういうことです。あの新型コロナ軽視の知識人の集まりは、新型コロナの騒動が起きた当初は明らかに高をくくっていて、どうやら、「みんなが自粛しようと言うからって、しずしずと自粛するんじゃ面白くもおかしくもないじゃないか」という気分だったらしいのです。つまり、権力、世論の大勢あるいは空気の支配にあらがうのが知識人だとか、人と違ったこと、ひねりの利いたこと、人が気付いてないことを言って注意を引くのが知識人なんだという了見ですね。



 もちろん一般大衆が何も考えずに「オリンピック賛成」とか「平和は大事だ」とか言っているときに「俺は必ずしもそうは思わない」と言ってみるとか、世論とは違った視点を提供してみるとか、別にそういうことをやったっていいんですよ。いやむしろ、それは非常に重要なことであるし、確かに知的で面白いことでもある。一石を投じるのが知識人、言論人の役目と言ってもいい。しかし、単に「人と同じことを言うのでは、知識人としてつまらんから、ちょっと違うことを言ってみた」という気分だったのなら、新型コロナ禍をネタにして、知識人ぶって遊びたかったというに過ぎないのですよ。





適菜:本当にそのとおりです。要するに不謹慎なんですよ。これは人の生死にかかわる問題です。面白くもなんともない。しかも間違いを認めず、屁理屈で誤魔化したり、大声をあげてみたり。三浦瑠麗にいたっては新型コロナを軽視し、政府のデタラメな対応を擁護し続け、とりかえしがつかなくなった後に、国は「高をくくっていたんじゃないか」などと言い出した。卑劣、無責任、盗人猛々しい。その瑠麗が満を持して『表現者クライテリオン』に登場したわけだから、落ち着くところに落ち着いたのかと。そのうち、瑠麗のお仲間の橋下徹も登場するんじゃないですか。



  一律10万円の特別定額給付のとき、橋下は公務員や生活保護受給権者は受け取るなと言い出しました。維新の会お得意の「公務員を叩いて社会に蔓延するルサンチマンを回収する手法」です。既得権益を叩き、「改革者」を気取ることで、大衆のルサンチマンを回収する。その結果、なにが発生したのか? 



 橋下は知事、市長時代に医療福祉を切り捨てます。公立病院や保健所を削減したほか、医師・看護師などの病院職員、そして保健所など衛生行政にかかわる職員を大幅に削減しました。



 こうして発生した医師や看護師、保健所の人手不足、脆弱な検査・医療体制が、新型コロナの感染拡大を招いたのは明確です。これを改革と称し、「黒字になった」と胸を張っているのですから、政治の役割についても、経済についてもなにも理解していないのでしょう。



 連中は「データを見ろ」とよく言いますが、最新の東大の研究では、感染者を減らさずに緊急事態宣言を解除すると経済損失は膨らむ”と発表されています。この研究だけが正しいというつもりはありません。専門家の間でも意見は対立しているところもあるし、それぞれの意見を見なければならない。そういうことをせずに、同じような意見をもっている人ばかりを集め、都合のいい情報だけチェリーピッキングしていると、人間は急速におかしくなっていくのです。





■知識人ぶって言葉を操ることの危うさ



適菜:去年(2020年)の早い時期に、判断を間違えて「知識人ごっこ」を始めてしまったなら、まだ弁解の余地があります。連中は当初、新型コロナという未知の事態に対し、既存の概念だけでは十分ではないので、状況にあわせながら試行錯誤している感染症の専門家や医師たちを罵倒して、それこそ「素人考え」を押し付けようとしていた。しかも、変異株や後遺症、あるいは若者の死者・重症者が増えるなど、日々刻々と状況が変化しているのに、自分達の頭の中は更新できていない。



 私は新型コロナについて判断を間違えた人々を後知恵で批判するのは間違っていると思う。誰しも判断を誤ることはある。問題は次々と新しい事実が判明しても自分の判断の間違いを認めることができず、大声を出し自己正当化をはかろうとする連中です。「自分は社会の困窮者を救う悲劇のヒーローだ」みたいな自己陶酔に浸った大学教授が、正義(と本人が思い込んでいるもの)のために暴走していますが、新型コロナ発生からどれだけの時間が経ち、どれだけの新しい事実が明らかになったのかという話です。結局、現実を直視できない人間が被害を広げるのです。





中野:おっしゃるとおりです。まさにそのことを言いたかったんです。初期の段階で新型コロナについてよく分からないので高をくくって、いつも通り、知識人ぶって、一石を投じてみた。そこまでは、まだいい。だけど、彼らにとって不幸だったのは、新型コロナは当初の想定以上に危険なものだったことが半年、あるいは1年経って判明したということです。そうしたら途中で直せばいいわけです。ところが、今さら、直せないということらしい。



