候補者5名のうち、辻村深月と貫井徳郎が3回目で、あとはすべて初候補作入りという新鮮な顔ぶれだ。2008年の第138回以来、9回ぶりに時代小説の候補作がない直木賞でもある。
今回、最年少の朝井リョウが受賞を果たせば23歳での快挙となり、戦後では平岩弓枝(第41回)の27歳4ヶ月を塗り替え、1940年第11回の堤千代の22歳10ヶ月の記録を塗り替えることになる。しかも初の平成生まれという勲章もつく。また、原田マハ『楽園のカンヴァス』は第25回山本周五郎賞をすでに獲得しているので、これが受賞すれば2004年の熊谷達也『邂逅の森』以来の、直木・山本同時受賞作になるのだ。さらに細かいことを言えば、宮内悠介『盤上の夜』は受賞作が第1回創元SF短篇賞山田正紀賞を受賞しているため、狭義のSFに分類が可能な作品だ。狭義のSFが直木賞を獲った例は極めて少なく、1988年に第99回の景山民夫『遠い海から来たCOO』があるのみである(この作品を「狭義の」SFに分類していいかどうかは議論の余地があると思うが)。
こんな感じにさまざまな「記録」がかかっているわけである。では、個々の作品をご紹介しよう。
朝井リョウ『もういちど生まれる』(幻冬舎)
5篇から成る短篇集だ。帯に名前が書かれた5人がそれぞれの話の主人公である。
その年齢に達することについて、主人公たちはそれぞれに屈折した思いを抱えている。さまざまな成分が交じり合った気持ちだが、もっとも多いのは焦りの感情だろう。「こんなことでいいのだろうか」と、自身をもどかしく感じる。「燃えるスカートのあの子」の翔多は「いい年をして夢を見ている連中」に違和を感じつつも、そう思う自分には何も特別なことがないということに気づいている。ただ、それでどうしようという気持ちはなく、ただへらへらと日々を過ごしているのである。逆に言えば、へらへらとした日常に彼は守られている。だが、その庇護が外れる瞬間がやってくるのだ。事実の重みをつきつけられ、何もできずにうつむくしかない自分を意識する。そんな局面を描いた連作集だ。
23歳の作者は、さすがに若者言葉を使いこなしている。本の前半には、その「武器」に頼って文章が荒れたように見える個所も散見される。
辻村深月『鍵のない夢を見る』
これも5篇を収めた短篇集で、各話の題名に「放火」「殺人」といった単語が含まれているが、別にミステリーの趣向で統一されているわけではない。たとえば「石蕗南地区の放火」は、とある放火事件がきっかけで主人公が昔自分に言い寄った男と再会してしまい、その無神経さを思い出して苛立つ、という話が中心になっている。放火という事件よりも、その男についての記憶が触媒になって起きる出来事のほうが重要なのだ。もちろんミステリー的な仕掛けにも意味があるのだが、その要素だけで作品が終始しているわけではなく、主人公が自分ではどうにもできないと感じている運命の桎梏や強迫観念とどう対峙するのか、という方に重心は存在する。育児恐怖を描いた「君本家の誘拐」は最もわかりやすい例だろう。
それぞれの主人公が無遠慮に他者に向ける、意地悪な物言いにはぜひ注目してもらいたい。「石蕗南地区の放火」ではモテない男がいかに女心を理解していないか、ということが残酷に語られる。
貫井徳郎『新月譚』
かつて、人気絶頂の49歳で筆を折り、以降は完全に沈黙を守った作家がいた。ある新米編集者が彼女に興味を持ち、新作を書かせたいと意気込んで接触をとる。その作家、咲良怜花は、編集者の熱意にほだされて自身の半生について語り始める。
貫井徳郎の3回目の直木賞候補作は、こうした導入部を持つ「作家小説」だ。小説を牽引する謎が2つある。第1は、絶筆の謎だ。
