戦国最強武将のひとり、上杉謙信の通説を見直し真相にせまる『上杉謙信の夢と野望』。生涯のライバルである武田信玄との5度にわたる川中島合戦の真相を読み解く。
決戦そのものが目的だった

 戦国大名の関心は自領の維持・確保と拡大であり、戦闘はその手段に過ぎなかった。ゆえに犠牲の多い決戦など誰も望んでいなかったといわれる。常識的に考えてその通りであろう。だが、第四次川中島合戦はどうだっただろうか。

 当時、上杉・武田両家の政治関係は極めて緊迫しており、まさに両雄並び立たずの状況が発生していた。上杉軍は関東経略・軍事上洛の密事を阻害する武田軍を滅ぼそうとしていたのであり、武田軍は絶体絶命のピンチを切り抜けるため、上杉方の活動を食い止めねばならなかった。このように彼らは、互いの存亡を懸けて決戦する必要が生じており、そこに領土争奪戦という視点はもはやなかった。

 彼らの思惑を探る実証がある。川中島に向かった政虎(上杉謙信)は長尾政景か春日山城を預けたが、その際、会津の蘆名氏・出羽の大宝寺氏からの援軍を国境警備に当てるよう指示した。越後本国を他国の兵に防衛させているのである。国内に総動員体制をかけたことが推察されよう。武田軍も同様に、北条・今川の援軍及び甲駿国境にある兵までも引き連れて、政虎の迎撃に出向いている。

両家とも持てる限りの兵力で戦うつもりだったのである。

 こうしたことからこの合戦が、霧による偶然の事故だった、単なるパフォーマンスで本当はどちらも本気で戦うつもりなどなかった、とする説は成立しえないと思う。確かに第三次合戦までは地理的な支配を巡る争いだったが、こうした紛争動機は、将軍が甲越両軍を仲介し、信玄を信濃守護にすることではっきりと終了していた。

 本合戦はそれまでの地域紛争とは質的に異なるもので、舞台が決戦の場に最適な「川中島」になったこと以外に、共通点はない。前年(永禄三年〈一五六〇〉)、東海道では尾張を統一したばかりの織田信長が、三ヶ国の太守今川義元を寡兵で討ち取る大事件が発生しているが、これを知る政虎も、信玄を討ち取れば勝沼氏のクーデター失敗による遅れを取り戻せると思ったのではなかろうか。このように信玄討ち取りを目指す政虎に対し、信玄は滅亡を回避すべく、立ち向かわざるを得なかった。

 第四次川中島合戦は「決戦すること」、それ自体が目的だったのである。

「甲陽軍鑑」を見直す

 いわゆる「第四次川中島合戦」は、今から四五〇年前の永禄四年九月十日に行われた。現在通用されるグレゴリオ暦に換算すれば、一五六一年十月二十八日である。

 この合戦は、当代一の名将同士が高度な戦略を仕掛け合い、異常な戦意で決戦し、両軍の八割近くが死傷したものとして伝説化されている。軍隊は全体の三割が崩壊すれば全滅扱いとなるから、史上類を見ない未曾有の大決戦だったといえよう。

 しかし研究者の多くは、基礎資料とされる『甲陽軍鑑』(以後『軍鑑』)以外に良質の史料が乏しく、『軍鑑』にしても江戸期に広まった軍記であり、記述内容も無批判に使える文献ではないことから、合戦の実相は全くわからないとされている。

特に、いわゆる「啄木鳥戦法」や両雄の「一騎討ち」など、神話的で読み物的な展開が、『軍鑑』の史料価値を落としているという。近年では、政虎の妻女山布陣が困難との指摘もあり、通説にあるような合戦像は全く成立しないとの見方が強まっている。そのためか戦記内容に縛られない「合理的解釈」によって、無数の「真相」が提唱されてきた。通説への疑問が、文献離れの傾向を招いているのである。

 ここでは近年出された指摘を組み入れつつも、あえて史料重視の形を取り、原則的には『軍鑑』の物理的展開に従って、合戦の再現を試みたいと思う。特に断りを入れない限りは『軍鑑』に基づいた記述をしていく。

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川中島合戦概略図上杉軍による海津城包囲網
「決戦すること、それ自体が目的」謙信VS信玄、第四次川中島合戦の真実 
川中島合戦①

 最初、上杉政虎は越中平定を目的に軍事行動を準備した。八月三日、北条氏康が足利義氏を通して加賀本誓寺に、越後での一向一揆の蜂起工作を要請しており、これに備えたものである。だが、これは武田方を欺くための芝居で、実際には越中に出向くことなく、春日山城に集結させた一三〇〇〇の兵を率いて、南下を開始した(『上杉年譜』)。目指す先は、武田による北信濃の支配拠点、海津城であった。

 八月十四日、上杉軍は春日山城を進発した。『軍鑑』に進軍経路は記されておらず、上杉系の軍記によれば、「春日山城→飯山街道→善光寺」を通った後、犀川を渡って川中島に入り、左(東)に見える海津城を攻撃することなく、赤坂山・清野の宿を打越し、十六日巳
刻、鞍骨山に登って妻女山を要塞化した(『北越軍談』)。