 そうするとやり方は二つあって、一つは適菜さんがおっしゃった三浦瑠麗氏みたいに、自分が高をくくっていたことを棚に上げて、後出しジャンケンで「政府は高をくくっていたんでしょうね」などと批判してみせる。以前は何を言っていたなんか、みんないちいち覚えていないだろうから、節操なく変節して生き残るという戦略ですね。もっとも、そんな戦略なんていう大層なものではなく、単に、以前に言ったことを覚えていないだけかもしれないけれど。



 もうひとつは、そこまで節操をなくせない連中は、「当初からの自分の主張はやっぱり正しかった」と、ありったけの知恵を絞って何とか理屈をひねり出そうとする。





適菜:それでだんだん鼻息が荒くなる。





中野:だけど、いくらでも修正するチャンスはあったわけです。「最初はよく分かってなかったが、後で事実が判明したから」と言って修正するのは、別におかしいことではありません。あるいは、「新型コロナが変異したので状況が変わりました」って言う手もあったわけです。つまり、去年の春は確かに「若者は心配しなくていいんだ、高齢者だけ守ればいいんだ。若者は普通に生活して集団免疫を獲得すればいいんだ。だから緊急事態宣言はいらないんだ」と言っていた。けれど、変異株が現れて若者も重症化するってことになったということで「去年と違って、今度は、緊急事態宣言が必要になりました」と言えばよかったのです。もっとも、厳密に言うと、感染が拡大すると変異する可能性も高まるらしいから、本当は弁解の余地はないんですが……。まあ、そうは言っても、ウイルスが変異して状況が変わったんだから、言っていることが変わったって、正しい方に変る限りは、誰もそんなに責めたりはしませんよ。







適菜:まともな感染症の専門家はみんな新型コロナが変異したのだから、対応や判断を変えるしかないと言いました。当たり前ですよね。だからあそこまで極端な形でぶっ壊れたのは藤井聡と、その周辺だけだと思います。もう「自粛」の効果を否定することだけにやっきになっていて、自分でもなにをやっているのかわからなくなっているのではないですか。





中野:確かにそうですね。藤井氏は去年の六月のある討論番組で「僕が間違っていたら、筆を折って人前に出ないようにしますよ」などと口走っていました。あの時点で、世界中の感染症や公衆衛生の専門家が苦戦している未知のウイルスについて、専門外なのに、そう断言してしまった。信じ難い傲慢さです。でも、そんな大見えを切ってしまったもんだから、その後、修正できなくなっている。これはもう救いようがないなと。





適菜:先ほども言いましたが気持ち悪いのが善人面することです。





中野:善人面しますね。怒って叫んでみせたり、ため息ついて悲しんでみせたりの三文芝居。





適菜:自分たちは正義の味方であって、自殺者に対して同情しているんだ。夜の町の人たちがかわいそうだ。ライブハウスの経営者がかわいそうだ。自粛が必要という人間は思いやりのない人間だ。だからわれわれは理性に基づき「真実を教えて差し上げる」と。その一方で弱者切り捨ての新自由主義者や陰謀論者とつるむ。私のFacebookの知り合いでも、ああいうのに騙されたのは多い。あれはすごく悪質です。





中野:善人面しているうちに、本気で「俺は正義の味方だ」と自己陶酔に陥ったようにも見える。善人ぶった言葉を発すると、その言葉に自分が酔ってしまう。この自己陶酔という現象も、言葉のせいですね。そもそも、フィクションというものは、言葉があるから可能になるわけです。そして、言葉が作ったフィクション、あるいはバーチャル・リアリティで、自分を騙すこともできてしまう。



 例えば、第四波の緊急事態宣言の前後、大阪や東京で感染者数が増え続ける中で、藤井氏は、感染者数の「増加率」が減ったのを勝手に「収束」という言葉で定義して、「収束に向かっているから緊急事態宣言は必要なかった」とtwitterで主張していました。





◆https://mobile.twitter.com/tera_sawa/status/1384077073887555594





◆https://twitter.com/SF_SatoshiFujii/status/1390462624576335873





 しかし、言うのも馬鹿々々しいですが、増加率が減少しようが100%以下にならない限り、感染者数は増加しているわけですから、普通はそれを「収束」に向かっているとは言わない。特に大阪は医療崩壊しかかっていたんですから、少なくとも、対策を強化する必要がないなどという結論になるはずがない。実際、それをたくさんの人にtwitterで指摘され、批判され、嘲笑すらされていました。





適菜:反論できないので、よくわからない説明を始め、墓穴を掘った。間違いを認めるとプライドが傷つくので完全に開き直ったのでしょう。





中野:しかし、下手すると、あれは意図的にデマを流しているのではなく、本気で「収束しているから、緊急事態宣言はいらない」と思い込んでいるのかもしれないですよ。つまり、「収束」という言葉で自分を騙し切ってしまった。あそこまでいくと、そう思わざるを得ない。そう考えると、言葉って、つくづく恐ろしいと思いますね。言葉によるバーチャル・リアリティの最たるものが陰謀論ですね。