咲良が編集者に肉体関係を迫られるくだりなど、たぶん実話を下敷きにしているエピソードがいくつかある(迫られたのは貫井ではないが)。当代一の流行作家として登場する人物は、おそらく複数の人物からエッセンスを抽出して造形されたものだろう。そうした具合にゴシップの味もある。「作家小説」は決して新しい試みではないのだが、複数の要素が備わっているので総合点は高くなっているのである。
原田マハ『楽園のカンヴァス』
ニューヨーク・MoMA美術館が所蔵するアンリ・ルソーの大作「夢」と、まったく同じサイズ、同じ構図の作品が個人所有のものとして存在するという。物語のはじめでは、ルソー研究では世界のトップクラスと言っていい2人の学芸員が、その鑑定のために召集されるのだ。鑑定に与えられる期間はわずかに1週間しかない。しかも絵の所有者である富豪は、2人の鑑定者に奇妙な条件をつきつけてきた。絵の成立の真相を伝えるという手記にそれぞれが毎日1章ずつ目を通し、読了したところで結論を出さなければならないのである。そこに綴られていたのは、画家として不遇な生活を送るルソーと、彼のだらしのない境遇に苦々しい視線を送る、ある女性の物語だった。
恋愛小説の書き手として知られた原田が突如世に問うた美術小説である。もっとも原田には長年にわたって美術業界で働いていた実績があり、ルソーは彼女が大学時代から関心を持ち続けていた題材だった。まさに満を持す形で原田はこの作品を書いたのである。
美術小説として本書が素晴らしいのは、小説全体が額縁に収められた絵のような構造になっており、これを通読するとアンリ・ルソーという画家に出会ったような気分にさせられる点だ。ルソーはヒューマニズムの作家だったが、その人柄を反映したかのように、小説内で語られる人間ドラマも温かい手触りである。
宮内悠介『盤上の夜』
ボードゲームを題材にした連作短篇集で、囲碁に始まって囲碁に終わる。人類は、その歴史のある時点で、戦争行為を盤面の駒の動きへと象徴化することを思いついた。おのれのエゴをぶつけあった結果が戦争であり、個人レベルの争闘だとするならば、それが象徴化された盤面からは一切の「わたくし」の要素が抜け落ちている。あるのは、駒を闘わせるために必要な観念のみなのだ。ほんのわずかの人間だけが、そうした観念のみが支配する世界に我が身を投じることを思いつく。その瞬間から、彼の人生には真の意味での人生が存在しなくなるのである。彼の人生は盤上にあるからだ。
表題作は、観光旅行をしていた女性が誘拐され、四肢を切断されて「ダルマ女」にされるという都市伝説から着想を得ている。「ダルマ女」の境遇に身を落とした灰原由宇は、必死で囲碁のルールを覚え、賭け碁によって我が身を救うのである。帰国した彼女は、棋界に身を投じ、プロとしてのしあがっていった。
小説は異色の棋士についての擬似ドキュメンタリーの形で綴られている。主人公の分身といえるジャーナリストは、灰原由宇の壮絶な人生に触れた後も、他の「盤上に生きた人々」の非凡な生涯を追っていく。古代チェスについて書かれた「象を飛ばした王子」以外は、収録作はすべてこの形だ。ジャーナリストとゲームのプレイヤーたちの心理的な距離の遠さは、そのまま読者と小説の登場人物たちのそれにも重ねられている。「盤上」は遠い彼方に輝いている。手が届かないからこそ、それは美しく輝いて見えるのだ。どの作品もおもしろいが、個人的には麻雀を扱った「清められた夜」がお気に入りである。故・安藤満プロの「亜空間戦法」について言及されるなど、麻雀に傾倒した時期がある人間にはたまらない遊びが随所に仕掛けられている。牌活字を使わずに書かれた闘牌場面としては、これはベストの出来なのではないだろうか。
(杉江松恋)
芥川賞編へ!
大森望×豊崎由美両氏の「ラジカントロプス2.0文学賞メッタ斬り!スペシャル第147回芥川賞、直木賞予想編」も併せてお聴きください。