妻女山から鞍骨山までの山脈に並ぶ、雨宮・天城・鞍骨の諸城は、ここで一気に制圧されたと見ていいだろう。

 妻女山は海津城を眼下に一望できる重要拠点で、この地を制することは海津城の軍事機能を無効化するに等しかった。のちの「天正壬午の乱」で、妻女山に布陣した上杉景勝かが川中島一帯を制圧した事実からも、この地の重要性が証明されよう。海津城を追い詰めて信玄の後詰めを待つ、というのが政虎の戦略だった。宿敵と雌雄を決するべく、あえて敵地深くまで踏み込んだわけである。

 ところで近年の指摘では、川中島南方に向かう街道脇には横田城が、妻女山や海津城周辺には複数の城塞群があり、上杉軍がこれらを無視して進軍することは不可能だったと言われており、妻女山の布陣も『軍鑑』の粉飾が疑われている。が、虚を突かれた武田軍にどれほどの抗戦準備ができただろう。まして今回は旧守護小笠原氏の帰国という看板もあり、海野・高坂・仁科が上杉に内通したことが上杉方の記録に伝わっている。武田方の諸城を接収し、妻女山を確保するまで、さしたる苦労はなかっただろう。

 諸城の接収には、傍証材料もある。『北越軍談』によると、政虎は正規兵を八〇〇〇と、輜重・遊軍五〇〇〇を連れていたが、直江・中条の予備兵三〇〇〇を、いつしか塩崎村の西北や戸部村の南方に待機させている。戸部村は横田城付近にあったらしいが、横田城を制圧していればこそ行える配置であろう。

 なお、『越後軍記』『北越軍談』『甲越信戦録』の記録だと、政虎は当初一三〇〇〇人で進発、うち五〇〇〇人を諸城に置き、妻女山には八〇〇〇人で登った計算で一致する。

 こうした流れを眺めれば、『軍鑑』の展開と、他史料や最新の現地調査との間に見られる矛盾もすっきりと解消されよう。政虎は「海津城包囲網」を築いたのである。

 武田軍を誘い入れるためとはいえ、自ら敵地で糧道を断つ必要はない。直江・中条隊を、善光寺の横山城から横田城に至る街道筋に置けば、妻女山への補給路を確保できる上、甲斐本国と海津城との連絡路を断つことができる。政虎は自軍を餌にするのではなく、海津城包囲網を築くことで信玄を誘引したのであろう。

 川中島に政虎来たる──この知らせが信玄のもとに届いたのは八月十六日だった。十八日、信玄は二〇〇〇〇の兵を従えて甲府を進発。二十四日に川中島へ入ると、雨宮の渡しを封鎖し、そのまま妻女山に面する千曲川の北方に布陣、上杉軍の退路を遮断した。これにより、妻女山の政虎は越後本国からの物資補給を受けられず、袋のネズミとなった。しかし、糧道を断たれたはずの上杉軍はなぜか悠々として動揺する気配を見せない。
 
 この態度に遠謀ありと見た武田軍は、弓矢で小競り合いを繰り返して、五日後の二十九日、広瀬の渡しを通り、海津城に移動した。

この時、政虎は家老の意見も聞かず、何のアクションも起こさなかったという。

武田軍の海津城入り 
「決戦すること、それ自体が目的」謙信VS信玄、第四次川中島合戦の真実 
川中島合戦②

 ここで謎かけである。なぜ、武田軍は必勝の包囲陣を解除して海津城に入らなければならなかったのだろうか。また、どうして上杉軍は武田と対峙しておきながら無二の決戦を挑まなかったのだろうか。その答えは、武田軍が海津城に入った二十九日付の上杉政虎書状と、『軍鑑』の内容を読み返せば、難なく見つかる。

『軍鑑』によれば、先に政虎が関東で連合軍十一万余を率いた際、越軍本隊は一七〇〇〇人で、川中島出陣の越軍は一三〇〇〇人だったという。ということは川中島出兵時、越後には四〇〇〇人の兵が残されていたはずである。いや、もっといただろう。政虎が関東で戦っている間も越後本国の兵は、信濃割ヶ嶽や越後小田切に押し寄せる武田軍と交戦しており、相応の兵数が留守として置かれていたと想定されるからである。

 これでまず、政虎が無二の決戦に逸らなかった理由がうかがえる。妻女山で信玄を引き付けている間に、越後本国から予備兵を呼び出し、武田軍を挟撃しようとしたのである。そして八月二十九日、この作戦に気づいた信玄は、まるでシェルターへ避難するかのように、急ぎ海津城へ駈け入ったのである。

 証拠となるのが、同年八月二十九日付の政虎書状である。これは越後本国の留守を預かる長尾政景に宛てたもので、「越中の人質を油断するな」、「もし会津衆・大宝寺衆が来たら西浜や名立を守らせよ」と越中方面への備えを命じている。他国からの援軍に本国を防衛させるなど、普通は考えられないことだが、越後の兵が全てどこかに動かされていたとすればその限りではない。

 越後から迫る増援と、妻女山の政虎本隊に挟撃されてはたまらない。さりとて撤退するわけにはいかない。それゆえ、布陣から六日目、信玄は移動を決断した。
(『上杉謙信の夢と野望』より構成)

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