2月27、28日に2回目の米朝首脳会談が開かれる予定だ。北朝鮮の非核化が焦点となるほか、朝鮮戦争の終結も取り沙汰されており、北朝鮮をめぐる問題はひとつの節目を迎えようとしている。
一方で、いまだ北朝鮮の暗部として語り継がれるのが1959年から1984年まで続いた「在日朝鮮人の帰還事業」(北送事業)だ。当時、北朝鮮は「地上の楽園」との甘言を流布し、それを信じた約9万3000人の在日朝鮮人と家族が日本から北朝鮮に渡った。しかし、帰国者は最下層身分である「敵対階層」に分類され、極貧生活と強制労働に苦しんだといわれている。命からがら脱北した人も少なくなく、今も日本には200人以上の脱北者が暮らしているという。
今年は、その帰還事業から60年という時期にあたる。しかしながら、帰還事業を主導した在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)や日本の各政党、北朝鮮を礼賛していたマスコミらは、いまだ口をつぐんでいるのが現実だ。いったい、帰還事業とはなんだったのか。
当時、朝鮮総連に所属していた在日二世の呉文子(オ・ムンジャ)氏は帰還事業で親子関係が引き裂かれた経験を持つ。呉氏は在日朝鮮人商工連合会理事などの要職に就いていた関貴星(せき・きせい)氏を父に持ち、在日女性たちの同人誌『鳳仙花』を創刊、文学誌『地に舟をこげ』の編集委員を務めたエッセイスト。2007年に『パンソリに想い秘めるとき』(学生社)、2017年に『記憶の残照のなかで─ある在日コリア女性の歩み』(社会評論社)を上梓し、在日社会の分断のなかで苦しみもがきながら歩んできた軌跡を吐露している。
数少ない当事者のひとりである呉氏が、沈黙を破って帰還事業について語った。その貴重な証言をお伝えする(以下、1月に在日本大韓民国民団で行われた講演より)。
●「金日成マンセー」と叫んで北へ帰っていく人々
帰国事業が行われていた際、私は「社会主義の勝利は歴史発展の法則だ」と信じて疑っていませんでした。しかし、北朝鮮の一党独裁政権によるひどい現実を聞くにつれて、悔やまれてなりません。私は、北朝鮮を批判し『楽園の夢破れて』を執筆した関貴星の娘であり、帰国事業の生き証人でもあることから、これまでインタビューの申し出や執筆の依頼はありましたが、帰国事業の報道のあり方に不信感があったため、表立って語ることは避けてきました。ただ、60年という節目の年であること、傘寿を過ぎて、これが最後の機会になるのでは、との想いから、今回語ることにしました。
当時、新潟港から北朝鮮への帰国船は万景峰号ではなくソ連製の大きな船でした。新潟港を出港した第一船は、今も思い浮かべることができます。当時、日本は貧しかったですが、在日コリアンはさらに悲惨でした。東京大学を卒業しても、リヤカーを引いてくず拾いをしなければならなかったのです。そのため、北朝鮮から「何も持たないで地上の楽園に帰ってきなさい」と言われれば、信じるのは当然でした。私も帰ろうとしましたから、北朝鮮への帰国に対する意思は理解できます。ただし、冷静に考えれば、廃墟と化した国土の復興と再建の真っ只中で、地上の楽園であるはずがない。そのことも理解すべきでした。
当時、マスコミは朝日新聞から産経新聞まで北朝鮮を称え、素晴らしい国だと報じていましたから、多くの在日コリアンが疑いもなく北朝鮮へ帰国しました。埠頭での親子や友人との別れはありましたが、「温かい祖国へ帰国する」と喜びに包まれ、熱気と興奮のるつぼでした。離港する際は「金日成、万歳(キム・イルソン、マンセー)」と叫んで北朝鮮へ帰っていきました。今でも、結んだテープを離そうとしない人々が思い浮かびます。
●「一生を棒に振った」と抗議する在日の青年
ここで、父の話をいたします。1960年8月、日朝協会に入会していた父は八・一五朝鮮解放十五周年慶祝使節団の一員として北朝鮮に招待されます。当時、在日コリアンの事業としてはパチンコやレストランなどがありましたが、父はパチンコなど多角的な事業で成功していました。1951年のサンフランシスコ講和条約締結により、在日コリアンは日本人としての諸権利を喪失し、銀行からの融資を受けられないケースも多くありました。
