そう思って調べると、日本の1位はまさかのガチャピンだった(@GachapinBlog)。
2011年1月25日18時現在、つぶやきシローのフォロワー数は390,728人。この実績に目をつけた、というわけではないのだろうけど、彼の初めての長編小説が宝島社から出版された。
「つぶやきシローをデビューから知っているが、ついに本気を出した模様! もっと早く出せよ。」
芸人・芸能人が書いた小説は過去にいくらでもあるが、自伝風のものはその人に関心でもない限りあまり読む気になれない。落語が好きなので、立川談四楼『シャレのち曇り』は読んだけど、あの人は落語家兼小説家といって構わない存在だからな。それと話題になった劇団ひとり『陰日向に咲く』も感心した。当然ながら、『イカと醤油』にも劇団ひとり級の期待値を持って望んだわけです。
一読。びっくり。
うっは、なんだこのダメ男小説は!
こんな人間が実際にいたら、絶対お友達になれない。むしろ即座に敵と認定するッ。あなたが女性ならば半径10メートル以内に入った瞬間にオーラを察知し、慌てて逃げ出すレベル。あなたが男性ならば、半数の人はいい奴だと勘違いして友達になろうとし、30分後くらいに喧嘩になるレベル。
主人公の山田健太は5歳。わけあって父親の茂男と2人で、家賃1万円というおんぼろ貸家に住んでいる。この茂男が問題のダメ男なのである。
『イカと醤油』は短い断章の連なりでできている小説だ。その冒頭の数章で作者が準備しているエピソードだけで、読者は茂男がどのような人物かを十二分に把握できる。子供が「ジュースの空き缶を1kg集めて2円もらったり、近所のおばあちゃんの肩をたたいて10円もらったり、朝早く飲み屋街を歩いて、酔っ払いが落とした小銭を拾って貯めた、百円玉と五十円玉は一つもない462円」を「ちょきんばこ」(と書かれた石鹸箱)から盗み出し、酒を買ってしまうような父親なのだ。しかしそんな茂男を、健太は大好きなのである。お父さんだから。たった一人の家族だから。自分が傷ついたことを父親に気取られないように、健太は精一杯明るく言う。
「いいんだよ、お父さんのための貯金箱だから」
それに対して茂男は即答するのである。
もうこのへんでわなわなと震えだしている人がいるだろう。拳がグーパンチの形になっている人もいるだろう。あれあれ、民生・児童委員に電話をしようとしている君はちょっと餅つけ、いや落ち着け。これは小説の中の話だから。
私が『イカと醤油』で凄いと思ったのはこの部分である。つぶやきシローは同時に2つのことをやってのけている。
1つは、幼い子供にとって「お父さん(お母さん)」は、どうしても愛してもらいたい、絶対的な存在だと、読者にあらためて認識させること。
もう1つは、生理的に嫌な人間、どうしても許せない男の人物像を、ぎりぎりのユーモアを交えて描くこと。
前者について言えば、ここで描かれているのは虐待すれすれの行為だ。コントのように明るい筆致で書かれているものの、茂男のしていることは要するに育児放棄なのである。彼は口先だけで愛を語り、それに健太は必死ですがろうとする。父親が欲しいと思うがゆえに、何をされても耐えてしまうのである。
そしてそれを「厭な小説」でやったことにも意味がある。身勝手で、嘘つきで、卑屈で、粗暴で、自分の欲望を抑えられなくて、社会のすべてを恨んでいる男。唾棄したくなるような人間なのに、読者の中には茂男にちょっと同情したくなってしまう人が出てくるかもしれない。それくらいの愛嬌は担保できているはずだ。フランスの作家エマヌエル・ボーヴの傑作「ダメ男小説」『ぼくのともだち』に(訳者の渋谷豊インタビューがおもしろいから読んでください)、主人公のうっとうしさを表現するものとして「ぼくは人と並んで歩くと、知らず知らずのうちに相手を壁に押しやる癖がある」という一文がある。茂男というのはまさにそういう人物で、好きになるのが難しいキャラクターなのだ。それをデビュー作で書いたというのは、作家として冒険だったと思う。
小説としてよくない要素は、上で紹介した部分以外のすべてである。「隣家の柿を盗もうとして覗きと間違われ、茂男が警察に捕まる」以降のストーリー展開は、私には腑に落ちないものだった。つぶやきシロー、いい話に色気出しすぎ。いや、いい話にしたいのなら、もっと小説が巧くないと無理である。
とまあ、文句は書き連ねたが、本書を読んでおもしろくなかったかといえば、十分楽しめたというのが本音である。何よりも子を持つ親として反省するところが大きかった。自分も茂男みたいになっていないか。茂男みたいな振る舞いをしたことは過去になかったか、と誰もが思うはずである。