適菜:藤井聡は、武田邦彦や内海聡といった陰謀論者とつるみはじめたり、宮沢孝幸や三浦瑠麗に飛びついたり。ある人が「完全にダークサイトに落ちてしまった」と言っていましたが。





中野:まさに、言葉を操る知識人が最も警戒すべきダークサイドです。そういえば、藤井氏は出演したラジオの中で、自分の言うことがちっとも受け入れられないというので、いきなり善人面をかなぐり捨てて「大嫌い、日本人」って悪態ついてました



適菜:橋下徹と同じです。橋下は発言を批判されたら「日本国民と握手できるか分からない」と言い出した。橋下は「日本的」という言葉をマイナスの意味で使います。自分の主張がなぜ受け入れられないかを自省せずに「大嫌い、日本人」と叫ぶのなら、日本のことには口を出さずに、自分の本業のほうで精進してほしいものです。





中野:緊急事態宣言は不要と唱える藤井氏や宮沢孝幸氏は「目、口、鼻さえ触らなければ大丈夫」って言っていましたが、人間は日常生活の中で無意識に目、鼻、口を触るわけですから、絶対触るなと言われてもできません。そんな無理筋の提案をしておきながら、それが受け入れられないからって「大嫌い」って言われてもね。





適菜:宮沢は昨年6月12日に大阪府新型コロナウイルス対策本部専門家会議にオブザーバーとして参加し、「空気中にウイルスは飛ぶが感染しないレベル」と発言。府知事の吉村洋文は会議終了後「コロナが空気感染しないという意見があり、そうであればソーシャルディスタンスのガイドラインが正しいのか早急に見直したい」と応じました。しかし、先日、宮沢は空気感染すると世間が混乱するから、空気感染はしないと言っていたと、嘘をついていたことを自白しました。これは飼い猫が書いているという体裁にして宮沢が「note」(5月3日)に載せた記事でとあるので、趣旨を要約します。



(※https://mobile.twitter.com/miakiza20100906/status/1389599847930421254)



 「科学的説明を尽くしても限界がある」ということと、「テレビの事情があるから科学的事実を捻じ曲げた」というのはまったく別の話です。こんなのが許されていいわけがない。宮沢の発言を真に受けて新型コロナに感染した人がいたら、一体どのような責任をとるつもりなのか? それで、つい最近ネットで見て面白かったのが、宮沢が目をこすってる写真。





中野:今の世の中、どこからかそういう写真を見付けてくる人がいるんですよね(笑)。





(続く)





著者紹介



中野剛志(なかのたけし)



評論家。1971年、神奈川県生まれ。元京都大学大学院工学研究科准教授。専門は政治思想。96年、東京大学教養学部(国際関係論)卒業後、通商産業省(現・経済産業省)に入省。2000年よりエディンバラ大学大学院に留学し、政治思想を専攻。01年に同大学院にて優等修士号、05年に博士号を取得。論文“TheorisingEconomicNationalism”(NationsandNationalism)でNationsandNationalismPrizeを受賞。主な著書に『日本思想史新論』(ちくま新書、山本七平賞奨励賞受賞)、『TPP亡国論』(集英社新書)、『日本の没落』(幻冬舎新書)、『日本経済学新論』(ちくま新書)、新刊に『小林秀雄の政治哲学』(文春新書)が絶賛発売中。『目からウロコが落ちる奇跡の経済学教室【基礎知識編】』と『全国民が読んだら歴史が変わる奇跡の経済教室【戦略編】』(KKベストセラーズ)が日本一わかりやすいMMTの最良教科書としてベストセラーに。



適菜収(てきな・おさむ)



作家。1975年山梨県生まれ。ニーチェの代表作『アンチクリスト』を現代語にした『キリスト教は邪教です!』、『ゲーテの警告 日本を滅ぼす「B層」の正体』、『ニーチェの警鐘 日本を蝕む「B層」の害毒』、『ミシマの警告 保守を偽装するB層の害毒』、『小林秀雄の警告 近代はなぜ暴走したのか?」(以上、講談社+α新書)、『日本をダメにしたB層の研究』(講談社+α文庫)、『なぜ世界は不幸になったのか』(角川春樹事務所)、呉智英との共著『愚民文明の暴走』(講談社)、中野剛志・中野信子との共著『脳・戦争・ナショナリズム近代的人間観の超克』(文春新書)、『安倍でもわかる政治思想入門』、清水忠史との共著『日本共産党政権奪取の条件』、『国賊論 安倍晋三と仲間たち』、『日本人は豚になる 三島由紀夫の予言』(以上、KKベストセラーズ)、『ナショナリズムを理解できないバカ』(小学館)、最新刊『コロナと無責任な人たち』(祥伝社新書)など著書40冊以上。「適菜収のメールマガジン」も配信中。https://foomii.com/00171