しかし、父は同条約締結の直前に日本人の関さんとの養子縁組により、日本国籍を取得していました。私も高校時代は「関文子」でした。当時は養子縁組により日本への帰化が可能だったようです。父は、日本国籍を保有する朝鮮人として北朝鮮を訪問しました。
使節団一行には、ベストセラーの『38度線の北』を執筆した歴史学者の寺尾五郎氏もいました。ある日、視察団が列車で移動していると、日本から帰国した青年たちが寺尾氏に詰め寄り、「あなたの本を読んで、素晴らしい地上の楽園を思い描いて北朝鮮に帰国した。真相はまったく逆ではないか。一生を棒に振ってしまった僕たちをどうしてくれるんだ」と抗議している場面を目撃したそうです。
父はといえば、地元の岡山から帰国した友人たちとの面会も許されず、平壌の街も自由に散策できず、「北朝鮮はこんなにも閉鎖社会なのか」と嘆きました。そして、帰国協力会の幹事のひとりであったにもかかわらず、「真実を隠して帰国させてはならない」と北の施政を視察しながら悩み続けたそうです。
●危険だった「北朝鮮の実態を告白」
父は日本に戻ってから、北朝鮮の実情を総連側に訴えます。朝鮮戦争が終わってわずか7年、廃墟と化した国土の復興と再建の真っ只中で、ゆとりなどあるはずがない。帰国希望者には、北の現実、物資のない厳しい現実を受け止め、一本の釘や古着でも捨てないで大切に持ち帰り、現状をありのままに知らせるべきではないか。ユメユメ楽園に還るなどという甘い考えを捨て、厳しいけれども社会主義建設に身を捧げることを覚悟した人々が帰るべきだと、真実を隠して帰国させてはならないと、繰り返し訴え続けたのです。
しかし、「地上の楽園」へと熱病にかかったように沸き立っていた頃なので、父の提言は帰国事業への妨害だと総連から「反動」という烙印まで押され、激しく非難されることになりました。
『楽園の夢破れて』が出版された後、父はあらゆる誹謗中傷に耐えながらも、真実を覆い隠している帰国事業は間違っていると、徒手空拳で孤独な闘いを続けていたのです。「もしこの事実に目を覆い、従来通りの北朝鮮礼賛、帰国促進を続けていけば、恐るべき人道上の誤りを冒す恐れがある」と父は訴え続けました。今から半世紀以上も前のことです。
何度も父の講演会が妨害され、騒然たる雰囲気となり中止せざるを得なかったことなど、身の危険と隣り合わせの闘いだったと、のちに知りました。もし拉致されたときには青酸カリを、銃は護身用にと、考えていたほどでしたから。
当時、私は金日成主義の中毒症状になっていました。夫の李進煕(イ・ジンヒ)は「広開土王陵碑文」の拓本を綿密に比較検討して、日本の古代史像の再検討を提起すべく、吉川弘文館から『広開土王陵碑の研究』を出版し、皇国史観の根強い日本の古代史研究に一石を投じた人です。
1950年末から1970年代にかけて、総連内では金日成の主体思想が唯一思想となり、夫は連日の「思想総括」のため苦しんでいました。その原因のひとつが、私との結婚でした。私の父が北朝鮮への帰国事業を批判し、『楽園の夢破れて』を出版したからです。間もなく私たちは敵対する関係となり、父とは10年という長い間、親子の断絶状態が続きます。
夫は、勤務していた朝鮮大学校から毎日のように「思想統括」を強いられていました。私と夫は話し合った末に「北朝鮮に帰ろう」との決断を下しますが、それが弟を通して父に伝わります。父は「もし帰るのであれば割腹自殺をする」と絶叫し、私たち夫婦は帰国を断念しました。
1968年頃になると、大学内は「文化大革命」もどきの嵐が吹き荒れ、同僚同士の間にも疑心暗鬼の空気が蔓延していました。その上、学生が先生を監視し、講義などで少しでも思想的な「落ち度」があれば上部に通報していたようで、教師と学生たちとの信頼関係さえも崩れ去り、もはや教育の場ではなくなっていました。夫は日増しに食も細くなっていき、苦悩の日々が続いていきました。安定剤なくしては日常が送れないほどでした。
父との絶縁から10年が過ぎた1971年4月、入学式を終えた数日後、ついに大学を辞める決断をします。二十数年間、民族教育に青春を燃やしてきたにもかかわらず、自分の生き方に照らして北朝鮮の政治体制や大学のあり方に追随できなくなったのです。その後、私たちは総連とは一切関係を持たなくなりました。
1972年に高松塚古墳が発見されて古代史ブームが起こり、夫は日本の大学で教鞭を執りながら、朝鮮と日本との間の複雑によじれた関係を解きほぐし、相互間の理解と連帯を図るためのひとつの橋を架けていきたいと、「季刊三千里」と「季刊青丘」を発刊しました。
在日一世の編集委員、金達寿、姜在彦、金石範、李哲、尹学準、若い頃の姜尚中たち当時の在日の知識人を総動員して『季刊三千里』を50号まで、『季刊青丘』を25号まで、夫は編集長としての重責を担ったのです。
一方、私は1991年1月25日に同人誌『鳳仙花』を創刊しました。私は在日女性たちの生活記録――日々の暮らしのなかで感じる喜びや悲しみなどを語り合うマダンが必要だと思うようになったのです。創刊当時、在日女性たちが発行する同人誌は皆無でした。『鳳仙花』は、文字を持たないオモニたちの過酷な人生を親の背中を見て育った二世たちが代わってつづった「身世打鈴」が多くの誌面を占めていました。2013年27号をもって休刊としました。
『鳳仙花』は不充分とはいえ、時代の証言集としての使命を果たしたのでした。何よりも、在日女性による女性の同人誌の先駆的役割を果たしたことの意義は大きいと思います。そして、記録することの大切さを27冊の『鳳仙花』が如実に語っていると思います。
その後、在日女性文学誌『地に舟をこげ』に編集委員として7号の終刊までかかわりました。在日女性史上、在日女性たちの力だけで編集、発行し書店に並ぶ文芸誌を発刊したのは『地に舟をこげ』誌が初めてでした。
●地域住民として生きる
私に市民意識が芽生えたのは、地域女性史を学び、聞き取り調査にも参加するなかで、地域の女性たちと「共生」することの意味を知ったからです。そして、在日の私が一市民として街づくりにどのようにかかわっていくのか、ということが課題となって見えてきたのです。
1994年から1996年まで、調布市の女性問題広報紙『新しい風』の編集委員を務めながら、「隣の国の女性たち」というコラムを9年間連載することになります。また、市の推薦により1998年から1999年まで調布市の「まちづくり市民会議」の諮問委員を2期歴任しました。
2001年には「異文化を愉しむ会」を発足させ、今年で18年になります。文化の違いが差別というマイナスイメージでなく、プラスのカルチャーとして日本社会に順応できればとの思いで活動しています。
今、朝鮮半島が大きく変わろうとしています。死語となって久しい「統一」という言葉が、夢ではなくわずかに現実味を帯びてきました。しかし、母国がどのように変わろうとも、「在日」は日本に生きざるを得ない日本の地域住民です。母国の平和的な統一を念願しつつも、母国の事情によって「在日」が生きづらい社会になることだけは絶対に望みません。
これは、在日コリアンの多くの人たちの考えだと私は思っています。本国との交流や接点を大切にしながらも、本国政府に従属するのではなく自立した在日民族として日本社会に参加し,地域住民として共生共存していくことが私たちの課題ではないかと思っています。次世代に受け渡すべく在日の遺産づくりのために地域の人々と手を携えながら、日本の地にしっかりと根を張って生きていきたいと思います。
●今の北朝鮮に沈黙するリベラル層への憤り
最後にもっとも言いたいことがあります。かつて韓国が軍事政権だった時代、日本の左派や進歩的文化人が「韓国の民主化運動のために韓国民衆と連帯を組もう」と論陣を張り、世論を喚起していました。
しかし、その方々は北朝鮮の人権問題や暗部については「北朝鮮を貶めることだ」として関与しない姿勢を取っています。脱北者の問題もしかりです。今こそ、北朝鮮の過酷な人権弾圧について、左右の対立を超えて民主化への連帯を深めていくべきです。今も、北朝鮮に帰国した友人・知人たちが厳しい監視と、激しい差別の下で呻吟している姿が浮かびます。
私は行ったことはないのですが、友人・知人が親族訪問で北朝鮮へ行っています。その話を聞くたびに、ひどいことだと思います。なぜ、人権無視の国に対して左派や進歩的文化人が沈黙しているのか。せめて、当時の南の民主化運動の盛り上がりと同様の運動が日本で起きてもいいのではないでしょうか。
これは、拉致問題にもつながる問題です。どんな理由があっても、拉致はあってはならないことです。その拉致問題に対しても左派や進歩的文化人が沈黙しているのは、ダブルスタンダードにほかなりません。
(構成=長井雄一朗/ライター)